藤の想い出 3

名残惜しいが雪斗の腕から抜け出すと、お面を返してもらう。こんなみっともない顔、さらし続けたくはない。少し残念そうにしながらも、雪斗はお面を返してくれた。なんでそう、残念がるんだ?

雪斗は、何かを探すように視線をやる。だがすぐにある方向を向いて視線を止めた。その先には……。


「それにしても結姫が妖怪を見れるなんて驚いたぞ」


距離を離れて見ていた結姫が、ぎょっとした。自分は素知らぬ顔でお面をつけ直す。


「えっ? 先生、あたしがいるのいつから気付いてましたっ? あたし、姿を見られる前に距離取ったんですけど!」


結姫がトンネルから飛び出してくる。全速力で走ってるようで、ミニスカートが際どくめくれる。雪斗はそれを見て苦笑した。


「いやだって、ここ数日、仕組まれてるような感触自体はあったからな」

「それでも距離取ってたから分かりませんよねっ? しかも名指しで特定までできる理由にはなっていませんよっ!」


触覚のような髪をピコピコさせて大慌てする結姫を見ながら、雪斗は笑う。こうやって感情を表にする結姫はなんというか、見てて好ましいな。

普段の結姫は年増な貫禄を見せてくるから。


「んー。勘というか気配というか……そういうので分からんか?」

「先生案外力強いですよね!?」

「ははは」


ん? 雪斗は力が強いのか?


「雪斗、お前は力が強いのか?」

「知らん。比べる奴なんていないからなあ」


顎に手を当て首を傾げる雪斗。どうなのだろうか?

もし力が強いのなら、妖怪に狙われなかったのは本当に幸運すぎる。幸運すぎて不思議なくらいだ。

結姫は取り乱すのを辞めたようで、いや落ち着いたようで、腕を組んで自分の左隣に立つ。


「先生はかなり力強いですよ。あたしの場合、単独では妖怪の気配すら掴めないし。人の気配なんて以ての外です」

「そうなのか? じゃあ何で藤子と一緒にいるんだ? 藤子に遭うには徒歩でここまでこないと。こんな場所、普通徒歩で来ないだろう?」

「それは……」


結姫はしどろもどろになる。なんだ? 素直に言えばいいのに。


「結姫は自分に日記を書けと言ってきたんだ」

「日記?」

「ちょ、トーコ!」


なんだ? 言ってはまずかったのだろうか?

結姫が恨めしそうにこちらを見上げる。身長が年のわりに低い結姫が自分を睨み付けてきてもなんも怖くないぞ。


「日記なんて書いてどうするんだ?」


雪斗の声が上から降ってくる。結姫より身長の高い自分よりも、更に雪斗は身長が高いからな。

その雪斗の声は微かに堅かった。


「先生には関係無いです」


ぷいっと顔を背ける結姫。それは自分も気になるぞ。

どうして結姫は日記を妖怪に書いて貰っているのだろう。謎だ。とても気になる、気になるぞ。


「先生に言えないことか? 先生はお前のこと案じてだな」


結姫は一瞬冷めた目になった。氷のように冷たい目。この目のせいで結姫の表情が異常に見えた。

ぞくり、と背筋に冷や汗が垂れた感じがする。雪斗の方をそっと伺うと、彼は険しい顔で結姫を見つめていた。

不意に結姫が駆けだした。


「おい、結姫!」


スルリ、と雪斗の横をすり抜けた。雪斗が後ろを追いかけようとして身を翻す。

……人の子は分からない。他人の心配はするくせに、自分の心配をされるとバツが悪くなったように逃げ出す。結姫の冷ややかな目は気になったが、今の彼女はそれに近い行動を取った。

心配されることが嫌なのだろうか? それは善意から来ることで、悪いことではないのに。

自分はぼーっと彼らの姿を視線で追いかける。日記については是非聞きたいが、どうやらそれは叶わないらしい。


「……自分も戻ろうか」


自分はトンネルの向こうにある藤の元へ行こうと、くるりと反転した。日記はまた後で受けとれば良いか。もしかしたら烏之瑪が持ってきてくれるだろうしな……ん?

……何かいる。

自分の真後ろに黒い物体がいる。結姫と雪斗がいる間にはいなかったはずだ。思わず後ずさった。

数歩後ずさっただけで黒い物体の全体図が見える。少し大きめの犬のように見えた。これは……。


『ニッキをヨコせ……』

「お前、こないだ烏之瑪を見て嘲笑ってた奴だな」


一体何の用だ。自分は烏之瑪じゃないぞ。


『ニッキはドコだ……』


こいつ、日記帳が目的か? 一体、結姫は日記にどんな秘密を隠しているのやら。それはそれで思いつつもじりじりと後退する。


「さてな。自分は知らん」

『ムダだ……おマエがニッキをモっているのはシっている』

「何馬鹿なことを言ってる」


こいつ、日記のことを探っていたらしい。何をもって自分が日記を持っていると確信したのかは分からんが、よほど欲しているとみえる。だがまぁ無いものは与えられないわけで。あったとしても、そもそも与える理由が無い。

最初の烏之瑪との会話を聞かれたか。そこから結姫との接点を待ったことで確信したのか。全くもってこれだから面倒ごとは背負い込みたくないと夜な夜なやって来る烏之瑪に愚痴ったのに……ん? 烏之瑪?


「そういえば烏之瑪はどこだ?」


雪斗の眼鏡を落としたっきり、行方を眩ませたままだ。結姫の方へと行ったのか?

と、いろいろ考えていると犬のような奴がじりじりと寄ってくる。ええい、鬱陶しい。

自分はくるりと元の方へ反転した。そして駆けて、正規の道ではなく草木が好き勝手に育っている土手に飛び込んだ。

木の枝がお面に引っかかり嫌な音がする。茂みに引っ掛けたドレスの裾がほつれていく。それでも走る。

大きめの石があったから飛び越える。地面を蹴って、すぐに足の関節を曲げる。それだけで下り坂になっている土手に置いてある石を飛び越えられる。

後ろを振り向いた。自分はかなり速く走っていたはずだ。

なのに。


「………っ」


犬のような奴が真後ろでにたりと笑う。この速さで付いてきたというのか!?

流石の自分も焦り、もっと速度を上げようと思ったそのとき、


「ムダだ……!」


背中が軽く押された。

身体が宙に浮いた後。故意に浮かせたならば着地も楽だが、そうでない場合の末路など決まっている。

ズシャッ!

泥と葉っぱと小石を巻き込んで盛大に転がる。何度も転がったせいで、衣装のあちこちが擦り切れて台無しになった。面が割れなかっただけマシか。

のそりのそりと、余裕をかまして獣の妖かしはやってくる。腹立たしいことに、奴が突進してきたせいで自分は転んだのだ。

奴がこちらに届く所に来る前に、立ち上がろうとする。幸い見た目ほど裂傷は酷くないので、四肢はきちんと動くし。

なのに。


「ククク……」


のしり、と背中に乗ってくる。まだ距離はあった気がするのに早くないか!?


「……っ!」


骨が軋んだような痛みが走る。犬のような奴が妖力を込めて踏みつけてくるのだ。

圧迫され、息が詰まり、身体が悲鳴を上げる。とにかく痛い、ひたすら痛い。


「ニッキをヨこせ……」

「知らんと、言って、いるだろう……!」


泥を掴む。痛みがひどくなってくる。ただ単に圧迫されているだけでなく、触れているところから奴の妖気が入り込んでくる。激痛が身体を巡った。


「うぐ……!」

「オトナしくイえばヨいモノを……」

「性格が悪いんでね……!」


自分の妖気を使って奴の妖気の循環を打ち消す。それでも埒があかない。

───仕方ない、奥の手を使え。

自分は決意する。奥の手というほど奥の手ではないが、付裳神だからこその逃亡手段。

自分は妖気の循環を止めるのを辞めた。途端に自分と奴の妖気が混ざり合い、激痛が走る。それを歯を食いしばって我慢し、自分の妖気を拡散させた。

自分の姿が、夜色の靄と藤の花びらへと変わって霧散する。途端に身体から痛みがひく。

───これで暫くは保つな。今のうちに結姫に連絡を。

自分は結姫を探すため空に舞い上がった。


◇◇◇


「しつこい、しつこい、しつこい!」


梨香は癇癪を起こしたように、早歩きで坂を下る。ガードレールの向こうからから木の枝がこんにちわしていることすら今は気に障って、本当に鬱陶しかった。

その後ろを追いかける姿がある。雪斗だ。


「おい、待て結姫!」

「待たない! しつこい!」


とか言いつつも梨香は立ち止まり、きっと雪斗を睨む。


「先生には関係ないわ。あたしが妖かしたちとどんな付き合いをしてても、先生には関係がないじゃない」

「いや、ある」


梨香は半眼になる。何があるというのか。

梨香と雪斗は単なる生徒と教師。今回の事がなければ、接点すらまともに持たなかっただろう。

何を今更。


「先生じゃない。妖怪が見える者として心配なんだ」


梨香の目が少し驚いたように開かれる。

そんな事を言われるなんて思ってもいなかった。

予想外の言葉に戸惑いの表情を見せた梨香。追い付いた雪斗は神妙に頷いた。


「……どういうこと?」

「世の中には藤子のように優しい妖怪ばかりがいる訳じゃないんだ。俺も昔はいろんな奴が見えて、そいつらは俺を驚かしてきた。それこそ、些細だが俺にとっては死にそうなレベルの悪戯をされたりも」


息一つ乱さず追い付いた雪斗は、年長者としての務めを果たさねばいけないと感じていた。結姫梨香という少女は、危うい。


「あのな、結姫」


雪斗は語る。言った通り、先生としての立場ではなく、妖怪を視る人間の立場から。


「妖怪は人のように嘘を平気でつく。人を疑うように妖怪を疑え。妖怪を無条件で信じるな」

「そんなの知ってるわよ。そんなこと色んな人に言われたわ。それこそ妖かしにさえも、ね」


口の端を僅かにあげて自嘲するように、結姫は笑う。長い年月を生きてこれば、それくらい分かっているのは当然。

結姫は雪斗の目を見る。


「先生、あたしの目を見て」


左手で己の左目に触れる。黒ではなく、光の当たる角度によっては血よりも深い赤になる。

それはまるでカラスの瞳だ。闇に光る不気味な色。

ぐっと雪斗のネクタイを引っ張って、自分の顔を雪斗に近づける。吐息がかかるほどに間近にまで近づいて、雪斗はその異様な瞳の色に気づいた。

雪斗の表情に察した梨香がふふふと蠱惑的笑みを見せる。


「綺麗な赤でしょう? ───あたし、妖と契約しているの」


左手を滑らせて、だらりと下げる。掴んでいた雪斗のネクタイも離した。

雪斗は背筋に悪寒を感じた。何かが、何かが違う。

梨香の気配が先ほどと違う。

思わず後ずさった。

梨香はその事に少しだけ寂しさを覚える。そう、一生を越えるほどの寂しさのほんの少しが湧き起こる。


「先生は勘がいいわ。きっとあたしが中途半端なのにも気づいたのでしょう? 霊力だけの事を言えば、先生の方があたしより力が強いわ。この言葉の意味」


分かる?

そう言葉を続けようとしたとき、梨香の背後に何かが落ちる音がした。雪斗はその落ちてきたものが何かをはっきりと目にした。


「!? 藤子!」


梨香が振り向くより先に、雪斗が駆け出す。

振り向いた彼女の視線の先には、土煙の中に倒れ伏した人影と、犬のような獣の影がいた。

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