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「お母さんがまだ研修医の時。配属されたのが、真那さんの入院する病院で…それが今の勤務先でもあるんだけれど。妊娠中の真那さんと、その時初めて出会ったの。大部屋の、一番窓際のベッド。いつも窓の外の海を見ていた」


 息が一瞬詰まる。その光景が、胸に甦ってきて。呼吸を奪う。

 思わず喉元を押えるあたしを、お父さんの心配そうな目が見守っていた。


 お母さんは生まれつきの持病を抱えていた。その為に幼い頃から体を鍛える為に、水泳は続けてきたって聞いたことがある。

 だけど、病が悪化して。泳ぐことも禁止されて、入退院を繰り返して。いつだって要経過観察の状態だった。

 そんな中でのあたしの妊娠は、体への負担の方がはるかに大きくて。

 かかりつけの大学病院での出産だったと、聞いている。海と家からとても近く、あたしも幾度となく行ったことがある。いや、多分逆なのだ。病院と海に近いこの場所を、家として選んだだけかもしれない。

 結局家に居ることよりも、その病院に居ることの方が長かったように思う。そんな遠い過去。


「研修期間中の、短い間だった。定期的な朝の問診の補佐としてほんの少し会話を交わす程度。出産に立ち会ったのはほんとうに偶然。夜間で人手が足りなかったから。忘れられない、月の綺麗な…驚くくらいに大きな満月の、静かな夜だった。窓の外の海は凪いでいて、ふたつの月が、それを見守っていたから」


 知っている、と思った。

 本当に? お母さんから聞いた?

 それとも誰が――

 見ていたの?

 ――あたしを。


「あなたが生まれてきた日のことを、私は今でも覚えてるの。だって生まれてくるあなたを受け止めたのは、私なんだもの。あの時の出来事が、今の私を強く支えてくれている」


 そっと伏し目がちに流れた視線が、自分の指先で止まる。

 お義母さんは看護師だ。だけどお父さんと結婚してから、勤務形態を変えたらしい。夜勤を控えて出勤も時間をセーブできるようになったとは聞いていた。いつでも家に、居られるように。

 それからふとその視線を、まっすぐあたしに向ける。

 いつもどこか気を遣うような、配慮を踏み越えることのないような、遠慮がちだったその目が。今日はやっぱり違った。


「だからね、これは私個人の信念なんだけれど…あなたは紛れもなく、私の子なのよ。だってわたしがこの世界でいちばん最初に、あなたを迎えたんだから。…この手で」


 それはかなり個人的で、かつ身勝手というものでは。

 だけどそう、そうやって。

 世界はまわっているのだろう。

 あたしの知らないところで、だけどどこかで繋がり合って。


「……あたしは…」


 そうしてまわってきた自分の番。

 ぐるぐるといろんなことがまだこの胸の内でわだかまっているけれど。

 たぶん大事なのは正しく話すことよりも、ただ正直に、さらけ出すこと。

 胸の内側なかぜんぶ。醜さも痛みもたぶん本当の願いごとも。


 あたしは。

 ――あたしは。


「あたしが、生まれたせいで、お母さんが生きるべき時間を奪ったなら…その命を糧にして、あたしという存在があるなら…あたしなんか生まれてこなくて良いから…お母さんに、生きていて欲しかった」


「……!」


 お父さんの、息を呑む気配。

 だけど言葉は発しない。慰めの言葉も擁護も否定も。

 それが暗黙のルール。あたしは続ける。


「生まれてきて良かったなんてそんなこと、思えない。だって現実に、お母さんが死んで、お父さんが……」


 違う。

 誰かの為にとか、そんなのは全部、建前たてまえだ。

 本当は。ぜんぶ。


「あたし、が……! あたしが、苦しい。つらい。生きていて良かった、って…! 思えない……!」


 お母さんが死んだせいで。あたしがお母さんの代わりに生きているせいで。

 本当はそうやって無意識に、押し付けて擦り付けて誤魔化していた。


「死んじゃった、お母さんが…! あたしは許せない……!!」


 ――終わらない宝探しのように。

 終わらせることのできないこの想い。


「そんなことを、思ってる、あたし自身が一番…っ」


 …お母さんを、大切なふりをして。

 あたしはずっとそうやって、あたしを傷つけた相手を、憎み続けていた。

 同情の目を向けられながらそれを利用して。傷ついているふりをして。必死に押し隠していた醜い感情。


 きらい。きらい。お母さんなんか、

 ――だって、どうしたって、もう。

 終わらせることなんて、できないのだから。


 そんな最低なこと、誰にも言えない。言えるはずがない。

 だからすり替えた。ひとりぼっちのふりをして。


 たぶん、あたしは。

 この想いを他の誰でもないお母さんに伝えるまで。

 救われないのだろう。きっと。

 救いのないものをこうして、抱え続けていくのだろう。


 だけど、そんなあたしに。

 家族だよ、って。言ってくれたひと達が居る。


「大嫌い、あたしは、自分が、いちばん…! でも、そんな、あたしでも…!」


 本当のあたしを、彼は知っていたんだろうか。

 もしかしてあたしのこの卑劣な心も全部、見透かされていたのかな。

 どうしてだか分からないけれど、あの世界ではこんなに重たい悩みさえ、ひどくちっぽけなことなのかもしれないと、そう思えた自分が居た。


 あの、青の世界。

 あたしのことを大切だと言ってくれた、大切なひと達――


 ――ジャスパー。

 約束を、守らなければ。


 みっともないけれど。恥ずかしいけれど。

 弱くて醜い心を晒すのは、とても怖いけれど。

 だけどあたしはこの心を、みんなに分けたんだ。

 だったら、あたしは。

 それに恥じない自分に、ならなくては。例えもう、遅くとも。


「…好きに、なって欲しい。嫌いにならないで、いて欲しい。あたしは多分、ぜんぜん、良い子でもなんでもないけれど…それでも、ぜんぶ、まとめて…」


 無意識に、ゆっくりと、顔を上げた。零れるものすべてそのままに。

 あたしが求めていたもの。あたし自身がその答えを、こうして見つけたことに、今やっと気付いた。

 

 その願いは、身勝手なのだろうか。

 押し付けだろうか。

 …重荷だろうか。

 だけど世界の誰もがきっと、願わずにはいられないもの。それを実際どれくらいの人が、口にするだろう。臆面もなく。今の、あたしのように。



「――愛して、ほしい。そうしたらあたしはいくらでも、強くなれるから」



 あの世界でしった、一番大切なこと。

 求めることは、生きる糧だ。

 そして同時に求められるということは、希望にもなる。


 だから生きていける。

 だから、生きていく。


 ようやく見えた一筋の光。

 そっと頬を滑る涙の雫に、何故だかとても懐かしい温もりが触れた気がした。


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