第4話
「お邪魔します」
「はいどうぞー」
そんなやり取りを玄関で行い、奏の家に入る。
「先に部屋行ってて」
そう言われ、わたしは彼方の部屋に向かう。
奏の部屋の向かい。そのドアをノックした。
「彼方くん? 涼だけど。お見舞いに来たよ」
そう声をかけるけれど、一向に返事はない。眠っているのだろうか。
もう一度、控えめにノックする。
やはり返事はない。少しだけ、ドアを開けて中の様子を見ると、布団に丸まっているようだった。姿は見えないけれど、布団が膨らんでいる。
どうやら眠っているようだ。わたしは静かにドアを閉め、奏のところに向かった。
「寝てるみたいだから、今日は帰るよ」
「そう? 起こそうか?」
「いや、それは悪いから。起きたらこのゼリー、あげて」
「わかった。ありがと、ごめんねわざわざ来てもらって。なんかお菓子とか食べてく?」
「いいよ。今日は帰る。お大事に、って伝えて」
そう言い、途中で買ったゼリーを奏に渡し、その場を後にする。
さて、この後はどうするべきだろう。
家に帰って、一人になっても、考えるのは現状の意味不明さだけだ。何か、調べるべきだろうか。
図書館なら、何かわかるかもしれない――そんな淡い期待を胸に、今度は図書館へと向かった。
◆
結局、図書館では何もわからなかった。
性別が変わった――なんていうオカルト交じりの、或いは医学的にも珍しい例も存在するらしいけれど、制服やみんなの意識まで変わってしまっているわたしの現状にはどう考えても当てはまらない。
――一番考えられるのは、わたしがおかしいということ。
わたしの意識が、何故だか男だったのに今日の朝に突然女だったと勘違いした――精神的な問題の可能性。
これが一番あり得る、けれど、一番信じたくない。
――わたしが、おかしいの……。
不安を大きくし、わたしは覚束ない足取りで帰路を目指す。
早く帰って、眠りたかった。
今日は、疲れた。もう、何も考えたくない。
夕方、薄暗い道を、足早に歩いて行った。
家に着くと、母親が帰宅していた。今朝も早くから仕事に行っていたため、早く仕事が終わったのだろう。
「おかえり」
「……ただいま」
挨拶だけすると、わたしは部屋に向かった。下着だけになり、改めて、姿鏡でわたしの身体を見る。
どう見ても、何度見ても、やはり男性だ。
しばらくそうして見つめていると、扉が開き、母が顔を覗かせた。
思わず身体が強張り、凝視してしまった。
「ご飯出来たわよ。……電気なんて消して、どうしたの……大丈夫?」
わたしの姿を見て、心配になったようだ。
「大丈夫、着替えてすぐ行くよ」
そう言うと、静かに扉を閉めて出ていった。
自然に言えたとは思う。内心はドキドキだったけれど。
怪しまれていないだろうか。というより、娘――今は息子だが、我が子が下着姿で鏡の前で棒立ちしていたら、わたしならどう思うだろう。
――カウンセラーを紹介するかもしれない。
どうやって言い訳するかを考えながら、わたしは服を着て、リビングへ向かった。
リビングに入ると、カレーの臭いが漂っていた。
「さ、食べましょう。いただきます」
「……いただきます」
母はいつも通り、微笑んでいる。
何も聞かれないのが、逆に不安だった。ありがたくもあるのだけれど。
そうして、しばらく無言のまま、黙々とカレーを食べ進めていると、玄関が開く音がする。どうやら父親が帰ってきたようだ。
「おかえり」
「ただいま。お、カレーか」
そう言い、父も席に着く。
「学校はどうだ。そろそろテストだろう」
「まあ、それなりに」
今日まではそれなりに授業も聞いていたし、勉強もしていた。
けれど、今日は何をやったか全く覚えていない。テストは――今はそれどころではないだろう。それまでに、この問題が解決するのかどうか。
思わず溜め息が漏れそうになる。
「なんだ、心配事か?」
父が親切心でそう訊ねてくるが、わたしとしては答えようがない。
どう返そうかと思いあぐねていると、母が
「彼女でもできたんじゃないの?」
なんて微笑みながら言ってきた。
さっきの事態を、そう捉えたか――と思うが、後の祭りだ。確かに、鏡の前でボディチェック、色気づいたと思うものかもしれない。
少し驚いたように、父がこちらを見る。
「そうなのか、涼」
「彼女なんていないよ……ごちそうさま」
急いで残りのカレーを頬張り、立ち上がる。
年頃の子供に、恋愛系の質問はやめて欲しい。
というより、わたしは男女どちらを好きになればいいのだろうか――そう考えて、今までそう言った感情とは無縁であったことに気づく。
今のところは、大丈夫そうだ。
性別の問題で悩むことは、トイレくらいで十分だ。
「お風呂湧いてるから、入っていいわよ」
「わかった」
畳んだ洗濯物を持って、わたしはリビングを後にした。
「驚いたな」「美香ちゃんかしら、それとも奏ちゃん?」「そう言う詮索はやめておけ」「わかってるわよ」
そんな二人の楽し気な声は、聞こえなかったことにしたい。
部屋に戻ると、バスタオルとパジャマ、下着を持ってすぐさま風呂場へと向かう。
ゆっくりと湯船に浸かり、何も考えずに眠りに就きたかった。そんなことは無理だろうとわかっていたけれど。
しかし、服を脱ぎ風呂場に足を踏み入れたとき、再び問題に直面した。
――どう洗うんだろ、これ。
そう。股の間のそれを、どうすればいいのか。少し鏡が曇っているのが、よく見なくてすむという幸いなのか、どうなのか。
しばらくどう洗うのかということに頭を使ったが、わからない。わかるはずがない。
とりあえず、優しく擦りつつ、シャワーで流しておいた。ボディソープはついても平気なのかわからなかったから、水洗いだけを行う。
「はぁー」
湯船に顎まで浸かり、身体にお湯が染み渡ると同時に、思わず声を漏らす。
リラックスするつもりが、余計に疲れてしまった。
本当に、どうしてこうなったんだろう。これも正解なんてわかるはずがない。トイレの仕方、風呂の入り方と同じだ。
お風呂から上がったら、いろいろと調べないと。
ずっと、このままなんだろうか。そうも思うけれど、不安はあまりなかった。
どうしてだろう。
わたしが、いまだに恋と言うものを知らないからかもしれない。なんて、クサいことを考えてしまっていた。
けれど、だ。もし仮に、わたしが女の子だったとき、男の子に恋をしていたら――その状態で、わたしが男になってしまったら。そう考えると、恐ろしいことかもしれない。
世の中にはBLなんていう趣味もあるみたいだけれど(というより、奏がそうなのだけれど)、わたしには理解できないものだ。
この身体で、もしわたしが男を好きになるとしたら――そんなこと、考えたくもない。
大丈夫、今まで人を好きになったことはない。だから、きっと大丈夫だ。
そんなことを考えていると、少しボーっとしてきた。のぼせたのだろうか、お風呂から上がることにした。
リビングに居るであろう母に、風呂から上がったことを告げる。
そのあとは何もせず、ベッドの上に転がりこんだ。
――疲れた。なんで、こんなことに。
そんな問いに答えが出ることは、やはりない。
気づけば、わたしは微睡んでいた。この、心地良い感覚が、全身を包み込む。
でも、いろいろと調べないと――そう思うけれど、身体は言うことを聞かない。
やがて、意識は闇に吸い込まれていった。
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