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「真魚のお母さんはなぁ…とにかく自由奔放で海が好きで。泳ぎが上手くて…お父さんとの出会いも、海だったんだよ、そういえば」
沈黙の中、一番に口を開いたのはお父さんだった。
片手に持ったお椀のお味噌汁を一口啜って息を吐いて。それから箸を置かずに話を続ける。
「お父さんも泳ぎが下手ではないと思っていたんだけど…なんというか、若い頃特有の、はしゃぎ過ぎて。海で溺れてしまってね。その時助けてくれたのが、お母さんだった。だけどお父さんを助けたあと、また当然のように海に潜っていくお母さんを見て、もしかしてあの人は人魚なんじゃないかと、そんなことを本気で思ったりしたんだ。あの時は」
まさかこのタイミングでお父さんとお母さんの馴れ初めを聞けると思っていなかったあたし達は、なんとなく気まずさと気恥ずかしさに襲われながらも、話の続きを待つ。ただの昔話でも世間話でもないことくらいは、こどものあたし達でも分かっていた。
お父さんがまた、一口。お味噌汁を口に含む。
「真魚は、そんなお母さんにそっくりだ。面影もそうだし、以前一度だけ見た、泳ぎ方も。だけど性格は…どちからというと、父さん似だね」
そう言いながらその優しい眼差しが、自分に注がれているのはいやでも分かる。
分かっていてあたしは、顔を上げられなかった。
ここには湊と海里も居るからだ。お父さんのその言葉を、今。どんな気持ちで聞いているのか。どんな思いで今。
そしてそれをさせたのは、あたしなのだ。
「だけど人というのは、血の繋がりだけではない。勿論戸籍上とか、そういう問題ではなく。血だけが形を、関係をつくるものではないからだと、父さんはそう思う」
お父さんの声にひかれるように、あたしは思わず顔を上げていた。
視界に湊と海里の顔が映る。誰も口を挟まない。
「例えば、習慣。例えば、会話。例えば、食事。食事は体の血肉、もっといえば細胞になる。こうして食べたものが、この体を作ってくれている。それはおかあさんの作ったものが、父さん達の細胞ひとつひとつを作ってくれているということだよ。それを皆で積み重ねていくと、おんなじ細胞がこの体にも、その体にも出来上がる。ひとりひとりの好みとかを反映して、ここにしかない味が出来上がる。それがつまり、家族ってことじゃないかな」
それからようやくお父さんは、お椀と箸を静かにテーブルに置いた。
お椀の中身はいつの間にか空っぽだった。すべて綺麗に飲み干した、その後に残るものは。
それからぐるりと視線を見回す。あたし達全員を、しっかりつ見つめながら。
「なくなったのなら、また。まだないものなら、これから。作れば良いんだ。月並みだけれど…みんなで、一緒に」
それはきっと紛れもなく、お父さんの本心なのだろう。お父さんが今までずっと、そして今でもずっと。望んでいるもの。
ただ、それはお父さんなりの答えに過ぎない。
お父さんの言い分の終わりを感じ取った海里が、お父さんに
それから音を立ててテーブルに置き、その鋭い視線をあたしに向ける。
「ぼくは、前の味の方が、好きだった。うちの味は、死んだ父さんの味だ。うちのごはんは、父さんが作っていたから」
思わず目を丸くするあたしに、お義母さんがこそりと「ウチは専業“主夫”だったの」と補足説明をくれた。
そうだったのか。珍しいけれど、それはうちでも同じだった。途中じからあたしも作るようになったけれど、お母さんの味を作れない我が家の食卓は、それぞれの味つけで並ぶ。似たり寄ったりの好みの味が。
「父さんのごはんは、美味しかった。自分の体が丈夫じゃないからか、食べ物には人一倍ってくらいに気を遣って…そうして外で一生懸命働く母さんと、ぼくらを育ててくれた。なのに、結局…自分が、死ぬなんて。勝手に、母さんと湊を頼むだとか、急に全部押し付けて、いなくなるなんて。でも、だから。母さんと湊には、ちゃんと幸せになってもらわないといけない。ボクにはその責任があるから。その為なら…湊があなたと馴染めないなら、ぼくは全力で湊の味方をするし、母さんがおとうさんと仲良くして欲しいなら、上辺だけでも完璧な家族をいくらでも装える。だけど、あなたとは無理だ。だって、ずるい。一番真っ先に、逃げ出すなんて…!」
捲し立てるように一息に、そう吐き出した海里は肩で息をして、グラスの水を今度は飲み干す。
空になったそれを音を立ててテーブルに置き、その視線を再びあたしに向けた。いつも向けられたいた
その瞳にはもう怯まない。
こわいと思っていたのは、何も知らない、分からないから。
今ここに曝け出されたものに、こわいものなんてひとつもない。だから目を逸らさない。ここまでそうして周りの人たちを傷つけ続けてきたのだから。
「ぼくはあなたを、許さない。この家でそれが、ぼくの役目だ。また勝手に逃げだしたり目を逸らしてみんなを傷つけることがないように。ぼくは、あなたから決して逃げずに、ずっと見張り続けてやる」
つまりはまさかのストーカー宣言に、一瞬目を瞬かせて。
それから思わず片手で目元を覆う。口元には苦笑い。一気に呑み込むには時間がかかる。先にぽろりとまた、涙がこぼれた。
それは、もう。とにかくここに居ろって、言ってくれているようなもの。
そんな兄の姿に、何を思ったのか。
続いたのは湊だった。こくこくとお味噌汁を飲み干して、テーブルに置いて。
それから僅かばかりの間を置いて、その視線をあたしに向ける。
「…あたしは…あたしも。お父さんのほうが良いこととか、たくさんある。だってあたしの、お父さんだもん。顔とか声とか、死んじゃったお父さんのほうが、今だってぜんぜん、好きだけど…でも、今は。帰ってきたら、お母さんが家に居るようになったこととか、お休みの日に、公園にみんなで行けることとか、そういうのが、一番良いって、思ったの。一番大事だって。あたしは、お母さんと、お兄ちゃんと、おとうさんが居れば良いって、そう思ってたから…もう誰にも、あたしの家族をとられたくないって…だけど」
幼さの残る小さなその拳が、震える。視線がテーブルの上へと落ちていく。
「おとうさんは、みんながいいっていうから。今のままじゃ寂しいって、言うから。あたしじゃ、ダメなのかって、思って…そしたら、不安になって…いっぱい、意地悪しちゃっ……」
言葉の最後は嗚咽に混じる。
こんなに多くを語る湊を見たのは初めてだ。言葉につかえながらも、それでも本音を心から。その零れる小さな雫は、テーブルに重なって染み込んでいく。
途中お父さんが少しショックを受けていたのが視界の端に映ったのが面白かった。あたしは湊達のお父さんの顔を知らないけれど、たぶん知っていたとして、相手がどんなにイケメンだったとしても。それでもやっぱり、お父さんを選んでしまうと思う。そんなもの。
この家にあったいくつかのもの。
お母さんが亡くなって少し減って。
今度は家族が増えて、古いものは新しくなった。
そんな中残ったものだけは。
きっとこれから先も、決して変わらずそこにあるものなんだ。
何故だか漸く、そう思えた。
「じゃあ次は、お母さんね」
言って、まだお味噌汁の残るお椀を両手の平の中に収めながら、お義母さんはみんなの視線を受ける。
視線は手元に残したまま、それぞれの心の内には、誰も何も返さない。おそらく皆それを感じ取っていた。ただ、聞くだけの場なのだと。
「これは、おとうさんにもまだ言ってないことなんだけれど…」
予想外の切り口に、真っ先にお父さんが目を丸くしてお義母さんの横顔を凝視している。それを難なく受け流して、その視線をまっすぐ、あたしに向けた。
「実は、私。
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