9



「……シア…?」


 今、なにを言われたのか。あたしの頭はまるで理解できなかった。シアが何をしようとしているのか、これから何が起こるのかも。

 ただ。

 シアはその時初めて、あたしの顔を見て、一雫だけの涙を零した。そんな自分の顔を隠すように、もう一度あたしをその腕の中に閉じ込める。だけどそれは、先ほどまでと違いただ優しさの為だけでなく。

 文字通り、逃がさない為に。


「――リズ、頼む」


 シアのその一言に応えるように、暗闇からリズさんが姿を現した。突然現れたその気配には、深い混沌が混じっている。近くで感じて鳥肌がたつほどの。

 あたしはリズさんの姿をきちんと見るのはこれが初めてだ。以前言葉を交わしたことはあるけれど、その姿は薄いカーテンの向こうに阻まれていた。あの、地下の部屋で会ったきり。

 リズさんがあそこから、出られないと言っていた。

 どうして、今ここに――


『…開けてやるのは構わない。だがアタシはその娘に触れられないよ』

「…なんだと」

『アタシ達に肉体はない。今まではその娘の中に居たトリティアが橋渡しをしていたようだが、今はもう居ないようだ』

「…!」


 リズさんと話していたシアが、腕に力を込めるのが分かった。

 どうやら不測の事態らしい。その表情がすぐ近くで曇る。


「…陛下…! マオを…、どうするつもりですか…?!」


 この緊迫した空気に割って入ってきたのは、意外にもイリヤだった。シアは極めて冷静に、視線だけでイリヤに応える。

 透き通るように澄んだ声。その声に押されるように、だんだんと現状が見えてきた。


 お別れだと言ったシア。

 こんなタイミングで、あたしの元へ来た。危険を顧みず、おそらく国の一番大事な時期に。

 それは、その理由は――


「…マオをもとの世界に帰す。そしてもう二度とこの世界へは来させない。…異論はあるか」


 シアが、その声音を落としながらイリヤをまっすぐ見据える。その視線に、瞳に、イリヤが僅かに怖気づくのが分かった。だけどすぐに顔を上げて、シアと真っ向から対峙する。

 あたしは何故か他人事のようにその様子を心のどこか遠くで眺めながら、シアの言葉を頭の中で反芻していた。


 もとの世界に帰す?

 あたしを…?


 どうして、だってシアにはできないって言っていた。

 シアの意思では、それは――


 それに異世界の門を開けるのは、トリティアにしかできないことだと、そう思っていた。

 だけどそうだ、確か言っていた。今までは、そうだったって。

 だけど今は違う。おそらくもうひとり、扉を開けれる存在。

 それがきっと、リズさんなんだ。

 何かが大きく変わってしまった。この国で。

 だからきっと、ここに居るんだ。

 

 待って、シア。あたしはそんなこと望んでない。

 いやだ、イリヤ。止めて。だってまだ、あたしは――


「いいえ。陛下がマオを戦線に連れていくつもりなら…止める気でした。命に、代えても。でも、違った。マオをもとの世界に帰してくださるというのなら――」


 いやだ。まって。

 イリヤ。どうして――


「お願いします。マオをもとの世界に、帰してあげてください。魔法も戦争なんかも要らない、生まれ育った大切な地へ。その為ならボクらは…その望みを叶えて頂けるなら。陛下の為にこの命を差し出す覚悟です」


 そう言って深く頭を下げたイリヤはもう。あたしのことなど見ていなかった。

 どうして、と。その言葉すら声にはならず、その姿をただ茫然と見つめる。


 それから周りに居たレピドやルチルや船のみんな。クオンやレイズにゆっくりと視線を向けた。たぶん縋るような情けない顔をしていただろう。自分でも分かる。

 誰ひとり、逸らさない。

 逸らさずそして、何も言葉を発しない。

 ただ黙ってあたしの視線を受け止めて、そして留める。

 引き留めて欲しいあたしの気持ちを見透かしているくせに、誰もそれをしようとしない。

 あたしとの別れを拒む人は誰も居なかった。

 ここに居たいと、そう願っていたのは。望んでいたのは。

 あたしだけだった。 

 

 シアがそっと腕の力を抜いて、あたしをその腕から解放した。

 おそらくシアがもう大丈夫だとそう判断したのだろう。この船に、自分の意思に背く者は居ないと。


「皆が同じ気持ちのもと。おまえとの決別を受け容れている。後はおまえだけだ、マオ」


 シアは変わらず優しい声で、あたしの顔を覗き込む。

 諭すようなその声音。後はあたしを説き伏せるだけ。自らの意思で帰るようにと。おそらくそうしなければいけない理由があるのだろう。

 

 リズさんが扉を開き、無理やりにでもあたしを連れて行く算段だった。でも、リズさんはあたしに触れられないという。ひきずってでも連れていってもらうつもりだったに違いない。

 だから最後はあたしに、自分から門をくぐってもらわねばならなくなった。

 シアも、詰めが甘いな。きっと相当な覚悟を以てここに来ただろうに。

 あたしが居なくなったら困るはずだ。あたしのこの、中途半端とはいえど神の力。それがなくては戦争に勝つことはあり得ない。今の現状では。

 だってこの世界にはもう、シアに味方してくれる神さまは、居ないのだから。


 ――あたし以外。


「嫌。あたしは、帰らない。あたしはここに残ってやり遂げたいことがある。それが済むまでは絶対に、帰らない」

「……ッ、マオ!」

「あたしの気持ちを蔑ろにしないで! あたしの気持ちは…っ、聞いてくれないの…?!」

「すべて命あってこそだ! この世界に居ては、おまえはただ消費されていくだけだ! もはやおまえという異質な存在は、他の神々ですら捨て置けぬ存在。もう、おれひとりの力では…! 守ってやれないんだぞ!」

「そんなのいいよ! 守ってくれなくて良い、誰にも守ってほしくない…! あたしは、もうこれ以上…っ」

「それはお前を守る為に命を懸けたあの少年への冒涜だぞ!」


 がしりとシアが、あたしの両肩を強く掴む。

 その強さと剣幕に思わず息を呑む。やっぱりシアは、すべてを視ていた。知っていたんだ。

 じわりと、涙が滲む。上手く言葉が出てこない。

 いま、伝えなければきっと。

 これが最後になる。なのに。

 目の前のシアの顔が苦しそうに歪む。痛いのは、あたしだ。なのにどうして。


「ちゃんと、生きてくれ、マオ。この世界の為にではなく、おまえの為に。ここに居るすべての者が、それを心から望んでいる」


 嫌だ。なんて思われてもいい。言われてもいい。

 軽蔑されても嫌われても、みんながそれを望んでいなくても。

 あたしは、この世界で――


「俺が連れて帰る」


 突如伸びてきた腕に、自分の体が強く引っ張られる。

 驚いて視線を向けると、あたしの腕を掴んでいたのはリュウだった。

 その瞳は何を考えているのかよくみえない。眩いばかりの光の中、眼鏡のレンズに反射して。

 露わになった制服の、胸元の校章。それがやけに目についた。

 今度はリュウが、シアと対峙する。

 リュウは現状敵国の捕虜という扱いだ。シアがそう簡単に信じていい相手じゃない。

 なのに。


「…分かった。任せる」

「…! リュウ! やめて、離して!」


 理解できない。受け入れられない。今ここに、あたしの味方は誰もいない。

 リュウは暴れるあたしをシアの腕から引き離し、それからその目をイリヤに向けた。


「アールを頼む」


 その一言に、イリヤが黙って頷く。

 どうして、リュウが。あたしの知らないところで、あたし以外の意志で。勝手に決められていく。あたしが望んでもいない別れを。

 状況を理解できないあたしを置いて、シアが身を起こし光を仰いだ。


「頼むリズ!」


 シアの言葉に一瞬の間を置いて、光が応える。

 その光はやがてあたしの足元へと集まり、一瞬の浮遊感。光の柱が船に建つ。あたしとリュウを包むように。


「いやだ、シア…! みんな…!!」


 リュウの腕の中でもがくように、足掻くように。

 泣きながら叫ぶけれどその声は誰にも届くことはなかった。

 溶けていく光の向こう、あたしの伸ばした手の指先に、そっとシアが同じ指で触れるだけの別れを告げた。いつものように笑いながら。

 あたしはその儚い温もりに縋りながら、必死に手を伸ばす。シアの、青い瞳。そこにあたしはいるのに。


「シア! あたしは…! もう、らないの……?」


 言葉の最後が、震える。

 あたしの言葉にシアがくしゃりと、繕っていた笑みを消す。

 それから顔を歪めながら、あたしの手を強く握りしめて、ほんの一瞬だけ泣き顔を晒した。

 ぐ、っと強く瞼を瞑って、呑み込む感情。苦悩と葛藤の混じるそれにあたしはすがる。何度だって。


 傍に居させて。離れたくない。あたしは、ここに居たい。シアの傍に――


 そんなあたしの最後の願いを、掻き消すのはやっぱりシアの笑み。泣きながら、もう隠そうともせずに。


「――ああ、そうだ。マオ、もうおまえの力は必要ない。この国のことは、この国で生きる者たち達が必ず守る。だからもう、いいんだ。マオ。おまえは、もう、要らない。もう充分だ」

「……!」


 それからゆっくりとシアが、絡んでいた指を解く。最後に残った指先に、別れのキスを残して。

 笑っていた。すべての迷いを捨て去って、そこにあたしという存在も乗せて。

 それが最後の瞬間、あたしが見たシアの姿だった。



 すべてが光に消えていく。

 青い海も

 貴石の王国も

 そして大事なひと達も、すべて。






 そして、あたしは。


 目が覚めたそこはもとの世界。

 旧校舎のプールに居た。



 失ったという記憶だけを、今度は失わずに抱きながら。


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