26. この力は
「ご無事ですか、誠哉さん」
拳にほんの少し、血が滲んでいる。それを振り払い、黒衣の彼女は扉ではない場所から入室してきた。そばにあった椅子を蹴り飛ばし、家具を片腕だけで反対側の壁まで吹き飛ばし、真紅の髪の青年を仲間の背後からひっぺがして捨てながら。
思わず後ずさる文女には目もくれず、ぽかーんと自分を見つめている銀髪の青年を案じた表情は、普通の女性のものでしかないけれど。
「いや、僕より君の腕のほうが心配なんだけど。壁ぶち割るなんて」
「ああ。私、治るの早いですからご心配なく」
おずおずと、壁を叩き壊した拳を示す誠哉に蒼真は、軽く肩をすくめただけで済ませる。そうして、彼を背にかばうようにしてやっと文女に視線を向けた。誠哉に見せていた表情からは一変、目の笑っていない笑顔を彼女に見せる。
「そんなわけで、この方はお返しいただきますので」
「駄目よ。その子は私が買ったんだから」
「売ってませんから」
穏やかな口調でのやり取りだが、お互いに殺気をまとわりつかせている。張本人であるはずの誠哉は置いてきぼりにされた格好になったが、ここで口を挟んでも事態がややこしくなるだけだろう。
それに、文女が漆黒の目を細めながら舌なめずりをしてきたことでそれどころではなくなったから。
「買ったのは買ったのよ。だいたい、たかが人間の分際で、私の楽しみを邪魔しないで欲しいわあ?」
「たかが人間が、こんな力を出せると思っておいでで?」
魔族の女にとっては、獣人の血が入っているとしても蒼真は『たかが人間』に分類されるのかもしれない。だが彼女は、ふんとひとつ鼻を鳴らすと真上からベッドに拳を突きこんでみせた。
ばきめきという木が裂かれる音がして、寝床は見事にへし折れる。天蓋を支えていた柱を無造作に折り取る蒼真の姿を見ながら文女は、ふむと顎に手を当てた。
「混血、か。でも、うちの商品じゃないわよね、あなた」
「ええ。別の貴族が獣人に産ませた子ですから」
「え」
蒼真の言葉に、文女ではなく誠哉から思わず声が上がる。一瞬だけはっとして、それから理解したように彼女は頷いた。
「そういえば、誠哉さんにはお話してませんでしたね。力の意味、お分かりいただけました?」
「ああ、そういうことか」
詳しいことを聞いている余裕がある場面、ではない。だから蒼真は、自分の力が強いその理由だけを理解しろとそう言っている。誠哉はそれに気づいて、納得して頷いた。
誠哉自身の体重よりも重い、愛用のモールを振り回すことができる彼女。
荷物を積んだまま横倒しになった荷馬車を、一人で起こすことができる彼女。
東方人や西方人の中にもそれだけの筋力を持つ者がいないわけではないだろうが、背は高くとも細身の女性である蒼真ができるとはとても思えない所業である。
ただ、獣人の血が混じっているのであればそれは可能だ。混じった血の元が、人よりも強い力を持つ種族であれば。
「まあ、あなたのご亭主が売り出しているモノと、さほど変わりはしませんよ。ただ」
そう文女に言い放ち、蒼真はベッドからもぎ取った天蓋の柱を槍のように構えた。これまた人の身長程もある長さだが、彼女にとっては手頃な武器であるらしい。
「混じっているのが黒熊、ですけれど」
くわりと開いた唇の中、僅かに尖った牙が濡れている。黒髪に紛れるようにチラチラと見えている耳の上端も、ほんの少しだけだが尖っている。
それは全て、彼女が母親から受け継いだ血の証だった。
その頃、アテルナルは一人街の外れまでたどり着いていた。ただ、柵の内外には剣や槍を持った獣人たちがウロウロしており、このまま脱出するのは難しいだろう。
もっとも、そのくらいはアテルたちも予測していた。だから、次の手を打つことにする。
「そーれっ」
懐から引っ張り出され、空高くぽい、と放り投げられた小さな布の袋。それはするすると空に上っていき、そうしてぱあんと強い光を発して弾けた。
魔力が込められた、信号弾である。セフィル隊の場合込められた魔力の主はエンシュリーズであり、故に火の力を強く持つので空に向けて投げるように、という注意がされている。草原や森にでも落ちれば火事が起きるのは、まず間違いないからだ。
そうして、その信号弾を放り投げた当人であるアテルナルはやれやれ、と肩をすくめた。今の信号弾は街の外に潜んでいる部隊への突入の合図であり、非戦闘員である彼女自身はその突入の騒ぎに紛れて街を脱出し結界ギリギリまで逃れる手はずになっている。
本来ならば脱出してからの投擲なのだが、状況が状況である。柵の回りで見回っていた獣人たちは一斉に信号弾の光に意識を引きつけられ、そそくさと建物の影に潜り込んだアテルナルには目もくれない。もっとも、眩しすぎてしばらく見えないだろうが……獣人は鼻や耳も利くから、あまり意味はないか。
「さて、どこら辺に隠れていましょうか。こういう時、戦えないのは問題よねえ」
そういうことも考えながらアテルナルは、建物の影を音を立てずに進んでいく。途中、大通りに出たところで犬の獣人とばったり鉢合わせた。
「何奴!」
「不審者よ」
獣人が携えていた槍を構えるより早く、アテルの手が動いた。左手で穂先を掴んでそのまま距離を縮め、握った拳を相手の下側から顎に叩きつける。
「がっ!」
脳天まで衝撃が入ったのか、獣人はそのままぐらりと石畳の上に崩れ落ちた。槍を離すことはなく、だからアテルは自分が手を開いて放棄した。残念ながら、武器を確保することはできなかったようである。
「ああもう、めんどくさいったら」
軽く閃かせた右手の中、適当に拾って拳の中に握っておいた石をまじまじと見つめてアテルは、小さくため息をついた。この程度の戦闘力では、セフィル隊の戦闘員としてはまったく未熟なのである。
一方、戦闘力は分からないが領主の妻を務める魔族の女は、少なくともこのような事態に陥った経験はなかった。だが、己の力を過信しているのか未だにゆったりと構えている。そうして、真紅の髪の青年に命じた。
「カルカレン、相手をなさい」
「お任せを、ご主人様」
「カルカレン?」
その名前に、蒼真は聞き覚えがあった。あの金髪の少女が、口にしていたはずだ。
「あなたですか。アルリアーナが連れてきたのは」
「はあ。それが、何」
何か、までをカルカレンと呼ばれた青年が口にすることはできなかった。即座にその横腹に、柱が叩き込まれたからである。あっさりと床に伸びてしまった青年を見て文女も、そして他の色違いたちもさすがにざわめき始めた。
「じゃあ、寝ていてください。後で彼女に返すんで」
「大怪我してないかな」
「手加減しましたから」
ぐったりした青年の襟を掴んで、真ん中がひしゃげたベッドの中に放り込む。そんな蒼真の様子を見て、少し困った顔で誠哉が尋ねた。何しろ、自分が何もしないうちにいろいろ進んでいってしまっているから。
それに、もうひとつ気になることもある。誠哉はそれを、素直に聞いた。
「アルリアーナって、誰だっけ?」
「ラズフェールの末娘ですよ。名前、そういえば誰も言ってませんでしたね」
「うん」
蒼真はもともと知っているから何の不都合もないし、固有名を知らずとも『ラズフェール家の末娘』ということが分かれば良い。それでも普通は教えるだろう、と誠哉は頭の中だけで軽く愚痴を吐いた。
そんな呑気な二人の様子に、文女は逆に警戒を始めている。既に遅いのだが、色違いの青年はともかく彼を助けに来た黒熊獣人の血を引く彼女の戦闘力が高いことに気づいたから。
「ところで誠哉さん。彼女、魔族ですね?」
「ああ」
その蒼真にさらりと本性を当てられて、数歩後ずさった。ぐ、と握り込んだ拳に少しずつ魔力を貯め始めるが、慣れていないから時間がかかる。
文女をかばうように色違いたちがのろのろと歩み出してくるのを見ながら誠哉は、蒼真に答える。
「ニックのことも知っていたし、間違いないよ」
「ニックって……ああ、誠哉さんにちょっかい出してたあのクソガキですか」
「クソ……」
「だって、そうじゃないですか」
身構えかけたところでの蒼真の発言に、一瞬だけがくりと気合をそがれる。だがすぐに、誠哉は気を引き締めた。
何しろ、自らへし折った柱を小脇に抱えて彼女は、にやりと残酷な笑みを浮かべていたから。
「疾風さんも弓姫ちゃんも、とっても怒ってましたもの。人んちのお兄さんに、何てことしてくれたんだって」
「お兄さん? まあ、ごきょうだいもいたのね」
「そんな軽口、叩けるのは今のうちですよ? 魔族のオバサマ」
重心を僅かに落としてなお文女が紡いだ軽い言葉に、蒼真の返答が飛ぶ。次の瞬間柱が振り回され、二人ほどが弾き飛ばされて床に倒れた。
「その怒り、今はあなたにも向けられているはずですからね。ああ、誠哉さん、本気出したら私より強いですから」
あくまでも蒼真は笑ったままで、へし折れた柱の断面を文女に突きつける。そのそばで誠哉は、相変わらず困った顔をしながらその手に、僅かな光をともした。
さて。
スイレンの領主である浅沙本人はというと、己の寝室で部下の報告を聞いていた。屋敷の奥の方にあるせいか、施設の騒ぎはここまではほぼ届いていないようである。
「何事だ?」
「は、繁殖施設で何者かが暴れているようです。獣人たちを派遣しましたので、すぐに落ち着くかと」
「そ、そうか」
報告も大雑把なものであり、故に浅沙はのんびりとグラスを傾けている。中身は獣人輸出の見返りに得た高価なものであり、これは市場に出回るものではない。
「散開、爆発」
だが、そのグラスは涼やかな詠唱と共にぱん、と弾けた。琥珀色の液体が浅沙の手を濡らし、絨毯を濡らし、そうして砕けたガラスのかけらと共に床に散らばる。
「なっ」
「お昼ぶりですわね。睡蓮殿」
開かれた扉の向こう、にっこり笑っているのはエンシュリーズだった。供に連れているのはセラスラウドだけで、上総兄妹の姿は見当たらない。
突然の来客に、さすがの浅沙も慌てた。あわあわと言葉を紡げない彼の代わりに、報告をしていた背の低い配下が尋ねる。無論彼も、慌てているか言葉が震えているのだが。
「こ、ここここれはどういうことでございましょうかっ、エンシュリーズ様!?」
「どういうこともこういうことも、こちらがお伺いしたいですわねえ。ああ、裏の建物は拝見してまいりましたわよ」
裏の建物。その言葉に浅沙たちの動きが、ピタリと止まった。
先ほど配下が繁殖施設、と言っていた同じ場所のことである。女を閉じ込めて村人の子を、あるいは獣人の子を孕ませるための施設なのだから。
言葉の続きを口にしようとしたエンシュリーズの横に、セラスラウドがするりと進んできた。こちらは笑顔ではなく、鋭い眼光で浅沙を見つめている。
「セラスラウド」
「やれやれ。うまく気配を隠してたもんだね、魔族」
「な、何をおっしゃいますやら」
魔族、と呼ばれて浅沙は慌てて取り繕う。少なくとも、昼に会ったときにはバレていなかった。そのはずだ。
ただし、今この場でバレてしまっていてはひとたまりもない。それに浅沙が気づく前に、エンシュが肩をすくめつつ口を挟んできた。
「うちの隊長は魔族の気配には相当敏感でな。貴様のような輩を前に吐き気を我慢したのはさすがだ、と言っておこう」
「隊長……?」
「セフィル隊隊長、セラスラウド。睡蓮浅沙、既に悪行はバレているよ」
『貴族の娘のお付き』だったはずの翼人の青年が、実は隊長と呼ばれる存在であることをやっと、浅沙は知った。
隊長ということは何らかの部隊を率いているわけで、それを自身に隠して面会したということは、つまり。
「我々セフィル隊は私の父、すなわちリリンセスカヤ家当主より命を受け、スイレンの街近辺における旅行者の失踪について調査をしていたわけだ。ラズフェール家令嬢も被害にあっているのでな、あくまでも内密にだが」
すっかり元の口調に戻ったエンシュリーズは、腕組みをしてふんと鼻を鳴らした。いい加減、『典型的な良家のお嬢様』を演じているのは面倒になったからだろう。
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