1. アジト襲撃
ノックもせずに扉を開き、黒衣の少年はすたすたと室内に入ってきた。
そのまま部屋の一番奥、蓋のある巨大な箱の前にまで進んでいく。窓もなく明かりもついていない部屋を平気で歩いていられるのは、その部屋には金属製であろう箱以外何もないから。
箱の前にたどり着いた少年は、人差し指と中指だけを伸ばした手を箱に触れさせる。そして、呟いた。
「飽きもせず、よく寝ていることだ。けれど、そろそろ起きる時間だよ……ああ、今の君には時間なんて関係ないんだった」
ごく当たり前のように口を流れ出たその言葉は、しかし魔力となって箱全体をじんわりと光らせた。やがて蓋が形を失い、とろりと融けていく。
蓋がすっかり消え去ると、少年は軽く屈み込むようにしてその中を覗き込んだ。この暗闇の中でも中身を確認できたらしく、唇の端をうっすらと引き上げる。
「君はもう、ここで寝ている必要はない。時も溶かしてあげるよ。でもね、僕のことは忘れるんだ。覚えてたって、面白くないだろ」
手を伸ばし、中にあるものに指先をとんと触れながら命じる。それからゆっくりと後ずさり、軽く掲げた手の中にぽうと淡い光の玉を生み出した。
「友人が近くまで来ているそうだよ。心配しなくても大丈夫、君はちゃんと帰れる。ちょっと邪魔者がいるかもしれないから、その対応は任せるね」
光の玉で室内を照らしながら、箱の方へと視線を向けた。中からゆるりと起き上がる存在を認めて、満足げに頷くと少年は再び口を開く。
「さあ、行ってらっしゃい。ゆっくり楽しんでおいで」
ただの挨拶なのに、まるで命令のような口調。にっこり笑った少年の目には、白目が存在していなかった。
茂みの奥から、風を切る音が続けざまに鳴る。そこに重なるようにずぶ、と突き刺さる音がしてちょうど振り返った男が二人崩れ落ちた。首筋に突き立てられた矢が、彼らが構えていた剣を振る前にその生命を刈り取ったのだ。
よく似た顔をしているから兄弟、そうでなくとも親戚関係だったのかもしれない彼らは、一様に眼と髪の色を黒っぽい血の色に染めていた。流れ落ちる血で染まったのではなく、まるで元からそうであったかのように。
「がぁあっ!」
血の匂いに気が立ったのか、彼らのすぐ後ろを守るように姿勢を低くしていた狼が一声吠え、脚のバネだけを利用して長い距離を飛びかかってきた。狙うはたった今主の生命を絶った、茂みの向こうで弓を構える黒髪の少女。
「けっ、犬っころが単純なんだよ!」
だが、狼の牙が少女に食らいつく前に邪魔が入る。少女と同じ黒い髪の青年が滑るように割り込んで、ぐわりと広げられた口の中に剣の切先を突き入れた。その構え方から、青年が左利きであることが分かる。
「ぎゃっ!」
「るせえ」
剣に突き刺されたまま暴れようとした狼に一言吐き捨てて、青年は大きく振り払った。その勢いで肉と皮が裂け、そうして獣の身体はだん、だんと地面に叩きつけられる。
「ごぁっ……がふ」
それでもほんの少しの間起き上がろうとしていた狼だったが、口から血をたっぷりと吐き出した後やっと動かなくなった。それを確認してから、青年は少女を振り返る。この二人も弓に撃たれた二人と同じく、どこかよく似た顔をしていた。
「大丈夫か」
「ありがと。私は大丈夫」
少女は青年のぶっきらぼうな口調と気遣う視線に軽く首を振り、一度唇を噛み締めた後背の矢筒から新しい矢をつがえながら立ち上がった。周囲に配られる視線に、隙はない。
ほんの僅か時間を置いて、血の匂いを嗅ぎ当てた狼たちが低く唸りながらひたひたと現れた。先ほど青年に斬られた個体よりも少し小さく、威厳がないように見える。
「こいつの手下どもか。数だけで勝てると思うなよ」
「兄さん、あまり調子に乗らないでよね。私の矢には限りがあるの」
にいと歯をむき出して笑う青年の肩越しに、少女は小さく溜息をつきながら弓矢を構えた。
彼女に兄と呼ばれた青年は笑顔のままで、再び剣を振るう。最初の一閃で1頭を確実に仕留めた彼の眼光が、群れを一瞬だけひるませた。
次の瞬間また風を切る音がして、もう一頭が眼に矢を突き立てられる。どさりと同類が倒れた時にはもう、他の狼たちは仲間を血祭りにあげた二人を敵対者と見なし背中の毛を逆立てていた。
剣を構え直し、狼と睨み合いながら青年はほんの一瞬だけ背後の妹に視線を向けた。
「つってもよう、すぐにエンシュも来るんだろ」
「もうすぐだと思う……ふっ!」
青年の視線が逸れたことを感づいた一頭が身をかがめたその背に、少女が放った矢が刺さる。ぎゃうん、と悲鳴を上げて飛び退った狼を庇うようにして、他の個体が一斉に大地を蹴った。
「だあ、めんどくせえな!」
吐き出すように叫びながら、青年が大きく剣を振り回した。だが上手く刃に引っかかり血しぶきを上げたのはせいぜい二頭で、残る狼たちはその勢いのままに青年と、そして少女を狙う。
つがえ直し彼女が放った矢も、せいぜい一頭の喉を突き破るだけで。
「ちっ!」
「発動、炎」
青年の舌打ちに重なるように、鈴のごとき声が響いた。そして、ばさばさという羽音も。
気づいた少女が、はっと視線だけを声の聞こえた方向に巡らせる。そちらに佇んで……否、宙にふわりと浮いていたのは外見だけならば彼女よりもずっと幼い、長く伸ばされ後頭部でひとまとめにされた純白の髪と背に漆黒の翼を持つもう一人の少女。
「散開、発火!」
真っ直ぐ前に伸ばされたその右手から、ぱんと弾ける音がして火種がほとばしった。小さな粒にしか見えないそれが狼の身体に当たった瞬間文字通り火種となり、ごうとその身体を炎に包み込む。
「ぎゃおうううっ!」
悲鳴を上げて狼たちは、あっという間に燃え尽きて灰と化す。最後の一頭がぼそっと形を失った後で、翼を持つ少女は手を下ろした。それと共に浮かんでいたその身も、ゆっくりと大地に降り立つ。ひとつ羽ばたいたあとで畳まれた黒い翼は、モノクロームのドレスの装飾に見えた。
「エンシュさん!」
「すまんな、遅くなった」
エンシュと呼ばれた少女は黒髪の兄妹とは違い、背に翼を持つため翼人と呼ばれる種族である。
本来ならば金の髪、白い翼を持つ種族なのだが、ごくまれに彼女のような白髪黒翼を持って生まれる者がいる。
色が違うだけでなく成長速度も異なるために『まくろのこ』と呼ばれる彼らは、翼人の中でも肩身の狭い思いをして生きているらしい。
だがこのエンシュは、朗らかに微笑むことができる生活を送っている。笑顔のまま、自分より頭一つ分は背の高い少女の腰をぽんと叩いた。
そうして、幼い容姿に似合うドレスの裾を翻した彼女は、両手のひらに再び火種を灯した。
「発動、炎。それより、向こうは空振りだった」
「じゃあ、こっちが当たりか」
「さっきの二人じゃないよねえ、弱かったもん」
軽口を叩くような口調であっさりと事情を説明され、兄妹は対照的な表情を浮かべた。兄は自信に満ちた笑みを浮かべて剣を構え、妹はうんざりとあきらめ顔になりながら矢を弓につがえる。
瞬間、声が響いた。
「散開、氷結!」
「散開、発火!」
即座に反応したエンシュの手から放たれた火種が、こちらに向けて放出された氷のつぶてとぶつかり合った。衝撃で起きた強風と水蒸気が、ほんの一瞬兄妹とエンシュの視界をさえぎる。
「きゃっ!」
「疾風!」
とっさに目を閉じた少女の方に手を伸ばしながら、エンシュは青年の名を呼んだ。「おう!」と答えながら薄れゆく煙の中を突進し、青年は刃を振り下ろす。
「氷結!」
だがその刃は、肉を斬る前に氷に包み込まれた。剣の柄を握っている腕ごと凍らされ、さらに肩口まで氷結が達したことで疾風と呼ばれた青年はその姿勢のままひとまず後ずさる。
「あーこんちくしょう、肩までやりやがって」
「この間抜け。しかし時間差発動か……魔族の分際で、やるな」
ぎりと歯を食いしばる疾風をちらりと視界の端で確認し、エンシュは不機嫌そうに唇を尖らせた。その間に周辺の煙と風はすっかり収まり、彼らの前にいる敵の姿が露わになる。
「貴様ら……貴様らのせいで!」
黒いボロボロのローブをまとった、一見して剣や弓矢を扱うとは思えないひょろりとした体格の男。だがその手に、既に氷や炎の粒は見られない。どうやら、今の術が限界だったようだ。
「発動、炎」
不意に、エンシュが火種を作ると疾風に向けて飛ばした。剣と腕を覆い尽くした氷が、一瞬にして水どころか湯に変化する。
「あぢっ!」
湯をまともに頭から浴びて、解放された腕でばたばたと頭を払う疾風。翼の少女の冷たい視線に気づき、罰の悪い顔をして剣を掴み直した。
一方少女が弓を構えて牽制していた男に向き直ると、エンシュはすっと目を細め言葉を紡いだ。威嚇のつもりか、背中の翼がばさりと最大限に広げられる。
「ここの主だな。おとなしく捕まるか火達磨になるか、選ばせてやるが」
「なんだとぉ! 『まくろのこ』の分際で!」
自身の言葉に対する男の答えに、エンシュのこめかみに青筋が立つ。黒髪の兄妹は露骨に顔をしかめ、エンシュから距離を取ろうと足を動かした。
「私はその呼ばれ方は大嫌いだ。特に魔族に呼ばれるのはな」
そして白髪の少女は冷たく男を見つめ、拳を握る。が、ほんの少しだけ顔色を変えた。
「がああああっ!」
「エンシュ!」
疾風が叫ぶ寸前、破れかぶれになったのか、男がエンシュめがけて突進してきた。その手には、せいぜい護身用にしか使えないだろうナイフがある。
だが、革の鎧を身に着けている兄妹と違いドレス姿の少女相手であれば、十分有効な武器だ。
そして、距離を離してしまっていた疾風は間に合わない。弓姫もとっさに矢を取り出したが、つがえて撃つにはエンシュ自身の翼がじゃまになる。
「ち!」
エンシュも、このタイミングで火種は作れなかった。故に覚悟を決めたのか、軽く腰を落として身構える。どうせなら自身の身体を盾に、この男をひっ捕らえねば気がすまないのだろう。
だから、男の動きがほんの数歩手前で止まったのは彼らの誰もが想像しない結果だった。
「……え?」
ぽかんと目を丸くするエンシュ。その目の前で男は、げふりと血を吐いた。手から、ナイフがぽろりと落ちる。
痩せた胸元からは、男の血に濡れた剣の切っ先が生えていた。
疾風も彼の妹も、言葉を発することができないまま眼前の光景を見つめている。エンシュと男に意識を取られていて、いつの間にかその背後に現れていた青年の存在には気づかなかったのだ。
「……なん、で……」
男が、どうにか肩越しに背後を振り返った。そこにいる青年の姿を見て、愕然と目を見張る。その場に彼がいるのが、信じられないとでもいうように。
「……なん、で、きさ……ま……」
そこで、男の生命は止まったのだろう。言葉が途切れ、肉体から力が抜ける。剣がずるりと引き抜かれ、男の身体は地面に投げ出された。
「すまんな。助かった」
男の向こうに立っていた剣の主である青年に視線を向け、エンシュが礼の言葉を口にする。それから、ふと訝しげに首を傾げた。
肩には届かないほどの、銀色の髪。その色は、この世界に住まうどの種族にあっても珍しい色だ。
そもそも、服を着ていない。そして、端正な顔にはまるで感情がなかった。
「……何だ、」
貴様、と続けようとしたエンシュの唇は、「なんで?」という半ば泣いているような少女の悲鳴に止められた。その声に反応したのか、銀髪の青年はぼんやりとしたままの顔を彼女に向けて……かくりと膝から崩れ落ちた。
「っと」
とっさに駆け寄った疾風が銀髪の青年を抱き留め、相手の顔を覗き込む。そうして、妹の顔を見上げた。
「……弓姫。マジみたいだぞ」
「……うそ……だって」
「疾風、弓姫。お前たち、知り合いか?」
同じように顔を青ざめさせている兄妹の反応が、エンシュには奇妙なものに映っているようだ。二人の名を呼びその顔を見比べながら、端的に問うた。
「知り合い、です。けど」
まず疾風が頷き、銀の髪をなでつける。それは妹をなでるように、親しいものに対する手つきで。
「見間違いじゃなければ、……天祢、誠哉、です」
弓姫と呼ばれた妹が、必死に青年の名を紡ぐ。その答えに、エンシュはあからさまに顔をしかめた。
少しくせのある髪を短くまとめ、厚手の革鎧で防御をかっちりと固めた剣士の名は上総疾風。
ストレートの髪を肩で揃え、シンプルなワンピースの上に軽めの革鎧を着けた弓手の名は上総弓姫。
十年前、銀髪の剣士に甘えていた兄妹は、すっかり成長して戦士となっていた。彼の代わりに村を守り、そしていつかあの背中に追いつくために力をつけて。
「何で、誠哉お兄ちゃん、あの時のまんまなの……?」
その彼らの前に現れた天祢誠哉の姿は、消息を絶った十年前と全く変化がなかった。まるで彼だけが、消えたあの日からそのままやって来たとでもいうように。
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