第13章 失われるもの

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「ボクの一族が海の神々と共に生きていたのは、シェルスフィア建国時まで。いつから、かは分からない。だけど気付いたらボクらはとても近い存在だった。言葉を交わし、知恵を借り、成果を返し、棲みかを分け合い、共に助け合う。それがボクら“瑠璃の一族”だ」


 木の桶に腰を下ろして、イリヤは両手の手桶で海水をすくっては隣りの大きな鍋へと移すといった作業を繰り返す。

 あたしとクオンもそれぞれ作業場所を確保し、手ではなくお椀のような容器で海水を決められた量に移し替える作業を手伝いながら、イリヤの話に耳を傾けていた。

 人気ひとけを払った船尾、今あたし達がしているのは海水を真水にする作業だ。

 海の上での真水精製はとても重要な仕事だ。この作業の邪魔は何人なんびとたりとも許されない。なので必然的に作業時は人払いができるのだ。


 イリヤの話を聞きたいと相談した時、じゃあ仕事しながら、という流れになった。

 船の上でのイリヤの主な仕事はこの真水精製作業だ。

 悪天候でない限りは、イリヤの主導で決まった時間に決まった量の真水をつくる。この作業は船員の中で一番イリヤが適役だったらしい。


 海水を真水にする作業自体は、そう時間も技術もかからない。 

 だけど不思議なことにイリヤの手にかかると、同じ作業なのに仕上がりに差が出た。

 イリヤ自身も馴染んだ作業だとは言っていたけれど、それは期待以上の成果だった。

 時間が短縮できる上に、ただの真水のはずが治癒効能が高いというのだ。

 クオン曰く、イリヤも相当の魔力を有している異質な存在なので、海水とはとても相性が良いからではないか、との見解らしい。

 イリヤは普段この作業時、歌をうたいながら作業しているという。そうすると水が応えるというのだ。

 今日は歌の代わりに昔話。

 イリヤは自身と、そしてその血のヒミツをそっと解く。

 おそらく永く深く隠されてきた秘匿の歴史。

 だけどイリヤは迷いも抵抗も微塵もなく、話してくれた。

 イリヤ自身も、重かったのかもしれない。誰かに話したかったのかもしれない。


 イリヤの言葉に目を丸くしたのはクオンだった。


「…“瑠璃の一族”…古い文献で一度だけその名を聞いたことがありますが、てっきり架空の存在かと思っていました。……本当に実在していたんですね。…こんなにも永い時の間」

「そうだよ。その単語は随分と昔に封印されたから、ぼくも口にするのは初めてだ」

「…良いのですか。それを解く判断を、あなたがして」

「だってボクの呪いはもう解けたんだから。ボクはもう自由だ。咎める者は誰も居ない。皆居なくなった。ボクはボク自身の心に従うまでだよ」


 そう言うイリヤの声音も表情も、以前よりずっと明るかった。吹っ切れたというよりは、もとからそう決めていたのかもしれない。その時が来たら、すべて話すと。


「彼らはボクらを“友”と呼んだ。その契りを“歌”に込めた。すべての神々と分かり合えるわけではない。だけどボクらはどうしても、深く関わり合う場所に居た。だから、身を護る為、棲家を護る為、血脈を護る為…神々に対抗しうる力を、この血と歌に刻んだ。自らの身さえ顧みず。ボクらが最も長く共に歩んだ神…それが、トリティアなんだって」

「……! トリティア…?!」

「この北の海はボクらがかつて棲んでいた海だ。人に追われ、棲家を追われ、いろんな海をまわりながら、時折帰ってはまた追われる。だからボクにとっては故郷の海だなんて思えないけど…だけど母が育ったのは、この海だった。ボクがあの首飾りを継いだのも。ここはボクにとって地獄のはじまりの場所だよ」


 イリヤの、首飾り。イリヤの声と自由を奪っていた、トリティアの呪い。

 そのはじまりが、この場所。


「ごめん、そんな…そんな場所だったなんて…」


 そうだ、イリヤは言っていた。ここには来たくないって。

 例えあの時理由を聞けていたとしても、あたしは目的を変えられない。

 だけどもしかしたら、もっと何か別の方法があったかもしれない。

 間違いなく、イリヤを巻き込んだのはあたしなんだ。


「いいんだよ、マオ。知らないことは罪じゃない。知ろうとしてくれたから、ボクはようやく今、荷物をひとつ下ろせた。


 イリヤはそう言って、あたしの隣りに肩を寄せる。そしてそっと手を差し出す。

 イリヤの分の仕事はいつの間にか終わったらしい。あたしの目の前の水桶は、まだいっぱいだ。


「ひとから人へと語り継がれる伝承は、ひどく曖昧で適当だ。時間が経てば経つほど、確証は薄れていく。だけど大事なことだけはなぜか、決して見失われることなく、伝わってきた」


 イリヤがその両手をあたしの手にあてがって、同じかたちを作らせた。それから海水をひと掬い。二重になった手桶の中で、水がゆらゆら光に反射する。

 

「すべてのひきがねは、シェルスフィア建国時の戦争。シェルスフィア王家は海の神々から大事なものを奪った。トリティアの呪いはその報復。ボクらはこの血で王家の罪を灌いできた。そして歴史は繰り返される。海が彼女を取り戻すまで」


 イリヤのその口ぶりは、まるでお伽噺を子どもに読み聞かせるような、そんな響きを孕んでいた。

 ゆらゆら、手の平の中で水が躍る。イリヤの呼吸に合わせるように。


「…彼女…?」


 あたしとクオンの、食い入るような視線を受けながら。

 イリヤは甘い笑みを浮かべる。寄せられた肌から体温が伝わる。


「――900年前。シェルスフィア王家が海の王さまに捧げた、生贄の少女。契約の代償。戦争に勝利をもたらす力を貸す代わりにと、ひとりの少女の命が差し出された。だけど王家は約束を違えた。少女を還した、もとの世界へ」


 生贄の少女。

 ――もとの、世界。


「…どういう、こと…?」


 ぐ、と。水を手の平に孕んだまま、力が篭る。

 その中央に小さな波紋。こぽりと息をするように、小さな結晶がそこに生まれた。


「真実はボクには分からないよ、マオ。ボクはただ、伝えるだけ。そしてきっと、伝える相手はきみなんだ。きみに伝えるために、ボクは生きてきたんだと思う」


 その瞳が、哀しく揺れた。

 溢れる、手の平から。結晶の波。

 指の隙間から砂が零れ落ちるように、音をたてながら。


「この戦争を勝たせたいなら、きみは一番大事なものを差し出すことになる。伝承の少女のように。今きみが選ばれてここに居るなら――この戦争の犠牲になるのは、きみだ、マオ」


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