藤の想い出 2

雲一つ無い澄んだ青。本当に空の向こうまで見えてしまう様な感じがする。手を伸ばせば届きそうなくらい近くに見えるのに、どうしても掴めない色。もう、何度目の夏の空だろうか。

そう思いながら昼を過ごせば、すぐに冷えた夜がやってくる。退屈な時間には変わりないが、最近はちょっとした退屈しのぎが向こうからやってくる。


「烏之瑪よ」

『なんだ』

「こうやって夜這いに来てくれるのは嬉しいが、結姫がやきもきせんか?」

『たわけ』


すっぱり切られた。ちょっとくらい相手してくれては良いではないか。ひどいな。

烏之瑪はこうやって自分のところへ夜な夜なやって来る。そうして、例の人の子を見つけられなかったことを伝えてくる。そのついでに夜が明けるまで自分の話し相手になってくれるのだ。


『そういえば、お前は何の妖なんだ?』


唐突に言われた。でも自分は動じない。動じる必要は無いからな。


「自分か? 自分はあれだよ」


トンネルに向けて人差し指を突きつける。


『……トンネルか?』

「違う違う。その先だよ。このトンネルの先に藤の樹があるんだ」


淡い紫の、小さな花をつける樹木。その樹が一つだけ、トンネルの向こうに生えている。

花の咲く季節になると寂しさや美しさを混ぜ合わせて鮮やかに咲く。鈴なりに咲く花のやかましさは自分の事ながらそれは見事だなと毎度思う。あんなに咲いても、見る者なんてそうそういないのに。

お化けトンネルと呼ばれるここも、その季節だけは華やかになるわけだな。小物な妖もここぞとばかりに集まって騒ぐから、それはそれは賑やかだ。人間には見られずとも、物好きな同類はやって来てくれるから無駄ではないんだろう。


『ほう。だから着物と髪が紫……いや、藤色なのか。しかし何故西洋の衣装なんだ?』


自分は自分の衣装を見下ろす。藤色を基調としたフリルやレースをふんだんに使ったドレスだ。首もとには赤色のリボンタイで、袖が広がっているタイプ。人間の女の子ならば誰でも夢見る服だろうよ。

それらを一瞥し、それから親指を立てて、


「昔、西洋の衣装を着た人形を持っていた人の子がここを通ったことがあってな。その人形があまりにも可愛らしくて、真似してみたのだ」

『……その面にその着物は合わんぞ』


む。何もそこまで言わなくてもいいではないか。ちぐはぐなのは自分でも分かっている。


「烏之瑪。自分は傷ついたぞ」

『我は本当のことを言ったまでだ』

「烏之瑪、お前はどちらかと言えば男に属すのだろう? 結姫に言ったら叩かれるぞ?」

『む。それは困る。気をつけよう。結姫に叩かれるのはまだしも、キレて祓われたらシャレにならん。……まぁ今のあれにそれができるとは思わんが。報復は確かに来るだろうしな』


最後の方は声が小さくてうまく聞き取れなかった。

烏之瑪は首をすくめる。結姫ってそんな短気そうには見えなかったが、用心する事は無駄ではないだろう。話相手が減るのはつまらん。

そんな会話をしていると、どこからか視線が感じた。鋭い視線を隠そうともしていない様子だから、思わずそちらへ視線をやる。

そこには犬のような黒い影がいた。

「烏之瑪」

『なんだ』

「あれはお前の知り合いか」

『む?』


烏之瑪が振り向く。

トンネルの入り口付近のガードレールに腰掛けていたのだが、視線はその入り口から感じた。そちらへ促すけれど、烏之瑪が見たときにはもう既にいなくなっていた。


『どんな奴だった?』

「黒い犬みたいな奴だ。お前を見て笑っていたぞ」

『……そうか』


声を幾分か低くし、思案するようにピクリとも動かなくなってしまった。おーい、烏之瑪?


『急用ができた。今日はこれで失礼するとしよう』


翼をばさりと広げる。おおう、急にだったからびっくりしたぞ。

そんな自分が完全に見えていないようで、烏之瑪は飛んで行った。なんだ、つまらんぞ。

自分は、さてどうしようかと首を捻った。今宵も月が綺麗だから、それを見上げることぐらいしか思い付かないがな。



それから数日の間、見慣れぬ妖かしが自分の目につくようになった。遠巻きに自分を観察しているようで気持ちよくはなかったが、ちょっかいをかけてくる様子もないので放っておくことにした。

烏之瑪に相談しても、烏之瑪がいるときに限って例の妖かしは姿を消すからどうすることもできずに時間だけが経った。

そして結姫が自分で提示した期限の最終日に、朗報と共にそいつは襲いかかってきた。


◇◇◇


からりとした空は今日も虚しい。見つめてるだけで、心が鈍くなるような感じがする。ぼーっと突っ立っているのも、あまり苦ではなくなってしまったくらいにな。

今日が期限な訳だが、とトンネルの前でいつも通り佇んでると、結姫が髪をピコピコと揺らしながら走ってきた。

おや、二週間ぶりだな。


「トーコ! 見つけたわよ、貴女が探していた少年!」

「本当か、結姫」


トーコとは自分の名前だ。少年がつけてくれた名前。結姫がその自分の名を呼んだ。そしてあの少年を見つけたと言うのだ。自分は自分の耳を疑った。本当か、本当にあの少年なのか。

自分はトンネルの前から、一足飛びで結姫の目の前に行く。体重なんてものはないから、風の流れでふんわりと自分の身は花弁が舞うように移動する。


「ちょ、ビックリするじゃない」

「どこだ、あの少年はどこにいる結姫」


ぶつかりそうになって結姫が慌てて立ち止まる。ぶつかりそうというか、実際には少しぶつかった。お面が結姫の顔に当たる感触がしたからな。結姫が呻いたが気にしない。自分の心を占めるのは、あの少年のことだけ。あの、罪悪感だけ。


「お、落ち着きなさい、トーコ。今、烏之瑪が誘導してるから」


額をおさえながら結姫は涙目でふふふと笑う。……誘導?

不思議な言い回しに、自分は一瞬戸惑った。どういうことだ、結姫が連れてこれば良いのではないのか?

しばらく待ってみる。ふむ。どれくらい待てば良いのやら。待つのは得意だが、これはお預けを食らっているようでなかなかよろしくはないな。

不意に結姫が笑う気配がした。


「ほら、来たわよ」


結姫がすいと指差す方を見ると、黒髪の好青年がカラスを追いかけてやってくる。ん? 青年?


「結姫、あれは少年じゃないぞ」


自分は首を傾げる。少年にしては大きすぎるだろう。どう見ても青年だ、アレは。

素直に言えば、はあ? という顔で結姫が自分を見た。何だその目。何か間違ってることを言ったか?


「何言ってるのよ? 人間の時間で十四年って結構長いのよ?」

「そうなのか?」

「そうよー。探すの大変だったんだから」


ちなみにどんな方法で探したのか聞いてみると、結姫はけろりとした表情でこう言った。


「まず噂を流したのよ。お化けトンネルのお化けが町に下りてきたっていう噂」

「それだけで見つかるわけがないだろう」

「当たり前でしょう」


結姫は呆れたように言う。

いいから勿体ぶらずに話せ。


「その後であたしは人間に簡単な暗示をかけただけよ。あたしがトーコに見えるように」

「……そんなので見つかるのか?」


半信半疑になって聞いてみれば、結姫はくすりと笑った。


「噂が人を呼ぶのよ。水面下で広がった噂は、目撃者によって現実味が帯びる。あたしはその噂に対して怪しい動きを見せた人を探しただけ。トーコの待ち人がこの狭い町にまだ住んでいて、また会いたいと思っていることが大前提の計画だったけれど、うまくいってくれて良かったわ」

「少年が、自分に会いたがっている……?」

「えぇ。そうじゃなかった、あなたに会わせたりなどさせないわよ」


結姫は結っている自分の髪を後ろにはらって、腕を組んだ。自分は首を傾げてその続きの言葉を促す。


「つまりはどういうことだ? 少年は自分を恨んでいて当然だろう。会いたがっていて当然なのではないか」

「トーコ。それは違うわよ」


ぴしゃりと遮った結姫の声は今までで一番真剣味を帯びていた。

ゆっくりと一言一言大切に噛み締めるかのように、結姫は声を発する。


「怨みをもって会いたがる者をあたしは引き合わせるほど愚かじゃない。待ち人はあなたにずっと会いたがっていたの。あたしから言うことではないから言わないけど、ただこれだけは覚えておきなさい。あたしは負の感情を持った者に肩を貸すようなことは絶対にしないのよ」


恨んではいない。結姫はそういうことを言いたいのだろうが、それは分からないだろう。人の感情など妖怪よりも複雑怪奇なのだから、お前の見解が正しいとは言えないだろう?

そう言えば、結姫は肩をすくめてため息をついた。なんだ、自分は間違ったことを言ったつもりはないぞ?


「……そうね。それにしてもびっくりしたわ。何気にあたしの学校の先生だし、あの人」


自分は目を丸くした。結姫には自分の表情がお面のせいで見えないだろうが。

そうか、十四年も経てば人の子はそんなに大きくなるのか。無事、成長しているようで安心した。自分の心が少しだけ軽くなる。

視線の先で朧気に揺れていた影は、今でははっきりと見えるところにまでやって来ている。


「待て、カラス! 俺の眼鏡返せ!」


青年が叫ぶ。足元がおぼつかない。かなり息が上がっているところから、ずっと走ってきたのだろう。かわいそうに。……それにしても眼鏡って。


「結姫よ。もしかしなくても、あの少年の眼鏡を盗ったのか?」

「ええ。あたしじゃなくて烏之瑪だけど」

「眼鏡はさすがに危ないだろう。あれは、見えないからかけるものだろう?」

「仕方ないじゃない。アレしか盗れそうなもの無かったんだから」


盗る必要はないと思うのだが。心の中で突っ込みを入れるが、探してもらったのだから文句は言うまいと口をつぐんだ。

小さく見えていた青年と烏之瑪がだんだん大きくなる。烏之瑪は眼鏡を自分の目の前にカチャンと落として何処かへ飛んで行った。おいおい、レンズが割れたらどうする。

腰を落として眼鏡を拾う。シンプルな細い銀フレームの眼鏡。昔は眼鏡をつけていなかったな。

人影が自分に落ちてきた。そっと視線を上げると、青年がいつの間にか目の前にいた。


「あ」


思わず声を上げる。


「藤子……」


青年も自分に気がつく。ああ……。

会いたかった。面影は変わっているが、この草のような匂い。あの少年だ。確かにあの少年。


「……少年よ。自分の姿がまだ見えるか?」


眼鏡を差し出す。……さっき自分の名前を呼んだから知っているが、訊く。

訊いて、もう一度確信を得る。

少年は目を細める。眼鏡がないからよく見えないらしい。


「……ああ、見える。藤子に見えなくしてもらった筈なのに、どういういうことだ?」


受け取った眼鏡を掛けて、ちゃんと真正面から相対すれば、青年が顔をしかめる。


「……すまない。自分は嘘をついたのだ。確かに、小さき妖を見えなくはしたが、自分のような中級の妖まで見えなくすることはしなかったのだ」


やっと言えた、やっと。

自分の後悔を胸のうちからさらけ出すように言葉が滑りでた。ずっと、ずっと言わなくてはいけないと思っていた言葉。自分から会いに行くのが怖くて、彼から訪ねてきてくれないかと待ち望んでいた。

だってそうだろう? 自分は嘘つきなのだ。罵られても仕方はないが、嫌われたくはないと思ってしまったのだ。自分から探しに行かないで、ここでぼんやりと待ち続けたのはそれが理由。

散々待ち続けた状況をいざ目の前にしてしまうと言葉が詰まってしまうのではないかとも思ったが、そんなことはなかった。ちゃんと、伝えられる。ちゃんと、訊くことができる。


「少年、自分が憎いか?」


ポツリと呟く。少年に謝りたかったのだ。自分は少年を待つうちに、中級の妖に食べられてないか心配になった。その時に襲われるだろう恐怖をふと想像したのだ。

描いた恐怖に自分で身震いしてしまったら、ただの娯楽のために待ち続けることなど出来なくなってしまった。怯え、後悔し、自分を恨んだ。なんであんな中途半端なことをしてしまったのかと。

もし少年の身にその時が訪れてしまったなら。さぞ自分を憎んだことだろうと思った。

だから自分はどんな罵倒にも耐えるつもりで少年の前に立っているのだ。結姫の言葉など宛てにはならん。

だが。


「いいや」


予想外の言葉を言われて、首を傾げる。何故だ? 普通なら自分が相当に憎いだろうに。

どうして少年は、そんなに柔らかい表情で自分に笑いかけてくるのだ?


「あの時以来、俺は妖かしを見ていないからな。憎んでいない。逆に藤子に会えて嬉しいよ。俺も言いたかったことがあるんだ」


青年は首を振った。そして屈託無く笑う。……今この少年は何を言った? 嬉しい? 嘘だ。


「嬉しいはずがない。自分は嘘をついたのだ。運が悪ければ少年は妖に食われていたのだぞ!」


自分は思わず声を荒げた。なんなんだ、この間抜けた思考は。青年は馬鹿なのか?

そう思っていると、青年はちょっとだけ真顔になる。


「藤子、お面を取ってもいいか?」


自分は黙り込んだ。青年はそれを肯定と受け取ったのか、自分のお面に手を掛ける。

お面が外れた。

いつの間にか距離をとっていた結姫が、遠く視界の端で息を飲んだ気がした。


「変わらないな、その頬」


……自分の右頬には紫色の藤の花房のような痣がある。

少年が会いに来たとき、自分はこの素顔を見せた。少年が気になってしょうがなかったらしく、何度もせがまれたからだ。


「俺は運が良かったみたいだ。こうしてまた、お前と会えたからな」


この痣はこの辺りの妖かしも進んで見ようとはしてこない。それほど醜いのだ。自分の顔は醜い。この痣を知ってか知らないでか、なかなか小物の妖かしが特別な事情でもない限り近寄ってこないのは、つまりはそういうことなんだろう? 花はどんなに華やかでも、自分の姿は綺麗にはならなかったらしい。

……お面はそれを隠すためだと思っていた。自分の醜い痣を。

しかし、


「ありがとうな、藤子。俺の願いを少し叶えてくれて」


ありがとう。そう言われただけで心が何かに満たされる。満たされるだけでなく溢れてしまった。

涙が泉から零れる様に瞳から次々と溢れるのだ。止まらない、止められない。ああ、お面はこのくしゃくしゃな顔を隠す為にもあるのだな。

お面を返してくれ、青年。自分の顔が余計に醜くなってしまう。お前には見られたくないんだ、こんな醜い顔を。

なのに青年は、笑って返してくれない。


「そんなに後悔してたんだな、藤子。それは優しさだ。お前は優しさを学んだ。悪戯好きな妖怪には決して分からない事だ」


よしよし、と頭を撫でられる。口調が諭すようで、まるで自分を子供のように扱ってくる。


「子供のように扱うな……!」

「いいじゃないか」

「自分は少年の何倍も長生きなのだぞ」

「その割には泣き虫なんだなあ」


自分は照れ隠しに顔を臥せた。涙も袖で拭う。

ついでとばかりに、衣装の裾を翻して結姫のいる方に体を向けた。結姫は自分から距離を置くようにしてトンネルの入口に、否、少し中に入った影の所にいた。


「結姫……ありがとう」


ぼそりと礼を口にはするが、この距離じゃ届かないだろうな。

さて結姫は約束を果たした。それならば次は自分の番。自分が約束を守る番だ。

顔をあげ、みっともない顔なんだろうなと思いつつも、自分は青年に微笑みかける。一生に一度のお願い、だ。


「……少年、否、もう青年か。青年、自分は字が書けないのだ。なのに、字を書かなくてはならないのだ。だからお前の願いを少し叶えた代わりに、少しだけ自分の願いを叶えてくれないか? 字を、人の子の字を教えて欲しい」


図々しいだろうか? しかし自分は、少しでも少年と会話がしたいのだ。これを口実にゆっくりと、じっくりと語りたい。

───後悔して待っていた時間は無駄でなかったことの証として。

青年は頷いた。頷いてくれた。


「いいよ、藤子。事情は分からないけれど教えよう」


ありがとう。今度は自分が彼に向かって言う。

感謝の言葉と共に自分は目を閉じる。あぁ、青年。自分はお前に沢山語りたいことがあるのだ。お前の風景もまた、教えてくれ。

そっと抱き寄せられたから、自分は彼に身を委ねる。いつの間にか大きくなったこの身体。すっぽりと自分をその腕に抱き止めてくれた。


「……それはそうと」

「なんだ青年」

「その呼び方はやめてくれ。ちゃんと俺にも名前がある」


青年の腕の中で顔をあげれば、青年は苦笑いした。

自分は唇をとがらせる。


「そうは言うが、自分は青年の名を知らない」


青年は名前を教えてくれなかったのだ。自分には名をつけたくせにな。

青年は目元を和ませた。それから照れたように頬を掻く。


「改めて言うのは恥ずかしいな。俺の名前は椋田雪斗だよ」

「ゆきと……」

「そうだよ」


なんだか心が温まる。名を聞くだけでもかなり近づいた気持ちになれる。

ああ、あんなに遠回しな事をしないで、素直に話し相手になって欲しいと言えば良かった。

ちょっぴりの後悔と大きな至福。

ない交ぜになって自分の心を満たしていく。

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