3. あの時何があったのか
室内がしんと静まり返っていたのは、どのくらいだったろうか。
静寂を破ったのは、「あのう」というどこか間延びしたアテルの声だった。それから、かちゃりという眼鏡の位置を直す音。彼女はいつの間にか椅子から立ち上がり、胸元に書類を抱えている。
「積もる話、ありますよね。ある程度落ち着いたら診察室に来てくださいな。事務処理、してますから」
慌てて向き直った二人にほにゃんと笑いながらそう言い置いて、眼鏡の女医はそそくさとその場を後にした。一応、空気を読む術は心得ているらしい。もしかしたら、その空気自体に耐えられなかったのかもしれないが。
「えっと、済みません……」
「ごめんなさい。後で行きますね」
困ったように頭を下げる誠哉と、眉尻を少し下げただけの弓姫。
扉を閉めるアテルの背を見送りつつぽかんとしていた義兄と義妹のうち、先に動いたのは義兄である誠哉の方だった。くすりと唇の端を上げ、少しだけ微笑んだのだ。
「なんか、楽しそうな先生だね」
「そうね。ちょっとぽやっとしてるところあるけど、いつもあんな感じなんだよ。村でもね、あの感じがいいってよく言われてる」
誠哉の表情が和らいだのにほっとしたのか、弓姫もほんわりと笑みを浮かべる。だが、その彼女の言葉に出てきた単語にふと誠哉が反応した。
「村?」
「え? あ、うん、村」
義兄の意外な反応に同じ言葉で答えてしまってから、弓姫は「あ、そっか」と思いついたように頷く。
弓姫を見て分からなかった……魔族のアジトで会っているのにそれを覚えていないことから見て、誠哉は魔族に囚われた後ここで目覚めるまでの記憶がないらしい。
つまり、彼は今、自分がどこの守備隊宿舎にいるかも知らないのだ。アテルも自分も、それを説明していないのだから。
「ここね、私たちの村のすぐそばにあるんだ。誠哉お兄ちゃんがいなくなってから、すぐにできたの」
「そうなんだ」
慌てて椅子に腰を掛けながら弓姫が説明した、宿舎の場所。自分たちが育った村のそばと聞いて、誠哉は目を丸くした。
彼がいた頃は、辺境守備隊が近くに常駐しているということはなかった。
辺境ではあったが魔族の勢力が強いエリアからは外れており、獣の対処ならば村人でもどうにかなる場所。都としても、そんな村にまで注意を振り向ける余裕はなかったのだろう。それもあって、剣を使えるとはいえただの村人だった誠哉、そして鍛冶屋の若い衆が山に入ることになったのだから。
とはいえ、建造されてから既に十年近く経つ建物の内部はすっかり使い古されていて、年月相応の落ち着きが出てきている。それが誠哉にとっては、弓姫の成長以外に年月の経過を教えてくれるものだった。
「……ほんとに、十年経ってるんだな……」
「ごめんね、誠哉お兄ちゃん。びっくりしたよね」
くるりと室内を見渡して感心するように呟いた誠哉に、弓姫が済まなそうに声をかける。おずおずと向けられた視線に、誠哉は穏やかな笑みで頷いて答えた。
「……ああ、びっくりした。大きくなったな、弓姫」
誠哉の少しばかり戸惑ったような、それでも微笑んでいる顔は、弓姫の記憶にある十年前のままだ。思ったよりも大きくない、という印象の体格も、弓姫自身が成長したのであって誠哉が小さくなったわけではない。
それに。
「何だか、変な気分だ。僕としてははせいぜいほんの数日過ぎたくらいなのに、目が覚めたら十年経っているなんてさ。正直、君が弓姫だってのもよく信じられたなって思う」
そう言って頭をなでる手の感触は、幼い頃の思い出と全く同じもの。誠哉からしてみても、触れている髪の感触はあの幼子と少しも変わりはなかった。
声こそ成長につれて少し変化してはいるけれど、自分を呼ぶ「誠哉お兄ちゃん」という呼び方のアクセントはまるでそのままで。
だから、受け入れるしかないのだと誠哉は思った。そんなはずはないと叫び出しそうな感情を、理性で抑え込んだ。世界に置いてきぼりにされたのは、自分なのだから。
ふと、誠哉の意識が現実に引き戻された。自分が村を離れた、その理由を思い出して。
あれから十年。何があったのか誠哉自身は知らないが、知っているだろう人間は目の前にいる。
「……弓姫」
「なに? お兄ちゃん」
不意に聞こえた誠哉の押し殺したような声に、弓姫の顔に緊張が走った。聞かれるであろうことは分かっているし、彼から問われなくてもいずれ話さなければいけないことだったから。
「僕が山に登った後、何があったんだ? 十年分、僕は止まってるからね。教えてほしい」
「あ、うん。そうだね」
意図的に、弓姫は明るく答える。それから少し思い出す風を装って、話を紡ぐ覚悟を胸の内で決めた。
「とは言っても、私まだ小さかったからあんまりよく知らないんだけど。お父さんも村の人たちも、詳しいこと教えてくれなかったし」
多分私たちのこと気遣ってだと思うけど、と付け加えた後弓姫は、ぽつぽつと話し始めた。
誠哉と若い衆が山に入ってから、三日後のことだった。
そろそろ、彼らを捜索するために村の男たちが山に入ろうかという話が持ち上がった頃である。高雄が妙にぴりぴりしていたことを、弓姫は朧気ながら覚えていた。
その日の朝、村の入口に青年が一人、血まみれになって倒れているのが発見された。誠哉と共に山に入った、鍛冶屋の若い衆だ。
全身傷だらけで、右腕は肘から先がなかった。手当もされぬまま固まった血が、ぼろぼろの服と身体のあちこちにどす黒くこびりついている。息は絶え絶えで、どうにかここまでは持ちこたえたものの医者にかつぎ込んだとしても無理だろう、と一目で分かる状態だった。
慌てて抱え上げた鍛冶屋の腕の中で、青年は切れ切れに言葉を紡いだ。
「親方……すま、ね。魔族……が、出た」
「なんだと!?」
それは今まで曲がりなりにも平和に暮らしてきた村人たちにとって、衝撃的な言葉だった。
魔族はある程度の勢力圏を持ってはいるが、この村近辺にまでそれが広がっているということはない。大した産業もなく、支配したところでろくな利益を上げることもできないからだが、そのおかげでこの地域は獣の襲撃さえしのげばのんびりとした生活を送ることができていたのだ。辺境警備隊だって、必要がないから配置されなかった。
それが、今更。
「他の連中は! 誠哉坊はどうした!」
「すまね、俺、だけ、逃がされ……げふっ」
相手が瀕死であることを一瞬忘れ、親方が激しく揺さぶってしまったことで青年は喉に溜まっていた血を吐いた。この様子を見れば、帰ってくることのなかった青年たちがどうなったかなど想像に難くない。
血の気を失い、あえいでいた青年は最後の力を振り絞り、言葉を吐き出した。
「けど、なんで、だよ……あい、つ……誠哉、が、ちくしょう」
青年の息がどうにか持ちこたえたのは、そこまでだった。悔しそうに顔を歪めたまま、青年はことんと動きを止めた。
力尽きた身体を抱きしめて、親方の絶叫が曇り空に響き渡った。
それから数日。
青年が最期に紡いだ言葉の意味ははっきりしなかったが、村人の間では「実は誠哉が魔族を手引きしたのではないか」という憶測が広がっていた。
村で一番腕が立つ高雄の弟子となったのも、若者たちを引き連れて山に入ったのも、全て魔族の何らかの企みに加担するためなのだと。
高雄は義理の息子である誠哉を必死にかばっていたが、弟子を殺された鍛冶屋を初めとしてその憶測に賛同するものが増え、もうどうしようもなくなっていた。
彼にできることは消えた義理の息子を守ることではなく、残った実の我が子たちを守ることだけだったのだ。
そんなある日、行商や手紙配達以外ではめったに訪れる者のない村を、珍しく客人が訪れた。否、後に分かることだが彼らは「客」ではなかった。
見目麗しい金髪白翼の青年と、彼の部下であろう数名の武装した者たち。部下には獣人もいれば東方人もおり、そしてその中に実はアテルの姿もあったという。
「セラスラウドと言います。魔族出現の報を受け調査することになり、都から派遣されました」
白翼を背に持つ青年は柔らかい表情をたたえたままそう名乗り、ゆったりと村人たちを見渡した。情報を外部に伝えたのは高雄、つまり誠哉の養父だったという。消えた義理の息子の無実を証明したかったのか、それともいっそ引導を渡して欲しかったのか、それは分からない。
「後から、僕の大切な部下がもう一人来ます。少しびっくりするかもしれませんがいい子ですし、実力は備えていますからご心配なく」
そう言って翼人の青年は、誠哉たちが消息を絶った山を睨みつけた。
この村に住まっていた銀髪の青年が悪の根源であると主張しようとしていた村人たちは、その気迫に押されたのか口を閉ざす。なぜそうなったのかその時は分からなかったけれど、後にやって来た「大切な部下」を見て皆がなるほど、と思ったようだ。
「じゃあ、そのセラスラウドさんっていうのは」
「今の隊長。調査の結果、魔族が山の中に拠点を造ってる可能性があるってことで辺境守備隊の常駐が決まって、ここができたの。それからしばらくして、魔族がぽつぽつ活動始めてね……誠哉お兄ちゃんがいたのは、いくつか作られてた小さなアジトの一つだった」
誠哉の問いに答え、弓姫は恐る恐る義兄の顔を上目遣いで伺う。自身が魔族の手先だと疑われたことを知ってショックだったのではないか、と恐れているようだ。
義妹の表情に、誠哉は苦笑を浮かべた。生まれながらに銀の髪を持つ彼にしてみれば、何を今更ということだったのだから。
「ちっちゃい頃から魔族扱いは慣れてるよ。義父さんや弓姫たちがいてくれたから、平気だったけど」
「そ、そうなんだ……」
しょげてしまった弓姫の頭をなでてやりながら、小さくため息をつく誠哉。自分は平気だったことが、義妹に負担をかけていたことを今更ながらに思い知らされて。
結果的に放っておいたことになった十年間、この心優しい妹は義兄に対する悪し様な噂をどんな顔をして聞いていたのだろう。耐えられなくて、けれどこの辺境ではろくに逃げ場などないだろうに。
そう考えて誠哉は、ふと思い出した。今自分たちがいるのは、辺境警備隊の宿舎であることを。
「弓姫、そういえば守備隊に入ったのか?」
「うん。ここで働いてれば、もしかしたらお兄ちゃんに会えるかなって」
ごく当たり前のように頷いて、弓姫は「だから、念願叶ったってところかな」と頬を指で掻いた。その表情に誠哉は、弓姫がこの場にいるそもそもの理由をまさか、と思いながら口にする。
「もしかして、僕のため?」
「私がお兄ちゃんを探したかったの。疾風兄さんも一緒だよ」
義兄の言葉を、義妹は否定しなかった。そして、この場にいない実兄のことを少しだけ口の端に載せる。きっと誠哉は、知りたいだろうから。
「疾風兄さん、あれからだいぶ剣がうまくなったのよ。その代わり、すっかり口が悪くなっちゃって」
弓姫は顔をひきつらせながら、それでも笑って言葉を紡いだ。誠哉が笑っているのなら、自分も笑わなければとでも考えているのだろう。
銀髪の義兄は、幼かった自分や疾風の前ではいつも、苦労を表に出すことなく笑っていたから。
「疾風も? 口が悪くなったって……」
「まあ、いろいろあったから」
言葉少なに答える弓姫の影のある表情に、そのいろいろというのは恐らく自分のことだろう、と誠哉は胸の内で結論づけた。義理の兄が魔族に堕ちた疑いを受けたのだ、村人たちからの扱いは想像に余りある。いくら高雄がかばったとしても、十年という年月は長い。
「ごめんな。僕がちゃんと帰って来られなかったから」
「誠哉お兄ちゃんのせいじゃない。それに、ちゃんと帰ってきてくれたじゃない」
「……十年、かかっちゃったけどね」
本当に長い年月だと思いながら、誠哉は小さく頭を振る。それで、ふと思い出した。
ここが自分たちの住んでいた村のすぐそばで、今目の前には同い年「になった」義妹弓姫がいる。疾風も弓姫と同じく辺境警備隊に入っているということは、どうやら元気に育っているのだろう。つまり。
「そうだ。弓姫が二十歳ってことは、疾風には追い抜かれちゃったのか」
「……うん。疾風兄さん、この前の誕生日で二十二歳になった」
弓姫の答えに、ああやっぱりと思う。確認するまでもないことだった。
誠哉の義弟であり弓姫の実兄である疾風は、誠哉と別れた当時十二歳だった。それから十年経っているのだから……誠哉の主観的な年齢を、義弟は二年超えたことになる。本来ならば、あり得ないことだ。
自分より年上になった義弟は、どんなふうに成長しているのだろう。うまくなったという剣の腕は、どこまで上がったのだろうか。
「疾風がいるなら、会いたいな。会わせてもらえるかな」
目を細め、懐かしそうにその名を呼ぶ誠哉の疑問に、弓姫ははっきりとした答えを返すことができなかった。
誠哉が魔族の手先であるという噂は、本人の不在もあって未だ晴れたわけではないのだ。いかに弓姫が誠哉を信じていても、この地一体を守る守備隊としてはどうだろうか。
「うーん……隊長なら許してくれるとは思うけど」
首を傾げて彼女が口にできるのは、あくまでも守備隊の仲間たちの性格を考えての、楽観的な推測でしかない。そして、彼女にできるのは。
「とりあえず、アテル先生んとこ行こっか」
そう言って、誠哉の手を取ることだけだった。
誠哉が休んでいた病室の隣に、アテルが常駐している診察室がある。「失礼しまーす」と声をかけて入っていた弓姫に続いて入室した誠哉は、そこに思わぬ姿を見て一瞬足を止めた。
「あら、お話終わりました?」
「待っていたぞ」
アテルと会話を交わしていたのは、誠哉の意識上は初めて見る少女だった。
純白の髪、漆黒の翼。幼い容姿に見合った、愛らしい少女向けのドレス。だが、口調は冷徹で大人びたもの。
『まくろのこ』という蔑称で呼ばれることもある、異色の翼人の少女エンシュがそこにいた。
否、姿形こそは少女だが、もともと翼人は長命の種である。更に、東方人ではそういうことはないのだが、翼人の異色の者は通常の翼人よりも成長が遅いという。
「……ええっと」
「ああ、エンシュさん。さっきの話に出てきたでしょ、隊長が後から来るって言ったひと」
「……あ、ああ。そっか、びっくりするって」
弓姫の言葉に先ほどの話を思い出し、誠哉は頷いた。
なるほど、異色の部下を持つ隊長ならば、髪の色が違う自分を証拠もなしに魔族の手先などと早計に決め付けることはしないだろう。そうでなければ、そもそもその部下がついてくるわけもない。
「何だ、私の話が出てきたのか。それは光栄だな」
「済みません。流れで」
「何、気にするな」
ぺこんと頭を下げた弓姫に、エンシュはぱたと手を振って答えた。はためにはきちんとした良家の娘にも見えるのだが、案外大雑把な部分があるのかもしれない。
それからエンシュは、表情を引き締めると誠哉に向き直った。身長差から少女が青年を見上げる構図になるのだが、さすがというかエンシュの方が威圧感があり、誠哉は思わず背筋を正した。
「天祢誠哉、で間違いないな」
「はい」
頷いた誠哉に、少女は満足気な笑みを浮かべる。自身の胸に手を当てて、歌うように己の名を彼に告げた。
「私はエンシュリーズ。弓姫や疾風の上司でな、戦の時は部隊を任される立場だ。仲間内ではエンシュと呼ばれているから、お前もそう呼んで構わんぞ」
至極当然のように、愛称で呼ぶことを許可するエンシュ。その意味をアテルは理解しているのか、にこにこと二人を見比べている。弓姫は驚いたように目を丸くしているだけだが。
「はい。では弓姫に倣ってエンシュさん、と」
「ふむ」
誠哉にそう呼ばれ、エンシュはくすぐったそうに目を細めた。呼ばれ慣れた呼称ではあるが、初めての相手に呼ばれると何かが違うのだろうか。
が、すぐに表情を引き締めたのはさすがというべきだろう。アテルの執務机の上に無造作に置かれている衣服をぽんと手で叩き、ごく当たり前のように指示を与えた。
「まずは着替えてから、うちの隊長に会え。その後のことはそれからだ」
「着替えって、これ疾風兄さんの服ですよね?」
「ひとまず着せるだけだからな。見たところ、そんなに寸法も違わんだろうし」
しれっと言い放つエンシュの平然とした表情に、弓姫も誠哉も肩をすくめるしかない。
アテルだけはぽやんとした笑みを浮かべ、畳まれた衣服を手渡しながら「落ち着いたら新しいのを作ってもらいましょうねえ」と誠哉に言っていたが。
「弓姫、お前は他の隊員たちに話を通しておけ。お前の義兄と面通しするとな」
「あ、はい……え? いいんですか?」
エンシュが続けて出した指示に頷いてしまってから、弓姫は慌てて問い返した。それに対する一番分かりやすい答えは、「当然だろう?」と不思議そうに目を見張ったエンシュの顔だった。
「隊長殿の態度を見ていれば、許可が出ることくらい分かる。これでもあれとは長い付き合いだ。それに」
ばさと音がして、漆黒の翼が僅かに広げられる。ちょうど抜け替わる時期だったのか、そこから羽が一枚ひらりと舞って、床に落ちた。
「誠哉が危険だと思っていたら、出会い頭に吹き飛ばしていたさ。翼人の術は伊達ではない、特に私のはな」
に、と目を細めたエンシュの表情は、幼い造形とは正反対に過ごしてきた年月の重さと、そしてその内に秘める力の底深さを滲み出させていた。
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