14



『…どういうことか、分かって言っているのかい…?』

「わかってるよ。だけどそれしかない。神さまなんて、そんなものに…縛られているから彼は救われない。欲しいものは何ひとつ、手に入らない』

『……それは我々を愚弄しているのか。父より生まれ、分け与えられたこの命を』

「違う…! だけど彼を父だというのなら…慕うなら…! 彼の望みを叶えることばかりじゃなくて、その背を後押しするばかりじゃなくて…! ただすことも、大事なはずでしょう? あの世界を…シェルスフィアを。本当にみんな、壊したいと思っているの…?!」


 声を高く叫んだ瞬間。

 もやが晴れるように視界が眩んで光が溢れた。

 あたしの叫びに応えるように。


 目を開けたそこには、揺れる影がずらりと並んでいた

 あたりはどこか薄暗く、その影もどこかおぼろげだ。

 暗い海の底にいるような、仄暗ほのぐらい藍色の世界。

 頭上のずっとずっと遠くに僅かな明かりが見えるけれど、気が遠くなるほどの距離を感じた。

 これがトリティアたち――神々の海なのか。


 人のかたちをしているもの、そしてしていないもの。

 ぜんぶで12の影。

 ずっとあたし達の様子を伺っていたのは分かっていた。

 ようやく姿を現したその存在。

 シェルスフィアの海に放たれていた神々だ。


 その真ん中に居るのが、先ほどまで会話をしていたトリティア。

 以前対峙した時と同じ姿かたちをしている。

 それ以外の殆どを、あたしは知らない。

 だけど見た顔がいくつかあり、そのひとつにざわりと神経が逆撫でられる感覚がした。

 小さな泡がぱちんと弾ける。


『つまりは父上を、最上の座から引きずり落とすというわけか…! なんて面白いことを考える。我らの妹とは思えんな』

『――アトラス』


 聞き覚えのあるその声は、胸の痛みを抉るもの。

 まだ、痛むのか。もう肉体もないのに。


『だが悪くない考えだ。遊び場を失くすのは確かに惜しい』

『…本気で言っているのかい』

『お前も傍で、父上の心が乱れ海にも多くの影響が現れるのを見てきただろう。かつての父上の影はもはや遠い。…この先もただ、失われていくばかりだ。分かっていただろう、お前も』

『……』

『別にその座に興味はない。好きなときに暴れられる海があれば』

『…父上を。見捨てるというのか』

『マオが言っていた、その言葉だけには同感だ。解き放つのだ。敬意をもって』


 輪郭を強くしたアトラスの、赤い瞳があたしを見据えた。

 アトラスと対峙するのはあれ以来。ジャスパーを失った、あの海。

 記憶と共に、抉れるように痛みを伴う胸と脇腹。

 肉体はもう無いはずなのに滑稽だ。

 痛みと記憶からは逃れられないなんて。


 アトラスへの個人的な感情はいくらでもある。でも。

 今となってはどうしようもないものだ。

 再びアトラスと力を交える気はないし、そうしてもジャスパーが帰ってくるわけじゃない。

 それに今は、賛同者が増えるのは有難いことだ。

 あたしがしようとしていることは、ひとりではきっとできない。

 だから言葉をぐっと堪える。そうでもしないと感情のままに溢れそうになるこの心を。


『アタシも、賛成。あの世界はどうでも良いけど、リュウと会えなくなるのはイヤだもの』

『……セレス。何度呼んでも帰ってこなかった君が、よくこの場に現れたものだね』

『だってリュウが行けっていうんだもの。まだ契約は切れてないわ。アタシは、リュウのものよ』


 セレス。

 リュウと契約している神さま。

 揺蕩たゆたう長い髪をなびかせながら、妖艶な笑みを浮かべてあたしを見る。

 とても同じ世界の存在とは思えないその存在感。

 こうして近くで対峙すると、アトラスとは異なる意味で異質に感じる。


『魂だけアタシ達に近づいたとしても、本質は違うアナタに。どれだけのものが救えるのか、アタシも見てみたいわ』


 好意的ではない、でも。

 人と繋がった彼女が、寄せる僅かな期待と希望。

 離れたくないひとが居る。

 その思いは等しく同じなのだ。

 神さまも、人も。


「…そんな、たいそれたことが…できるわけじゃない。たぶんあたしひとりじゃ、なんにもできない。あたしができる唯一の事は、こうして世界を繋ぐだけ。きっとそれだけなんだと思う」


 守りたいものの為に、手離したものがある。

 だけど犠牲にしたりなんかしない。

 あたしは何にも、奪われない。


「ふたつの世界を、あたしは知ってる。あの海の青さも太陽の眩しさも、それからこの世界がほんとうは、人への憧れでできているっていうことも」


 お母さんが始めたと言っていた。

 エリオナスをかつての孤独から救ったのはお母さんだったのだろう。

 だけど終わらせ方を教えることなく、去ってしまった大事なひと達。

 永遠の檻に閉じ込められているのはエリオナスだけ。

 彼という存在自体が、永い時間と昔日せきじつの檻から、哀しみに暮れて抜け出せない。


「世界を終わらせるんじゃなくて…あのひとの苦しみを、終わらせてあげたい。じゃないと彼の心は永遠に、すくわれることはない」


 神々という存在は、それを信じる存在がある限り、在り続けることのできる存在だ。

 それは逆に、在り続ける限り終わらないということ。

 哀しみも苦しみもエリオナスはきっと。

 その存在こそが永遠なのだろう。


 終わらせたい。お母さんも望んだこと。

 彼をすくいだしてあげたい。

 永くくらい孤独から。

 孤独だと思っているこの世界から。


 きっと最初は、光のようだったはずだ。

 その感情は、希望だったはずだ。

 ひとりではないということは。


「彼の中で愛というものが、哀しみにかわってしまう前に…愛することも愛されることも、ひとりじゃできないって教えたい」



『――きみはどうあっても。救う側の存在というわけだね、マオ』



 応えたのは。

 その場には居なかったはずの、エリオナスだった。

 いつの間にかすぐ近く、手を伸ばせば届くほどの距離で、あたしをまっすぐ見下ろしている。その冷たい瞳で。


 あの箱庭…エリオナスの追憶の浜辺で対峙した時のような、あたしを求める想いはもう感じられない。

 おそらく、エリオナスも行ってきたのだろう。あの場所の異変を感じて。

 最後、あそこに居たのはリズさんとお母さんと、そして――


『ぼくを救うとでも言うのかい…? きみに何ができるというんだ。マナの代わりにもなれないきみに』

「…あたしにしかできないことがある」


 神さまは皆。

 ひとつの貴石から生まれてくる。

 それはきっとエリオナスも同じこと。

 そして砕いた彼の欠片が、魂と共に子ども達へと受け継がれた。


「あなたからもらったものは、全部返す。あなたが、“神さま”である必要は、もうないように」

『……どういう、意味だい』

「はじめ、あなたは。神さまではなかったはず。お母さんと出会ったとき。だけどお母さんと出会って…ひとりを知り。孤独をおそれて“誰か”を望んだ。その一番初めはお母さんで、それがすべての始まりだった」


 お母さんが残した貴石のなか、そこには僅かに記憶があった。

 いちばんはじめ、あの浜辺でのエリオナスとの出会い。

 ――まだ幼かったお母さんが、望んだこと。

 不自由で生きにくさを感じていてお母さんが、願っていたこと。


『――どこか別の、世界に行きたい。この世界に居ても、自由に泳げない。生きられない。お母さんや先生に制限される。もっと別の、体が良かった…だけど神さまは叶えてくれない。ずっとそう思ってた。…でも。もしかしてあなたは、あたしの願いを叶えにきてくれた、神さまなの…?』


 エリオナスの存在は、お母さんにとって希望だった。

 それはきっと間違いないはずなんだ。


『……そうだ。ぼくは。マナの願いを…叶える為に。この力を使おうと決めた。神さまになってあげようと。マナの、マナだけの…』

「でも、もういいの。今度はあなたが…願いを叶えられる番」


 祈りを込めて握った拳。

 差し出した両手の平。

 そこには、ひとつの貴石。

 ぼんやりと光を放つその光は、エリオナスが放つそれを同じ色だった。

 

 ――みっつに分かたれた、お母さんの貴石。

 あれを見たときに思ったのだ。

 こうして意思は、受け継がれたのだと。


 お母さんが自分の想いを、記憶を、思念を宿して取り出したように。

 あたしにもきっと、同じことができると思った。

 そしておそらくエリオナスも、トリティア達も。

 かつてエリオナスが同じように自分の中から思いを砕き、そして子ども達を生み出した。


 だからそれがまた、ひとつになれば。

 エリオナスは本来の姿に…あるべき姿に戻れるはず。

 お母さんがほんの一時、時空を越えて甦ったように。

 神さまとしてこの世界に、捕らわれる前の存在に。


「これを、あなたに返しても。あたし達は居なくなったりしない。あなたを忘れたりしない。あなたがあたし達にくれたものは、これだけじゃないのだから。あなたが父であることに変わりはない。でも」


 あたしの想いに呼応するように、ひとつ、またひとつと。その場に淡い光が灯る。

 はじめはアトラスが、そして続いてセレスが。

 半信半疑ながらも自らの内からその存在を手繰り寄せ、その欠片を貴石にする。

 それぞれにおそらく秘められた、エリオナスの心の欠片。

 周りを囲っていた他の神々が、それぞれの貴石を手にエリオナスを見つめていた。

 それが彼らの答えであり、望みでもあった。


「いつか子どもは親の手を離れる」


 別れではない。

 でも。

 ずっと一緒には、居られない。

 やがて別れの時はくる。

 たとえどんなに愛していても。


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