6. 夜のとばり
夕暮れ。日は一日の仕事を終え、山の向こう側に隠れようとしている。
普通の民が住まう村は日の出から日の入りまでが活動時間であり、夜の帳が降りたあとは眠るべき時間だ。
だが民を守るために遣わされている守備隊の宿舎は、夜になっても眠ることはない。表はともかく、室内はランタンや辺境では数少ない魔力を使った灯りで行動には支障がない程度に照らされている。
それ故か、この時間は彼らにとっては夕食を取る時間となっていた。守備隊としての初陣を終えた誠哉は水ではなく湯を浴びた後、弓姫に連れられて食堂へと足を運ぶ。
「おや、隊長のおっしゃってた新顔さんかい。初陣どうだったね?」
「ええ、まあ何とか」
厨房から顔を見せた淡い金髪の年かさの女性には、誠哉は見覚えがなかった。
くるりと食堂を見渡してみるが、十年前に見たことのあるような人物は義妹を除くと存在しない。そもそもこの女性は明るい金の髪だから西方人で、かつて誠哉がいた村の住人でないことはひと目で分かる。
「そうかい。くれぐれも無茶だけはやめとくれよ、隊長が怖いからね」
「気をつけます」
苦笑しながら誠哉が差し出したトレイに、今夜の食事である焼いた川魚や野菜の煮物などが女性の手で積み込まれていく。最後に水とパンを自分の手で取って終わり、軽く頭を下げてカウンターを離れる。
それにしても。
おそらく厨房の職員たちは住み込みで働いているのだろうが、どうせならすぐ近くにある村から雇い入れてもいいのではないか。
そう考えて誠哉は、隣にいる弓姫に尋ねてみた。
「ここ、村から雇ってないのかい?」
「まあ、いろいろあってね。来たがる人、ほとんどいないんだ」
「そっか」
口ごもる弓姫の様子に、誠哉は何かを悟ったように小さく頷いた。そこで、この話題は終わりとなる。
恐らく村の人たちは、たとえ自分たちを守るために配置されたとはいえ守備隊の面々とはあまり関わり合いになりたくないのだろう。
そもそもこの村は、その立地から大して外と関わりがあるわけではない。そのせいかどうしても排他的な思考になりがちである。髪の色が違う誠哉が曲がりなりにも受け入れられていたのは養父の存在と、そして何よりも剣の腕によるところが大きかった。
その誠哉が行方不明になり、調査のために黒い翼を持つエンシュがやってきた。白い翼のセラスラウドともどもこの村で見ることはほとんどない種族であり、村人にとってはいわばよそ者だ。ましてや魔族を屠ることが最大の任務である連中とあれば。
「そりゃ、近寄りたくないか」
髪の色でのけものにされることもあった誠哉は、自分の過去を思い出して小さく溜息をついた。その隣で弓姫が、意味もなくトレイの上の食器を並べ替えながら頷く。
「私も疾風兄さんも、守備隊に入ってからはあんまり村には帰ってないんだ。お父さんもお母さんも死んじゃってるし、もう帰る意味なくって」
ぽろりと彼女が漏らした一言に、誠哉はわずかに目を見開いた。義兄の足が止まったのに気がついて、弓姫も歩みを止める。
「義父さんと義母さん、亡くなったのか」
「あ……うん」
しまった、という表情を浮かべて弓姫は濃い色の髪を揺らした。どうやらここに至るまで誰も、兄の疾風ですら父母の死を彼に知らせていなかったのだということに気づいて。
ただでさえ誠哉は、自分が十年もの間世界に置いて行かれたことにショックを受けているのだ。そこに義理とはいえ両親の死まで重ねて知らされては、そのダメージは弓姫には分からないがかなり深刻なものになるだろう。
「ごめんね。落ち着いたら、お墓一緒に行こっか」
「……そっか……そうだね。帰ってきた報告、しないといけないし」
会いたかったな、とポツリと呟いて誠哉は、軽く頭を振った。
流れた十年の歳月は、決して短いものではない。
遅れて湯浴みを終えた疾風と共に、誠哉と弓姫は自分たちの夕食を運んで着席した。
が、そこにもう一人。
「とゆーわけでえ、疾風と弓姫のおにーちゃんの無事を祝してカンパイ、なのだ!」
当然のように誠哉の隣に陣取ったラフェリナが、尻尾をブンブン振って楽しそうに盃を掲げている。
ちなみに中身はアルコールではなくミルク。恐らく獣人の好みなのだろうが、誠哉自身アルコールが好きなわけではないのでそこは気にしないでおく。
「何でお前が仕切ってるんだ、ラフェリナ」
「そうよー。大体どうしてお兄ちゃんの隣に座ってるの」
盃の中身はともかく。
テーブルを挟んで誠哉と向かい合う形になった疾風は、僅かに顔をひきつらせている。
弓姫は誠哉を挟んでラフェリナの反対側に座っているから誠哉とは隣になるのだが、こちらも頬をふくらませていた。
ただ、兄妹はどちらも自分が大人げない態度をとっていることが分かっているのか、あまり強く出ることはない。相手が子どものようでマイペース過ぎる性格のラフェリナだから、ということもあるのだが。
おまけに、話題の中心になっている義兄自身がまたおっとりした性分だ。
「まあまあ、いいじゃないか。食事は楽しくするものだよ」
「誠哉兄、昔のうちじゃねえんだから……」
「だいじょぶなのだ! ご飯は楽しく食べるものだぞ!」
「確かにラフェリナの言うとおりなんだけど……そうじゃなくってえ」
のんびりと笑う誠哉に疾風が、全く空気を読まないラフェリナの発言に弓姫が、それぞれ頭を抱えて突っ伏す。
不思議そうに首を傾げるラフェリナと誠哉を上目遣いに見上げながら、疾風が半ばあきらめ顔になった。その目がどこか優しくなっていることに、気づいた者はいないだろう。
「……いや、いいや。誠哉兄が昔のままで、何か安心したし」
「ん? 誠哉、昔からこうなのか?」
「お兄ちゃん、もともと面倒見はいい方だったから」
あーあ、と大きく溜息をつきながら弓姫も、目を丸くしているラフェリナに肩をすくめてみせた。
十年前の優しい人物のまま、銀髪の義兄が戻ってきたことを改めて噛みしめるように。
「あ、あの、相席よろしいですか?」
「え?」
唐突に声をかけられて、四人は一斉に振り返る。
そこには自分の食事を載せたトレイを持って、蒼真が所在なげに佇んでいた。レザーの上下はそのままだが、色が少し青みがかったものに変わっている。戦闘の後で着替えたのだろう。
それに気づいたのか気づいていないのかは分からないが、誠哉は一度会っている彼女であることを認識するとふわりと笑みを浮かべた。
「蒼真? いいよ、どうぞ」
「はい」
軽く頭を下げてから、少し考えた蒼真は疾風の隣に腰を下ろした。青年が目を丸くしたのに、「何か?」と首を傾げる。
「いやだって蒼真、お前一人で飯食ってるじゃん。自分からここいいかって来たの、俺が守備隊に入ってから初めてだぜ?」
「わん。蒼真、誰かと一緒にご飯食べるの苦手って言ってたー」
「そうなんだ?」
疾風とラフェリナの指摘に、今度は誠哉が目を丸くする。
髪の色が違うこともあって、誠哉は村にはあまり親しい友人がいなかった。だが、この守備隊ではエンシュのような異色の者が当然のように溶け込んでいる。
だから、蒼真が『疾風たちと』相席を願い出たのも至極当然なのだと思い込んでいたのかもしれない。
一方疾風は何度か目を瞬かせた後、いたずらっ子のようにニンマリと笑った。
「分かった。誠哉兄のこと気になったんだろ」
「え、僕?」
「い、いいじゃないですかっ」
きょとんとして自分を指差す誠哉をよそに、蒼真の顔が見る間に赤くなる。
「蒼真、誠哉に懐いた?」
「ラフェリナっ!」
からからと笑う犬娘の台詞に、さらに耳まで真っ赤になった。唇や拳が、わなわなと震えているのが見て取れる。
ある意味分かりやすい反応ではあるが、いかんせん相手が鈍感だった。
もしくは、そもそもその範疇に自分は入っていない、とでも思い込んでいるのか。
「そっか。珍しい見てくれだもんね、そりゃ気になるよ」
「……え、あ、はあ、まあ……」
微笑んで誠哉が口にした言葉に、蒼真ははっと目を見張った。どう答えていいか分からずにうつむいてしまい、それからカトラリーを握りしめる。
「い、いただきますっ!」
「そーだそーだ。ラフェリナもご飯食べるー」
「……そーすっか。いただきまーす」
「何か気が抜けちゃった。いただきまあす」
一心不乱に食べ始めた蒼真の姿に、犬娘と兄妹もここにいる本来の理由を思い出した。
そうして誠哉も「じゃあ、いただきます」と小さく頷いて、パンを手に取った。
外はすっかり夜となり、木々の上に星がきらめく。
そんな窓の外を眺めながら、セラスラウドは蒸留酒の注がれた盃を口元に運んだ。が、その手を止めて青い瞳が細められたことに、同席しているエンシュが気づく。
「どうした?」
「ん?」
かり、と音がする。つまみとしてテーブルに並べられた木の実を、エンシュが噛み砕いた音だ。
その硬い音でセラスラウドの意識を引き寄せて、少女は「外ばかり睨んでおるからだ」と小さく溜息をついた。
「いやね。視線感じるからさ」
「気のせい……でもなさそう、だな」
「僕があの手の気配に敏感なの、君は知ってるだろ」
「でなければ、守備隊の頭になど据えられん」
「だよね」
視線だけを窓の外にチラチラと向けてエンシュは、金髪の青年が気にかけているモノの存在を認識したようだ。とはいえ、わざわざ表に出てまで確認することはないだろう。今のところ、向こうにこちらを攻める気はないようだから。
向こうの思惑は、こちらには分からない。だが、何らかの意図があってこちらを見ていることは確実だ。
そして、昨日まではこの視線を感じることはなかった。
すると、視線の主の意図はほぼひとつに絞られる。
「……誠哉か?」
「だろうね」
白と黒、二色の翼を持つ彼らの意見は一致した。
十年間凍結されていた、銀の髪を持つ剣士。
おそらくは魔族であろう監視者は、彼の何かを待っているのかもしれない。
「なれば、やはり何ぞされておるのだろうな。下衆どもめ、胸糞悪い」
「言葉、もう少し選んだほうがいいよ? エンシュ」
「選んでこれだ」
露骨に顔を歪めて吐き出すエンシュの言葉を、セラスラウドが本気でたしなめる様子はない。彼女が口にしていなければ、端正な容姿の青年が同じ言葉を口にしていたかもしれないからだ。
「ま、何されててもそうそう好きにはさせないつもりだけどね、僕は」
「私もだ」
二つの色の瞳が、同時に窓の外を睨みつけた。視線に力があるならば、狙った相手は確実に射抜かれて生命を落としているだろう。
だが、残念ながら視線には敵を殺す力はない。故に、彼がここで死ぬこともない。
「はは、バレてる」
隊長室の窓から距離をおいた、森の中。木の枝に腰を下ろし、ぶらぶらと足を前後に振りながら魔族の少年は嬉しそうに笑った。
「やれるものならやってみな。僕もそのほうが楽しいしね」
白い部分のない漆黒の目を細め、少年はゆっくりと後ろに身体を倒す。そのまま落下すると見えた小柄な身体は、すうっと夜の闇に溶けるようにして、消えた。
窓の外で消えた気配にも気づかず、誠哉はあてがわれた部屋の寝台でぐっすりと寝入っていた。
名目上保護観察であることもあってか、彼は義弟疾風と同じ部屋で暮らすことになっている。少し間を離して並んでいる寝台の、入り口に近い側が誠哉のものと決められていた。
「相変わらず、寝るの早いなあ」
呆れたように呟きながら、疾風は義兄の寝顔を覗き込む。かなり近い位置にいるけれど、それで誠哉が目覚めることはない。
これは昔からそうだった。気を許した家族の中では誠哉は、あっという間に眠りに落ちてしまう上にその眠りが深い。その分起きるときもあっさり目覚められるので、寝起きの悪い疾風はそれが羨ましかったものだった。
そのせいで十年前、山に入る誠哉を見送ることもできなかったのだから。
目覚めがいいのは、敵襲を察知した時もそうだった。
一度、村が深夜に魔獣の襲撃を受けたとき。跳ね起きた義兄は身支度もそこそこに愛用の剣を引っ掴み、あっという間に駆け出していった。その速度は、亡くなった父があっけにとられるほどだったという。
疾風どころか弓姫が眠い目をこすりながら起きてきた時には、既に決着がついた後だった。
疾風にとっては遠い昔の思い出だ。だが、誠哉にとってはつい最近の出来事だろう。
「おつかれ、誠哉兄」
目覚めてまもなく戦いに駆り出され、その疲れで熟睡している義兄の頭を撫でながら疾風は苦笑を浮かべた。
こんなところを弓姫に見られたら、さてあの妹に何と言われるやら。
「疾風くん」
廊下に出たところで名前を呼ばれ、疾風は振り返った。ぱたぱたと駆け寄ってくるアテルの姿を目にして、少しだけ頬を緩める。
この医師はマイペースなのんびり屋で、異色の人物にも別け隔てがない。銀の髪を持つ義兄にも、ごく当たり前の態度で接してくれた。さすがに恋愛の対象ではないが、疾風は彼女を結構気に入っている。
「ごめんなさい。もう寝るところでした?」
「いいですよ。当直じゃないですけど、もう少し起きてようかと」
「そう、よかったです」
疾風の答えに、アテルは胸に手を当ててほうと息をついた。それから周囲を見渡して、何ごとかに頷く。
そのどこかただならぬ雰囲気に、思わず疾風は姿勢を正した。
自分を呼び止めたのだから、自分に用があるはずだ。
さて、何の用件であろうか。
「何か?」
「誠哉くんのこと、なんです」
「誠哉兄の?」
今日再会したばかりの義兄の名を出されて疾風は、訝しげに顔をしかめる。セラスラウドやエンシュから事情は聞いているのだが、確か。
「血液検査の結果、なんともなかったんですよね?」
「はい」
頷きながらも、医師の表情は晴れない。
血液成分が、天祢誠哉は魔族に堕ちてはいないと証明してくれている。
それなのに、何故彼女の顔は暗いままなのか。
「……なんかありました?」
「いえ、何も」
疾風の問いに、アテルはかぶりを振る。それから、一瞬俯いた後きっと顔を上げた。
「だから、おかしいんです」
「え?」
「捕らえられて十年も凍結されたままで、何もされていないっていうのが」
もう一度言う。アテルナル・レインは、普段はマイペースでのんびり屋な人物である。
そのアテルがここまで強く主張することは、医療に関することを除けばめったにない。
そんな女医の力説に、口を閉ざす疾風。たしかに、言われてみればそうかもしれない。
「何もされてないはずがないんです。そうでなければ、向こうが誠哉くんを捕らえて生かしておいた意味がない。私はそう思うんです」
「……ですよね。確かに」
アテルが言いたいことは、疾風にも理解できる。
銀の髪を持つ義兄は、剣の腕こそ高いがごく普通の青年だ。
自分と弓姫にとっては優しくて、強い兄だったけれど。
その誠哉を魔族は捕らえ、今まで十年もの間年を取らせることなく生かしておいた。
魔族はあくまでも堕ちた人であり、理性や思考はそのまま残っていることがほとんどだ。
その彼らが、自分たちに刃を向けたはずの誠哉を殺さなかった。魔族に染めることもせず、肉体改造もしないままに。
そこに意味や理由がない方が、おかしい。
「でも、ずっと調べてたのに分からない。本当に何もされてないのか、何かされているのに私には分からないのか。それさえも分からないんです」
アテルが握った拳が、小刻みに震えている。
守備隊の健康を一手に預かる医師として、一員となって間もないとはいえ誠哉の身に何が起きているのか分かれない自分を力不足に思っているのだろうか。
「だから」
不意に、アテルが疾風の顔を見つめ直した。
この女医には珍しい……正確に言えば治療中以外には珍しい、真剣な表情を浮かべて。
「監視してほしいとは言いません。誠哉くんのこと、見ててあげてください。私、守備隊の誰も死なせたくないんです」
医師ならば誰もが口にするであろう、そしておそらくは無理だとわかっている言葉をアテルはあえて吐き出す。
これが、他に誰かがいればきっと口にできなかった言葉だ。
相手が、誠哉と近しい疾風であるから。
「アテル先生が気にするこっちゃないですよ。俺だってそう思ってますし」
その気持ちが何となくわかるから、疾風はわざと軽い口調で返した。
誠哉とは一番近しいと自負しているからこそ、そう返せる。
「最悪の場合、誠哉兄は俺が殺ります。そうでなけりゃ、こんな仕事してられない」
次の瞬間青年は目を細め、声を落として宣言してみせた。
これも、親しい者でなければ口にできないだろう宣言を。
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