5. 死者よ還れ

「ち、何でこんなとこまで!」


 剣を振るい、死者の頭を一つ飛ばしてから疾風はぼやいた。

 その背後でひゅ、と風を切る音がした次の瞬間、グシャリと別のアンデッドが頭を潰される。血にまみれた金髪が、ぼとりと地面に落ちた。


「魔族の方も、何か目的があるんでしょうねっ!」


 長い柄をこともなげに振り回しながら、革製の黒衣に身を固めた中性的な顔立ちの女性が答える。

 背はすらりと高く、スレンダーな体格の彼女は疾風と並んでも遜色が無い。黒髪を一房だけ長く伸ばした彼女が操るのは、柄の先に重い金属の塊が固定されたモールと呼ばれる武器だ。


「んもう、私アンデッドは苦手なのよね」


 離れたところから弓の弦を引き絞りながら、弓姫がぼやく。放たれた矢はアンデッドの頭部ではなく足元を撃ち抜き、歩み寄ってこようとするその身体のバランスをぐらりと崩させた。


「弓姫は足止めに集中を! 相性が悪いのですから……っ!」


 倒れかけたアンデッドの頭を横殴りに叩き潰しつつ、女性が叫んだ。長い脚を包むレザーパンツに腐汁がはねて、彼女はちっと舌を打つ。


「後で手入れしないと。ああ面倒臭い!」

「ならもっと安いの着ろよ。つーか、正面から来るだけあって数多いな。どこで仕入れて来やがったっ!」


 眉間にしわを寄せながらぶつぶつ文句をつける女性に言い返しつつ、疾風が振るった剣はまた頭をはねた。だが魔力で動かされる死者の数は、ぞくぞくと増えるばかりだ。


 宿舎の外れ、森に近い広場で訓練をしていた疾風と女性がアンデッドの第一発見者だった。女性はすぐ救援を呼びに走り、弓姫とラフェリナを捕まえることができた。ラフェリナをエンシュたちの元へ走らせ、弓姫を伴って戻った彼女の前に広がっていたのがこの、三十を超えようかという死者の群れだった。

 生きた敵と違い、このアンデッドたちは頭部を破壊するか胴体から切り離すかしなければ動きを止めることはない。弓矢で急所を狙う戦い方をする弓姫は、だからこの相手とは相性が悪い。

 剣で首を切り落とすことのできる疾風と、モールで頭部を叩き潰せる女性の方が相性が良い。故に弓姫は、アンデッドの足止めに集中しているのだ。その方が、直接相手と戦っている二人の負担が少なくなる。


「少し前に、西方人のキャラバンが消息を絶ったって話があったよ。商人さんから聞いた。総勢三十人くらいだって」

「それで一気に手駒増やしたのか、クソッタレ」


 弓姫が矢をつがえ直しながら呟いた言葉に、疾風は苦々し気に顔を歪めた。

 魔族はおぞましい術を駆使するとはいえ、死者でなければこうも軽々と操ることはできない。だが、それはつまり、生者を死者にすればよいだけの話だ。

 手駒を増やすためだけに魔族はキャラバンを襲い、操りやすい死者の数を揃えた。

 こちら側にしてみれば、誰ともしれない人々を、魔族に殺されたということになる。そして、殺された彼らを自分たちが、再び殺し直す。

 あまり、気分のいいものではない。

 今回は知らぬ顔ばかりだが、例えば知った顔がその中にいたとしたら、なおさら。以前同じように襲ってきたアンデッドの中に、共に剣を学んだ友人の姿があった経験を持つ疾風は、一瞬だけ視線を僅かにずらす。


「エンシュが来りゃ楽なんだがな。ま、数は減らしとくか」


 その感情を顔に出すことなく、疾風は呟いた。そうして、剣を構え直す。すっと彼の右に入った黒衣の女性は重心を落とし、両手でモールの柄を握りしめた。


「頼むわよ。兄さん、蒼真そうま

「あいよ」

「了解しました。さっさと片づけましょう」


 弓姫に頼まれて疾風と、彼女に蒼真と呼ばれた女性は同時に頷いた。次の瞬間、2人は大地を蹴ってアンデッドの只中に踊り出る。


「はああっ!」


 蒼真が振り回すモールが、辺りに血と砕けた肉体を撒き散らす。完全に潰してしまわねば、死者は動きを止めない。そのためには、重量のあるモールを全力で叩き込まなければならないだろう。


「おら、さっさと元の世界に戻りな! このお!」


 がきっと音がして、アンデッドの首に疾風の剣が食い込む。一瞬止まった動きが再開したとき、その首は身体を離れた。ぽーんと飛んでいった頭部が、その後ろをのそのそと進んでいる別のアンデッドの頬にぶつかる。


「いいから止まってよ、もう。数が多いってだけで面倒なんだから」


 矢を連射して足止めを敢行しながら、弓姫は更に愚痴を吐き出す。

 確かに疾風と蒼真はアンデッドを倒せるが、せいぜい一度に一体だ。向こうは数十体が、こちらを駆逐するために群がってきているのだ。数的には、こちらの方が不利である。

 疾風が名を呼んだエンシュのような、術を使える者がいなければ。




「わおおおーうっ!」


 突如、遠吠えが響き渡った。感情など既にないはずのアンデッドたちが、一瞬動きを止める。

 その瞬間。


「散開、発火!」


 凛とした詠唱に呼応して、のそのそと接近を試みていた死者たちの中央部が一斉に燃え上がった。

 十ほどの死者が炎に包まれ、制御を失ってばたりと倒れていく。害を逃れたアンデッドは、燃える身体からのそのそと距離を取る。散開して、ゆっくりと疾風たちを囲むように広がった。

 そうすれば一度の術で害を被る数を減らせる、という程度の知識がアンデッド側にあるのか、それとも最初からそう支持されていたのか、それは分からない。


「ラフェリナ、エンシュ! 遅ぇぞっ!」


 いち早く気を取り直し、剣を振るいながら疾風が叫んだ。もっともその表情は、来てくれて助かったという声にならない言葉を紡いでいたのだが。


「このくらいは遅くないもーん」


 華奢な手の先に、鋭い爪が伸びている。その爪でアンデッドの首を力いっぱい跳ね飛ばし、ラフェリナは無邪気に笑ってみせた。

 獣人である彼女にとって、敵を殺すことは生きるために当然の行為であり、そこに余計な感情は挟まれない。

 そして先ほどの遠吠えは、彼女のいわば『縄張り宣言』。獣人ここにありと敵対者に知らしめるための雄叫びは、アンデッドの動きすら一瞬であったが止める力があった。

 だからこそ、炎の魔術が的確にその身体を燃やすことができたのだ。


「済まなかった。新入りの準備に時間がかかってな」


 一方ばさっと背の黒翼をはためかせ、エンシュは目を細めた。

 アンデッドたちが散開したことで炎を撒き散らすのはやめたようだが、それでも手の中には魔力が形を取らぬままこめられている。彼女が一声発すれば、その魔力は如何なる姿にも瞬時に変化することができる。

 だが、疾風たちにはそんなことよりも、今の彼女の言葉のほうが気にかかった。


「新入りですか?」


 蒼真が問いながらも、一歩踏み込んでアンデッドを横殴りにする。だが意識がそれていたせいか確実に頭部を潰すには至らず、半壊の頭をもたげたまま死者はぬうと蒼真に手を伸ばした。


「ち!」


 とっさに疾風が飛び出そうとしたが、その前に別のアンデッドが立ちはだかった。感情などないはずなのに、にいと虚ろな顔に笑みを浮かべて。

 長い柄のモールは、一度振り切ってしまうと元の位置に戻すのにはどうしても時間が掛かる。目の前に敵がいるこの状況、蒼真には分が悪い。


「負傷は、仕方ないか」


 それでも僅かに身を引き、せめて受ける傷を浅くしようと身構えた彼女の目の前できん、と鋭い音が響いた。




 音に気を取られ、蒼真の動きが思わず止まった。その前でどさり、と重いものが大地に落ちる音がする。

 蒼真に歩み寄るアンデッドの頭を、その前に滑り込んだ青年が切り落とした瞬間だった。

 蒼真の視界に入ったのは何よりもまず、さらと流れる艶やかな銀色の髪。


「……銀の髪」


 目を見開いたままそう呟いた蒼真に、彼女に背を向けて剣を振るった青年は軽く唇の端を上げて微笑んだ。少し薄い色の瞳が、肩越しに漆黒の蒼真の瞳を射抜く。


「少し下がりましょう。大丈夫ですか?」

「はい。ありがとうございます」


 彼の言葉に押されるように後退を始めながら、蒼真は礼の言葉を口にする。ほんの少し頬が熱くなったような気がしたのは、多分気のせいだろう。

 銀の髪の剣士。上総兄妹から、話はよく聞いていた。誰にでも優しい、それでいて強い義兄だと。


「……誠哉、兄ぃ」


 その剣士の名を口にしたのは、疾風だった。目の前のアンデッドを首をはねて倒し、誠哉たちと同じように後退りしつつその目は義兄を凝視している。

 アンデッドたちとは少し距離が離れたせいで、僅かながら余裕ができたようだ。操られる死者たちには歩く、襲うという行動はできても走るという行動ができないらしい。

 ほんの僅か疾風の顔を見返していた誠哉は、ややあって気がついたように頷いた。彼の記憶の中ではまだ幼かった少年との照合ができたのだろう、どこか嬉しそうに頬がゆるむ。


「……そうか、お前疾風か」

「誠哉お兄ちゃん! 新入りって」

「うん。僕」


 大きな目を見開いて驚いている弓姫に、こくりと頷く誠哉。疾風と彼女を見比べて、何かを納得したような表情を浮かべている。十年のブランクを、ある程度は埋められたのだろうか。


「天祢誠哉、ですか」

「はい」


 自分の名を呼んだ蒼真に小さく頷いて誠哉は、少しつまらなそうな顔をしているエンシュに視線を向けた。


「細かい話は後で。エンシュさん、バックアップを頼んでも?」

「前線はお前らの仕事だろう。頼まれてやる、存分に振るえ」


 誠哉に声をかけられたせいか気を取り直したようにふんと鼻を鳴らし、エンシュが動きを再開したアンデッドたちを睨みつける。気合が入ったのか、背の黒翼がばさっと音を立てて広げられた。

 手の中の魔力は、未だ形どられていない。

 炎を使って燃やし尽くすのが一番早いのだがここは森の外れに近い。また村からもさほど離れていないということもあり、エンシュとしてはあまり広範囲に炎を撒き散らしたくはないのだろう。


「お願いします」

「任せよ。少し揺れるぞ……発動、大地」


 弓姫の声に頷いた瞬間、エンシュの手の中にあった魔力の塊がその性質を変えた。

 全てを燃やす炎ではなく、彼らの足元をしっかりと支える大地。

 攻撃的なものではなく、あくまでも補助的な力に変わる。これなら、むやみに匂いは広がらない。


「散開、隆起!」


 手のひらで、大地を叩く。次の瞬間アンデッドたちの足元の地面が盛り上がり、死者たちは次々にバランスを崩して倒れていった。


「自分は平気って思わないでよね!」


 倒れることを免れたアンデッドの足元を、踏ん張って耐えていた弓姫が次々に射抜いていく。中には足の関節や腱を射抜かれ、機動力を極端に落とす者も出てきた。


「助かります!」

「おっしゃあ!」


 ほんの一瞬間をおいて、平然と立っていた誠哉と疾風が同時に地面を蹴った。少し遅れて姿勢を低くしていた蒼真が、地面に手をついていたラフェリナと共に音もなく駆け抜ける。


「がおおおっ!」


 犬の少女が、上体を起こしざま鋭い爪を横薙ぎに振るう。

 喉を裂かれ、首をがくんと背後に逸らしたアンデッドの頚椎に、ラフェリナは迷うことなく噛み付いた。そのまま口を閉ざすと、ばぎんと音がしてアンデッドは動きを止める。


「ぺっ。まずーい」

「なら食うな!」


 腐肉を吐き捨てて顔をしかめるラフェリナに、エンシュの声が飛ぶ。「はぁい」と一瞬肩をすくめ、だが獣人の少女は即座に地面を蹴って次の獲物へと爪を伸ばした。


「ふ、はあっ!」


 間合いを見て取り、誠哉は両手で握りしめた剣を振り抜く。あっという間に一体が、少しの間をおいて返す刀を食らったもう一体が首を落とされ、ぐしゃっと崩れ落ちた。

 攻撃の結果を確認することなく、銀髪の剣士は次のアンデッドの首元を目掛け剣を振るう。


「でえいっ!」


 負けてたまるか、とばかりに疾風が剣を突き出す。アンデッドの喉元をえぐった切先がぐりとねじられると、ほどなく重さに負けて頭がぼろんと地面に落ちた。



 ほんの僅か、後。


「これで最後!」


 誠哉の切れを失わない斬撃が、死者の首にがきりと食い込んだ。

 ごり、と音がして、首がぼとりと地面に落ちる。それから数瞬の間をおいて、首を失った肉体もまた大地に倒れ伏した。

 これで、襲撃してきたアンデッドたちは全て首を落とされ、ただの死者に戻った。魔族の手から解き放たれたのだ。

 動かなくなった遺体は、エンシュによって燃やされたものも含め片隅にまとめられる。その後は遺品を回収され、特徴を書き留めた後火葬されることになる。そして、特徴と遺品を元に身分照会が行われ、遺族の存在が判明した者については遺品が送り届けられることになっている。

 時間はかかるが、せめて遺品だけでも近しい人の元へ戻してやりたいという思いで行われる作業。野山で人知れず生命を落とし行方不明のまま終わる者に比べれば、彼らはアンデッドにされたとは言えまだ幸せなのかもしれない。


 それはともかくとして。

 一仕事を終えた疾風たちは誠哉の周りに集まっていた。正確に言うと何故か誠哉の腰にラフェリナがじゃれつき、それを弓姫が怒っており、そして疾風たちはそれを少し離れて見物、という構図になっている。


「誠哉すっごーい! すごーいすごーい、ラフェリナびっくりー!」

「ちょっとラフェリナ、お兄ちゃんから離れてよう!」


「……疾風。弓姫はこんな性格だったのか?」

「誠哉兄がいなくなるまでは、こんな感じでしたよ」

「意外と甘えっ子だったんですね。もっとしっかりしてるとばかり」


 エンシュと蒼真は疾風の言葉を聞き、顔を見合わせている。

 どうやらこれまで見てきた弓姫と誠哉の前にいる弓姫が異なる性格に見えているようだ。

 義兄が行方をくらまして以降、幼かった少女は幼いなりにしっかりしなければならないと思ったのだろう。

 その反動が、今になって出ていると思えば可愛らしいもの、だろうか。


「ってか、いいかげんにしろよ。誠哉兄が困ってるだろうが」


 数分ほどはそのままにしていた疾風だったが、さすがに誠哉の助けを求める視線を受けては動かずにいられなかったようだ。大きくため息をつき、実妹と犬娘を力任せに引き剥がす。


「きゃう! 何すんの疾風え!」

「……あ、ご、ごめんなさい」


 きゃんきゃんと噛み付くラフェリナに対し、さすがに弓姫はすぐに気づいたようで謝罪の言葉を紡いだ。犬娘はエンシュが彼女の頭に落とした軽いげんこつと、「黙れ」という感情のない一言で不満そうな表情を浮かべながらも口を閉ざす。


「……誠哉兄」

「疾風、だよな。大きくなったなあ」


 細められた誠哉の視線が、僅かに下から疾風を見上げている。

 今の疾風は、誠哉よりもほんの僅か身長が高いのだ。

 年齢と同じように、身長も己を超えてしまった義弟を見上げて、それでも誠哉は嬉しそうに微笑んだ。自分は時を止められていたのに、すっかり成長した疾風の姿を見たのが嬉しかったのだろうか。


「そりゃ、十年経ってるからな」

「だね」


 どうも照れくさそうに視線を逸らした疾風の顔は、軽く不満気だった。何が不満なのかは、恐らく本人にしか分からないだろう。例えば、倒したアンデッドの数が誠哉よりも少なかったとか。




「疾風、蒼真」


 名を呼ばれ、誠哉の前にいた疾風と彼らを少し遠巻きに見ていた蒼真は黒翼の少女に向き直った。その二人の前でエンシュは、するりと誠哉の脇に入り込む。


「天祢誠哉はセラスラウド隊長の裁量で、我々のもとで保護観察処分ということになった。その上で今回のような場合、戦力として加わってもらう」


 セラスラウドの決定を言伝てしているだけなのに、何やら自慢気な表情のエンシュ。不思議そうに首を傾げてから、二人は「はあ」と頷いた。


「……隊長らしいですね」


 頬に手を当てて、半ば感心した表情で蒼真が呟く。疾風はふむ、と小さく息を吐いて、義兄に視線を向けた。


「誠哉兄、大丈夫なのか?」

「今のところはね」


 意図的にぼかした問いだったが、誠哉は疾風の言いたいことを理解してくれたようだった。

 魔族に堕ちていないのか、という問い。

 今のところは大丈夫、という答え。その先は分からないが、少なくとも今目の前にいる天祢誠哉は、上総疾風の知る義兄そのままなのだろう。


「誠哉、大丈夫だよ? 悪い奴の匂いしないもん」


 ふんふんと鼻を鳴らしながら、ラフェリナも誠哉の言葉に同意する。

 犬の獣人であり、また魔族の気配に鋭い彼女の鼻が魔族の匂いを捕らえていないのなら、それは信じてもいいと疾風は思う。

 少なくとも、わずかでも魔族に堕ちた者にこの無邪気な少女が懐くことはないからだ。

 とはいえ、むっとして彼女を睨みつけている弓姫の視線には気づいていないのか、それとも無視しているのか。


「後は、彼女か」


 既に弓姫、エンシュとは面通しを済ませていた誠哉が最後に視線を向けたのは、一人ぼんやりと彼らを見つめていた蒼真だった。自分に目が向いたことに気づいて、彼女はとっさに背筋を伸ばす。


「あなたとは、今日が初めてですね。よろしくお願いします」

「え、あ」


 差し出された手を見て、蒼真は慌てて自分の手のひらでパタパタと腰を撫でた。それから恐る恐る、誠哉の手を握る。モールを振り回しているせいか固く、まめもある手だが、それでも彼女の手は誠哉よりは柔らかい。


「蒼真といいます。事情で、姓はありません。疾風と同い年ですので、どうぞ言葉遣いの方もお気になさらず」

「……そう? 分かった。よろしく、蒼真」


 ほんの少し頬を赤らめている彼女の仕草を不思議そうに眺めていた誠哉だったが、その言葉はちゃんと聞いていたようだ。しっかりと手を握りしめて、楽しそうに言葉を交わした。




「ああ、うん。いい具合だね」


 ほんの少し離れた、木の上。

 白目のない眼を楽しそうに細め、少年は足をぶらぶらさせている。


「良かった。動作不良でも起こされたら、どうしようかと思ってたんだ」


 くすくすという笑い声は、ざわめく木々の音にまぎれて外には聞こえない。故に、振り返ればすぐに少年を見つけられるであろう辺境守備隊たちも、全く気づくことはなかった。

 少年の気配が、希薄であることも関係があるのだろう。あるいはこの場にいる少年は、幻なのかもしれない。


「都合……五十くらいかなあ? ちょっと無駄遣いしちゃったけど、いいよね。あはは、あー楽しかった」


 満足気に息を漏らして、少年はひょいと枝から飛び降りる。一瞬巻き起こった突風が過ぎ去った後、そこに人影は存在していない。まるで、最初から何もいなかったかのように。

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