3



 真魚まお、と。お父さんが呼ぶ声が好きだった。

 お父さんの中にいる良い子のあたしが、素直になれないあたしの理想だったのかもしれない。

 その声音にどれだけあたしへの思いがあるかを、たぶん子どもは無意識に感じ取るのだ。

 愛されているのだということを。


 じゃあ、どうして。

 初対面のこのひとから、それに近いものを感じてしまうのか。


 突然目の前に現れた相手が予測する相手なら、いきなり現れて困惑してる。動揺してる。

 なのに。

 この込み上げる気持ちと涙の理由が、自分にはまったく理解できなかった。


『…名乗りが遅れたね。ぼくは、エリオナス。マナにはリオと呼ばれていた。きみにならそう呼ばれても構わないよ』

「…マナ…お母さん…?」


 思わず口をついて出た言葉に、エリオナスは肯定するように、にこりと微笑んでみせた。

 まるで人間のようなその仕草。象る輪郭は人間と近しい。だけどその存在は、人間とはかけ離れたもの。

 理解を越えて本能的にそう感じる。どちらともを知っている、あたしだからこそ。


 相手の口から出てきたその名前は、やはり予想通りの相手の名だった。電話の向こうでイリヤが言っていた名だ。


 海の王――エリオナス。

 すべての海、すべての海神の父となる存在。


 そして、あたしに魂の一部を分け与えたという、“父”――

 それがいったいどういう意味なのか、そしてお母さんとはどういう関係だったのか。想像さえしきれない疑問。

 

 だけど彼はついさっき、確実に。

 言ったのだ。

 あたしを、娘だと。


「…どうして、ここに…ううん、ここはどこ…?」


 もとの世界でも、シェルスフィアでもない。

 他の誰の存在も、何も感じない。これまでの世界とは全く異なる場所。分かるのはそれだけだった。

 そしてここにあたしを連れてきたのは、おそらく目の前の相手だと。それだけは分かった。


『…ここは、マナとぼくの思い出の場所。きみの気配を感じたとき、ここが一番呼びやすかった。ぼくらの力が、何よりも落ち着く場所…そう思ってここに呼んだ。ふたりきりで、話したかったから』


 イリヤから聞いていた印象とはまるで違う。その話し方も雰囲気も眼差しも。

 それは相手があたしだからなのか。それともただその本質を、あたしが理解できていないだけなのか。


 このひと…エリオナスについて分かるのは、お母さんと深い関係にあったということ。

 お母さんを、そしてあたしを求めているということ。

 そして今、シェルスフィアで。

 シアたちからすべてを奪おうとしているということ。


「…あたしと…?」

『そうだよ。きみの存在を知ってから、ずっと会いたくて会いたくて探していた。だけどきみを呼ぶには弊害が多く、ぼくだけではなかなか動けなかった』

「あたしの、ことを…知らなかったっていうこと…?」


 以前、トリティアは。

 エリオナスが最初探していたのはお母さんだと言っていた。

 そして行き着いたのはあたし。魂の一部のせいか、もしくはあの貴石いしのせい。

 

 そう、つまりエリオナスは。

 お母さんが死んだこともあたしという存在も、知らなかったんじゃないのだろうか。

 あたしは一体、いつ、エリオナスの魂を分け与えられたのか。

 あたしが生まれる前なのか、それとも。

 

 エリオナスはあたしの問いに、少しだけ哀しそうな顔をして見せた。

 だけど何故だろう。どこか作り物めいたその表情に、心は動かない。不審ばかりが募る。心臓が、どきどきと。


『…そうだね。ぼくはきみの存在を、トリティアから聞くまで知らなかった。ぼくがあの時分けた魂は、ほんのつぶて、希望のひとかけら。本当に生まれるかはマナ次第だった。マナははじめ、子を産む気はないと言っていたから』

「……え…」

『あの時…マナのお腹に宿ったその消えかけた命のにぼくの魂を分けたのは、そうしないとすぐにでも、マナは消えてしまいそうだったから。マナには死んでほしくなかった。マナには生きてほしかった。そしてぼくの証を、彼女に残したかった』


 エリオナスからもたらされる、お母さんの話。

 今までも理解し難いことはたくさんあった。でも。

 まさかお母さんが、自分を望んでいなかったとは。


 エリオナスは言葉を失くすあたしの様子になど気にも留めずに話を続けるけれど、その衝撃の事実をどう受け止めろというのか。

 思わずぐ、っと胸元のお守りに手が伸びる。

 だけどそういえばもうそこに、お母さんのお守りはない。今は――


『きみがぼくの知らない世界で産み落とされ、そしてぼくの世界に戻ってきたと聞いた時――嬉しくてうれしくて、心が震えたんだ。マナからもらった、この心が。ようやく、マナは。ぼくを受け容れてくれたんだと。それこそがきみ、マオ。きみがその証なんだ』


 その瞳に宿る熱。甘く響く吐息に乗る言葉。恋慕のような眼差しがあたしを捕える。

 だけどそこに映っているのは、あたしではない。

 あたしではないのだ。


 だけどそんなのはもう。

 何度だって味わってきたんだ、あたしは。


「…つまりはあなたの、片想いだったっていうことなのね」

『……なんだって…?』

「ようはそういうことでしょう。お母さんが愛を誓ったのは…愛し合ったのはあなたじゃない」


 もういちいち、落ち込んでなどやるものか。

 あたしはもう誰の代わりにもならない。

 あたしは、あたしにしかなれないのだから。


 あたしはもう、お母さんの愛を疑わない。

 だから今目の前にいるひとが、父親であろうとなかとうと、関係ないのだ。

 ただ聞かされた話が真実なら、このひとによって生かされた恩があるという事実だけは受け入れる。


「あたしを生かしてくれたことにはお礼を言う。あなたが魂を分けてくれたから、あたしにも出来ることがあると知れたから…あたしはあたしの守りたいひとを、守ることができる。それについてだけは、ありがとうございました!」


 目を逸らさずにまっすぐと、対峙したまま腰元のホルダーに手を伸ばす。そこにはまだ、あるはずだ。あたしの本当のお守りが。


『……きみが生きている、それだけで。マナがぼくを愛してくれたという証になる。それだけがぼくにとって、真実だ』


 ゆらりと。

 エリオナスの輪郭が揺れる。異様な雰囲気を纏いながら。

 時間が止まったままのこの虚ろな世界。

 閉じ込められていたのはこのひとの心。

 失ったことだけじゃない。ありもしないものに縋って、偽りの愛を求めている。

 これがすべてのものの神だなんて、滑稽だ。


『だから迎えにきたんだよ、マオ。きみはぼくの傍に居て』


 周りのものすべてを巻き込んで、このひとの夢物語に付き合わされているだけだなんて。


「お断りします! あたしは迎えにきてもらうより、会いたいひとには自分の足で会いに行く!」


 すらりと、抜いたシアの短剣。

 目の前の相手への拒否の刃。

 氷のように薄い諸刃が箱庭の世界の虚無のひかりに反射する。

 それにエリオナスは目を細めて、それから哀しそうに、おかしそうに笑った。


『…まるでマナと同じことをいう』


 くつくつと喉でわらいながら。その頬には一筋の涙が流れていた。

 不思議とそこに、さっきまでの違和感は感じられない。

 ひとではないものの、まるで人そのもののような情。

 溢れるそれは凪いでいた海に嵐を呼ぶ。エリオナスの心に呼応するように。


「…シェルスフィアから…手をひいてほしい」


 もう穏便に済む話ではないと分かっていた。遅すぎる交渉だと。

 それでも、簡単に諦めるわけにはいかないのだ。

 あの世界は今、エリオナスの手の上。

 このひとをどう動かすかは、あたしにかかっている。


『…あの国は、王家は。多くの罪を犯した。不相応な人間がぼくらの力を手にしたところで持て余すか呑まれるだけ。永い時がそれを教えたはずだ。海の均衡も崩れつつある。これ以上は捨て置けない。ぼくから奪ったすべてのものを、返してもらう』

「シェルスフィアが…王家があなたから、奪ったものって…?」


 はじめの約束。すべてがそこに行きあたる。

 王家の呪いも、神々の解放も、リズさんの呪いも、そしてこの戦争も。

 

『…心、だ。かつてひとりの少女が植えつけたそれを、ひとりの王がすべて奪って粉々にした。その心の為に、ぼくは大事な子ども達と、海と、力と。その殆どを失った。だけど永い時を経て、少しずつぼくに還ってきた。あとは…マナの心だけ。きみだけだ、マオ』


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