12
「マオ…!」
呼ばれる声に振り返ると、泣き顔と共に腕の中に飛び込んできたのはイリヤだった。
その存在と、泣き声を確認して。その身体を強く抱き締める。
最後までずっと、あたしのことを心配してくれていたのに。
「ばか、マオ…! 嘘つき…! ずっと傍に居てくれるって、言ったのに…!」
腕の中から顔を上げ、イリヤがぐしゃぐしゃの顔であたしを睨みつける。
だけどおそらくあたしの決意はイリヤにも伝わっていたのだろう。引き留める言葉は出てこなかった。
その琥珀色の瞳から溢れる涙は美しくいとおしい。
けっきょく一番泣かせてしまったのはイリヤだったかもしれない。
自分と同じ背丈で華奢だと思っていたのに、いつの間にか目線はあたしよりも上になっている。
離れていたのは僅かな時間のはずなのに、不思議だ。
抱き締めたと思っていたのにいつの間にか抱き締め返されて。
額にそっと口づけをくれた。
「しょうがないから、今度はボクが…ボクがきみを追いかけるよ。ボクに自由を、この足をくれたのはきみなんだから」
未来と自由を奪われて、孤独に縛り付けられていたイリヤが。
自分で進む先を選びとれたなら、あたしにはもう口を挟む権利はないだろう。
未来は誰にも止められないのだから。
「…あたしが、迷ってたら。また、イリヤが呼んで。あたしのこと。その声はきっとどんな海も世界も越えて、あたしのところまで届くと思うから」
これから行く先に、一緒には行けないけれど。
あなたがあたしの為に流してくれた涙を、あたしはきっとずっと、忘れない。
何度もあたしの為に泣いてくれたことを。
もう一度強くあたしを抱き締めたイリヤの肩を後ろからひいたのは、相変わらず無表情のままのクオンだった。
イリヤが不服そうな目でクオンを睨み、それから仕方なさそうにあたしの体から離れていく。
そうして入れ替わった立ち位置でクオンがあたしを見下ろす。
いつの間にかこうして見下ろされるのも慣れていた。見上げるクオンの、読めない馴染んだ風景。
その心はいつだって、揺るぎない信念と共にある。
そんな彼のまっすぐな心と瞳は、弱いあたしに何度でも、勇気をくれた。
「ずっと、あたしのこと守ってくれて…ありがとう。クオン」
「…それが、私の役目でしたから」
「そうだね、それでも。あなたが傍に居てくれて、心強かったし安心した。…救われた。何度も」
シアの命令だと言って、ずっとあたしの後ろをついてきてくれた。危険から守ってくれた。
時には未熟なあたしの師として、魔力や剣のことも教えてくれた。
けっきょくその殆どに、あたしは報いることはできなかったけれど…それでもクオンのその強さと信念は、守ることの意義をあたしに教えてくれた。
あたしのことを、嫌いだったはずなのに。
最後にあたしに差し出してくれた心が、信頼が。
とてもとても嬉しかった。
「…私の言葉を、覚えていますか」
「…うん、今度はちゃんと、覚えてるよ」
ちゃんと、覚えている。
この国の為に死ぬ必要はないと…ちゃんと生きろと言ってくれたこと。
それだけは選ぶなと言ってくれたこと。
シアへの忠誠心のほかに、クオンがあたしを思う心を見せてくれたこと。
忘れない。忘れるはずない。
…けっきょく、その心に返せなかったけれど。
また怒られるかな、と。思わず苦笑いを浮かべたあたしに返ってきたのは、予想とは違うものだった。
気付いた時にはもう、その腕の中。
「私も、貴女を。きっと忘れることはできないでしょう。貴女には随分振り回されました。貴女のような人は…きっとほかに、現れはしない。だから貴女も私を…忘れないでいてください」
クオンがあたしを抱き締めて囁いた。ほかの誰にも聞かれないように。
初めて聞くクオンのその優しい声音に思わず目を丸くする。抱き締める腕が僅かに震えていたことにも。
いつもたったひとりの為に強く在ろうとするクオンが、晒してくれた情。それがゆっくりと自分に染み込んでいくようだった。
そっと、その大きな体を屈めて、大きな手のひらがあたしの頬に添えられる。そして近づいてくる顔に思わず閉じた瞼に、優しく触れた唇の温もり。
クオンの瞳が左右で色が違うのは、片目の視力がないからだと以前教えてくれた。そのクオンが唇を落としたのは失くしたほうの目の瞼。
びっくりして目を開けるとまだ目の前にクオンの顔があって、そしてクオンが見たこともないような顔で笑っていた。
お別れで泣かれるのではなく、笑う顔が見られたことにあまりに驚いて。
クオンがこんな風に笑うなんて初めてで、心底びっくりして。
それだけで泣いてしまったのはあたしの方だった。
唐突に、最後なのだと。
改めて思ってしまったら、もうダメだった。
止まらない涙に、クオンがまたキスを落として舌先で雫を掬い取る。まるでレイズみたいだと、言ったらきっと怒るので言わないでおく。
最後くらいは怒られずにいたい。せっかく笑ってくれたのだから。
「…言っておきますが。私は別れだとは思っていません。あなたは私に借りがあるのをお忘れなく」
「借りって……あ、借金のこと? そういえばごめん、借りっぱなしだ」
「そうですね、それもありました。だけど他にも、あるんですよ。あなたの知らない答えが」
そっと落とした苦笑いと共に最後につよく抱き締めてくれて、あたしもその体を抱き締め返す。
その腕にいっそう力が篭ったところで、先に腕を解いたのはクオンの方からだった。
「必ず返しにきてください。私はここで待っています」
――待たないで、と。
置いてきたひとが居た。もとの世界に。
同じことを言わなければいけなかったのに、どうしてか言葉にはならなかった。
あたしの意志など関係なく、待つと言い切ったクオンのその、瞳が。心が。
揺るぎないものであることを、知っているからだろうか。
そしてやっぱりクオンは、あたしの返事を待たずにあたしから離れていく。
その先から入れ替わりにやってきたのは、レイズだった。
いつもと変わらない藍色の瞳が、まっすぐあたしを見据える。
「…レイズ」
「…お前は。泣いてばっかだな。最後まで」
呆れたように笑いながら、その指先が涙を拭う。
乱暴なようでいて、いつも触れるときはどこか優しさが残っていた。
だけど今はもう。その瞳は笑っていない。
最後だと、そうはっきり言葉にしたのはレイズが初めでだった。
「…そうかも。ごめん、けっきょく何も…返せなかった」
レイズの顔を見ると、どうしても。
失ったジャスパーの顔が頭に浮かぶ。胸がどうしようもなく痛くなる。
船のみんなを守ると言って、結局。守れなかったことがどうしても申し訳なくて。自分で自分を許せなくて、レイズに合せる顔がなかった。だけど謝ることは許されなかった。
きっとその心はレイズにもお見通しだったと思う。
いつも逃げるあたしを、強引でも無理やりにでも捕まえるのはレイズだ。
そして逃げるなと、叱咤する。
共に戦う心をくれる。共に在ろうとする心を。
「返さなくて良い」
俯くあたしにレイズは、その通る声であたしの名前を呼ぶ。
マオ、と。彼が呼ぶとどうしたって逆らえない。レイズはそういう人なのだ。
顔を上げるとその瞳が、まっすぐあたしを見下ろしていた。いつになく真剣な顔で。
「言っただろう、俺は。どこに居たって必ず、会いにいく。海も世界も関係ない。呼べば必ず。……だけど」
きっぱりと言い放つレイズの、最後の言葉が珍しく小さくなった。
思わずその顔を覗き込む。
笑わないクオンが笑ったように、泣かないレイズが泣くなかと思ったのだ。そんなわけはないと思っていて。
だけどいつも不必要なほどに距離を詰めてくるレイズの、今は僅かに開けられた隙間が。どうしようもなく埋められない距離と不安と寂しさを感じさせた。
あたしを見下ろすその顔は、僅かに翳っていて見えない。
いつもまっすぐ自分の思ったことを相手に云うレイズの、言葉は途中で止まったまま。
こんな中途半端なレイズは珍しい。
思わずそっと、伸ばした手を。
「お前が、望まなければ。俺が望んで良いのかも分らない」
容赦なくとったのはレイズだった。
痛いくらいに、強く。
強引なのは相変わらず。だけどいつもとは違う藍色の瞳。
レイズは、きっと。
あたしを引き留める唯一のひとだと勝手に思っていた。
これまで何度もそう言って、弱くて泣くあたしを抱き締めて引き留めてくれた人だから。
もしも行くなとレイズに言われたら、あたしは精いっぱいの勇気をもって振り払う思いでいたその腕。
あたしの胸の内の片隅に、見ないように隠していた本心を、いつだって見逃さずに見つけてしまう人。
あたしの迷いを、晒して奪う人だ。
だけどいつだってレイズは。
あたしの気持ちを一番に、考えてくれた。思ってくれた。
だから見送ってくれる。あたしの心からの望みを。
「だから、これは。俺のものだ。今はまだ僅かでも。いつか全部、俺のものにするから覚悟しておけよ」
レイズらしい台詞を吐いて、そしていつものようにその腕の中に強引なほど強く抱き締められる。
違う、いつもよりずっと、強い腕。
押し潰されてしまいそうだ。レイズの心に。
ああ、やっぱり、けっきょく。
泣いていたのはあたしの方。
だけどこの痛みは今だけは、間違いなく分かち合ったもの。そう信じている。
ひとりで持ちきれなくて、抱えきれなくて。
怖いのも事実だ。きっとレイズも気付いてる。
だけどもう、よこせとは言わないレイズのその心を、あたしがもらっていこう。
最後、あたしの為に。折ってくれたその信念の旗を。
強く抱き締め返すあたしの体をレイズがぐっと抱き寄せる。
そしてあたしの首筋に顔を埋めていたレイズの、吐息を肌に感じた瞬後。その場所に鋭い痛みを感じて思わず声を上げた。
「痛…! いま、な…!?」
「帰ってこいよ、必ず。ここじゃなくても良い。おまえが生きてるならそれだけで、俺たちも明日を生きていける」
自分のつけた傷痕を確認するように指先であたしの首筋をなぞったレイズはいつもの表情。
文句を言う前に、あたしの頭をくしゃりと撫でて笑う。いつものように意地悪く。
だからあたしも、最後。笑うことができた。いつものように。
ぜんぶ、レイズのおかげだ。この海でいちばん最初に出会ったひと。
「きっと守るよ、今度こそ。これ以上誰も、哀しませない」
その望みが。
守りたい人たちが。
あたしの糧になる。
そうして、最後。
あたしの前に立ったのは、シアだった。
あの日、あたしの手を自ら手離してお別れをしたように、まっすぐ対峙する。
だけど今度はお別れを言うのはあたしの方だった。
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