第15章 遥か彼方、わすれもの
1
月がとても綺麗だった。
あの満月を、どこか別の場所で誰かと見ていた気がする。
誰だろう。どこだろう。
思い出さなければ、はやく。
月があの海に沈む前に。
太陽がすべてをまたはじめる前に。
あの人が行ってしまう。
あたしを置いて、哀しみだけを抱きながら。
あたしはずっと、ここに居るのに。
―――――――…
目が覚めるとそこは、自分のベッドの上だった。
ひとり暮らしのあの部屋ではなく、実家の自分の部屋。
見慣れた天井、部屋の匂い。高校に入学して家を出て以来、帰ってこなかった部屋。
どうしてここに居るのだろう。
カタン、と。
小さく音がした方に頭だけ向けると、部屋の扉の隙間から覗く影。
目が合って、びくりとその影が後ずさり、一目散に階下へと駆け下りていく足音が家中に響き渡った。
「お、おとうさぁん! め、目が、覚めた…! 起きたみたい…!」
久しぶりに聞く、幼さの残るその声。
父の再婚相手の連れ子、血の繋がらない妹。
薄く開いた扉越しに、階下が騒がしくなるのを感じる。
ぼうっとそれを聞きながら、再び視線を天井に戻した。
どうなったんだろう。あたしはなんで、ここに居るんだろう。
だって、あたしはあの海に――
そこまで考えて、思い出して。心臓が握りつぶされるような痛みに体を曲げる。ついでに脇腹にも激痛が走った。それでもどんなに痛くても、自分で自分の体を抱いて、慰める他に術はなかった。
あぁ、痛い。なんて痛い。
なんて、ずるい。笑ってさよならを言うなんて。
もう要らないなんて、そんなひどいことを。本心で言っておいて、泣くなんて。
ひどい。ずるい。どうせなら。
いつもこの世界に引き戻される時と同じように、また曖昧な記憶のまま。一生思い出さないでいさせてくれれば、少しは救われたかもしれないのに。
今度はちゃんと覚えている。ぜんぶ、この心と体が。痛みを通して訴える。
要らないと切り捨てられたこと。
「……どこか、痛いんですか」
薄暗い、自分だけだと思っていた部屋に、静かなその声が沸く。
ベッドの上で体を曲げて
涼しげなその瞳はまっすぐあたしを見つめている。だけど不思議ともうそれを、冷たいものだとは思わなかった。代わりに別の人の影がふと重なって、胸に痛みと熱が甦る。どことなく面影が、似ている気がしてしまうから不思議だった。
「今、お医者さまを呼んでいます。すぐにおとうさんも来ますよ」
「……そう」
「あなたが学校で倒れたと家に連絡がきて…それから家まで連れて帰ってきたんですが、あなたはぜんぜん目を覚まさなくて。目が覚めたらお医者さんに連絡すると、そういう約束だったんです。だから」
「…そっか」
普段海里は基本口数も少なく感情表現も乏しい、そんな印象だった。
一緒に暮らしていたのは僅か数ヶ月。たったそれだけで、分かった気になっていた。
何も知ろうとしなかっただけのくせに、あたしは。
「あなたを、一番心配していたのは、おとうさんです。当然です。だってあなたは」
あたしはゆっくりと体を起こし、それから僅かに距離を空けた場所で立ち尽くしたままの海里に向き合った。
この距離は、そのまま。あたし達の心の距離でもある。信頼には到底足りない。俯かれてはその表情も見えなくなる。だけどあたし達はずっとそうしてお互いに、目を逸らし続けてきたのだ。ここまで。
――でも。
今だけはきっと。逸らしてはいけない。絶対に。
「おとうさんの、本当の子どもなんですから。勝手に、出ていったくせに…! おとうさんの心ごと半分持っていってしまったくせに、これ以上…見せつけないでください、血の繋がりには勝てないと、ぼくらに。あなたは、ずるいです…!」
ぎゅっと、その拳に力を込めて。海里がその顔を歪めて涙を零した。
それは行き場のない怒りと持て余した哀しみが入り混じったもの。憤りとやるせなさ。いろんな感情が混じり合ったもの。初めて見せる海里の本音。あたしへの妬みと少しだけの情を感じた。今まで気づけなかったもの。
きっと海里の言う通りだ。
一緒に暮らしたくないとか、受け入れられてないとか気が合わないとか、そんなの全部言い訳で。少しでもお父さんの気をひきたかっただけ。心配して欲しかった。気にかけて欲しかった。誰よりも一番にあたしのこと、考えてほしかった。
お義母さんや海里や湊よりも、あたしのことを、お父さんが。
大事だって思ってほしかった。だってあたしにはもう、お父さんだけだと思っていたから。
なんて幼稚で我儘で身勝手な感情。それで誰かを傷つけるときっと無意識に分かっていても。それでもあの時のあたしには、そくらいしか方法がなかったのだろう。言葉にすることすら、していなかったくせに。
「…ごめん。その通りだ。あたしはいろいろ、順番を間違えてたみたい」
バタバタと、階段を駆け上がってくる足音。お父さんだ。足音で分かるなんてへんなカンジ。
だけどきっとそれが、家族だということなんだ。積み重ねていくものなんだ。ぜんぶ0から、ひとつずつ。
それからそっと、未だ一度も触れたことのない
びくりと海里は一瞬身構え、だけど拒むことはしなかった。きっとそれが海里なりの答えだったのだ。本当はもうずっと。
「真魚!!」
勢いよく部屋の扉が開けられて、血相を変えたお父さんが携帯片手に飛び込んでくる。
その後から湊とお義母さんが続く。なにやら必死の形相が、次の瞬間には部屋の中の光景に目を丸くする様は見ていてちょっとおかしかった。真っ先に反応したのは湊だった。
「な、なにしてるのよ、お兄ちゃんに…! あ、あたしのお兄ちゃんなんだからね、あんたなんかこれっぽっちも、心配してなんか…!」
ツンデレ妹のテンプレみたいな台詞を吐くあたしのことを嫌いな妹を、ぐいとひっぱって抱き締める。海里にもそうしたように。
湊は分かり易くはじめは叫んで暴れて、だけど最後には声を上げて泣き出した。
幼稚な言葉でたくさん罵られて、そして最後にはごめんなさいと小さな謝罪。幼い妹の過去に犯したとてもとても小さな罪を、裁く者はここには居ない。
成り行きを見守っていたお父さんとお義母さんは、頃合いを見てふたりを引き剥がし、それからあたしを病院に連行しようとしたけれど、あたしはそれを頑なに拒否した。
時間は真夜中。もう少し寝たい。起きたら必ず行くと約束し、その夜はリビングに布団を敷いて皆で眠ることになった。
目が覚めて居なかったら困る、とお父さんは至極真面目に、真剣な表情で言う。
何故かふと思った。むかし、お母さんが。そうしてお父さんの前から姿を消したことがあるのだと。
だからお父さんの提案を拒めずに、ホームドラマみたいな親子川の字を体現するハメになったけれど、思ったより悪くはなかった。ひとりで眠ることの方が慣れていたはずなのに。
湊も海里も文句を垂れながら渋々といった様子だったけれど、布団に入ればあっという間に夢に落ちる。
「心配で、眠れていなかったのよ」とお義母さんが、闇夜に優しく囁いた。
“おかあさん”の声だと、そんなことを思った。
暗い部屋にこどもの寝息。しばらくするとそれに大人も混じる。寝息に挟まれながら見上げるリビングの天井。
小さい頃にお父さんとふざけて貼った蛍光シールがまだ残っていて、ぼんやりと明かりを残していた。
そんなこともあった。まだ残っていたんだ。いつの間にかなかったことになっていく、いくつかの思い出。
それを見上げると、ふとあの海を思い出した。
トリティアが帰りたがっていた、遥か遠い故郷の光の海。
それからリズさんのあの部屋。光の粟粒がいくつも空へと浮かんでは消えた。不思議と懐かしいと感じたあの場所。
「――ここに、来たことがあるの…?」
小さく、零した言葉に。
ゆらりと天井の影が応えた。
『…そうか。アンタ、あの子の
「…リズさん、目が…?」
『…見たくもないことは視えるのに、見たいものは、見えないなんて…皮肉だねぇ』
微かにわらうその気配が、部屋の空気をふわりと揺らす。
その姿までは現さずに、そっとこの部屋の空気に紛れている。
リズさんは、ずっと。
ずっとあたしのお母さんを。
『――あの子が、呼んでる気がしていた。だけど、アタシの…勘違いだったのかもしれないねぇ。だってあの子はもうとっくに……アタシを置いて、いってしまっていたんだから』
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