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 いちばん、はじめ

 マナと初めて出会ったのはこの場所

 マナもぼくも、今よりずっと幼かった

 まだ“こども”だった


 ぼくが王と呼ばれる前――まだあの海にはぼくひとりだった

 持て余す力は時々制御できず、偶然流れ着いた異界の海で、ぼくとマナは出会ったんだ。


 ぼくが自分の世界を、自分の海を出たのはそれが初めてだった

 ぼくの力の及ばないその海で、ぼくはただ流されることしかできなかった

 そんなぼくを助けたのがマナだった


 何故かは、わからない

 マナは肉体を持たないぼくに、触れることができる少女だった


 浜辺までぼくを引き上げて、ぼくを見下ろすその瞳

 姿形は人に近いぼくを本物の人間だと思ったのだろうマナは、溺れたぼくに口づけをくれた

 それは後から、助ける為の手段だと知るのだけれど、その時のぼくはそんなことを知るはずもなく

 かといって、口づけの行為すら、初めで


 人の体温のあたたかさを

 触れる肌の熱を知る

 互いの吐息が絡むのを

 相手の一部が自分の中に入ってくるのを


 自分という存在と、そして異なる他者という存在を、初めて知ったのだ

 

 目をまるくして固まるぼくに、マナは屈託なく笑った

 無事で良かった、と零しながら


『海の底まで泳いでいたら、あなたが突然現れたの。王子様を助けた気分。あたしは人魚姫じゃないけど』


 その時感じた

 確信した

 この海に愛された少女なのだと


 それから帰り道を見つけるまでのほんの少しの間

 人間のふりをしてぼくは、初めて陸に上がることになる


 ぼくがあの世界に大地を許したのは、紛れもなくマナの影響だ

 そして人間を住まわせたのも


 ほんの淡い希望があったのだ

 海では暮らせないマオが、生きる地としてあっても良いと

 もしもマオが、ぼくの世界にきた時――そんな夢物語のような気持ちで、人間の歴史を見ていた

 だけど干渉する気はいっさいない

 生きる世界の異なるその小さな存在は、ただ見ているにはつまらない存在だった


 時折、マナと似たような性質をもった存在はいないかと海を越えてみることもあったけれど、やはりそんなことはありえなかった


 今では心から後悔している

 マナのいない世界など、なんの意味もなかったのに


 惜しみながらもマナと別れ、自分の世界へ帰ってきたとき

 “ひとり以外”を知ったぼくは、子どもたちを作ることにした


 体の少しずつから魂を削り、海の底に転がっていた石に注ぎこんでやる

 ぼくの海で生まれた子たちは、ぼくの魂と意志をただしく継いで、広いばかりだったこの海を治めるようになった


 石の性質が作用するのか、みな同じ性格ばかりではなく、見ていておもしろい

 ひとりだったこの海に、気配が、声が増えていき、いつしかいっぱいになり

 “父上”とぼくを呼ぶ子どもたちを、大切だと思うようになった


 感情というものを持ち合わせていないぼく達が、マナから受け取ったそれをぼくの魂と共に少しずつ継ぎ、自らの中で変容させ

 次第に人に興味をもつもの達が、異界を越え始める

 ぼくの目の届かない場所で子ども達が、ぼくの手から離れていくのを感じていた


 すべてぼくから生まれたものなのに、なぜ

 ぼくは失うばかりなのに、なぜ――


 子ども達は人の世界にキセキを与え、加護を施し、近しい存在を認め、海を繋いだ

 そして時を越えてマナがその地に降り立つ

 ぼくの元ではなく、その大地に


 そして、とうとう

 人に恋をしたものが、現れた

 


―――――――…



『ぼくらの生きる世界と、きみがび出されたあの世界は、確かにとても近い場所にある。世界を隔てどあの海は、ぼくが創らせたものだから。だけど極力人間との干渉を避けてきた。シェルスフィア王家の建国時の、あの戦争に…マナが巻き込まれたと知るまでは』

「…でも、シェルスフィアの建国は、900年も前だって…」

『そう…マナがシェルスフィアに喚ばれたのは900年前。ぼくらが初めて会ったのは1000年前。時間の進み方はそれぞれ違う。そして異なる世界に干渉することによるずれは、マナを中心として大きくなった』

「…じゃあ、本当に、お母さんが…」


 イリヤが言っていた、“伝承の少女”…?


 戸惑い言葉にすることを躊躇うあたしに、エリオナスは見透かすように笑って見せた。


『そして皮肉にも…あの国が今亡びようとしている時。今度はきみが、び出された』


 そんな、永い時をかけて、お母さんとあたしが繋がったことの意味を。あたしは何故か知っているような気がした。


 お母さんがシェルスフィア建国に携わり、そしてあたしが――


『おそらくあの国に終止符を打つのはきみだ。他人の力ばかりに縋ったあの国が、これ以上生き残る術はない。救うばかりではないはずだ。人であり、神の魂をももつきみだからこそ…マナがきっとそれを望んでいる。マナの代わりにきみが…あの国を亡ぼすんだ』


 エリオナスがまるで甘い響きを孕んだ声音で、あたしの思考を仄暗い底へと導く。


 あの国を…シェルスフィアを亡ぼす。

 それが、お母さんの望み。

 そうだ。

 何故なら、お母さんは。


 あの国の王を、とても憎んでいた。

 大事なものすべてを奪われたからだ。

 友達だと思っていたのに。だから力を貸したのに。


 約束が違う。

 みんな幸せになるはずだった。


 ――あたしさえ、ガマンすれば。


 あたし…?

 ちがう、これは、お母さんの。

 この溢れる怒りと嘆きと哀しみは、お母さんのもの。


 ぎゅっと、いつの間にか握りしめた拳の中。

 シアの短剣と、そして。

 ふたつの貴石が淡い光を放っていた。


 ひとつは、あたしの。お母さんからもらったもの。

 そしてもうひとつはお母さんの。あたしが勝手にお母さんから奪ったもの。

 よく見ると僅かに輝きの違うそのふたつ。

 

 そうか、これは。

 お母さんの心。はるか遠いむかしの記憶。

 あの時封じ込めた、お母さんの本当の――


「…お母さんの、本当の気持ちは…」


 ――かなわない、想いだった。

 だけどお母さんは、みんな大切だった。

 みんなに幸せになってもらいたかった。

 だから自分の心を犠牲にした。


『…マナが…本当に愛していたのは…?』


 エリオナスがやさしい声で、そっと続きを導くように促す。

 無理やり慈愛を象ったような笑みを浮かべながら。


 きっとずっと、知りたかったその答え。

 彼はお母さんに、愛されたかった。

 どれほど時間がかかっても、永遠などなくても。


 ああ、だけど、なんて。

 真実は時に残酷だ。

 誰にとっても平等なものなんて、きっとありはしないのだ。

 お母さんが本当に、愛していたのは



『――――アタシだよ』


 自分の背後から、突然その声が降ってくる。

 振り返り見上げたそこに、ゆらりと揺らぐ陽炎。

 半分以上透けたそのすがた。ずっとあたしの傍に居た――


「…リズさん…?」

『…マナの、むすめ。名前はなんと言ったか…』

「…真魚まお…マオです」

『…マオ。アタシの本当の名を呼びな。アンタなら知ってるはずだ。マナのむすめの、アンタなら』


 輪郭をなんとか留める程度の不安定なかたちで、リズさんは強いその眼差しをあたしに向ける。

 あたしはそれを受けながら、無意識に口から言葉が零れていた。


 エリオナスはもう。

 わらってはいない。



「……リリス…」



 お母さんの愛した

 ただひとりの相手。


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