3


「いつまでそうしてんだ」


 突如、扉の向こうから投げかけられたそれが、自分宛てだとすぐに分かった。

 レイズの声。また、不機嫌そうな。


「……っ」


 流石に、バレていた。もう十分近くも扉の前でこうしていれば当然か。

 固まっていた手を動かし、一応ノックをする。相手にバレて居ても最低限のマナーだ。


「…マオです」

「入れ」


 間髪入れずに返事は返ってきて、ドアノブに手をかける。冷たい感触に背筋までひやりとした。ゆっくり回して押し開ける。部屋から漏れる明かりが足元に濃い影を作る。部屋の中には思ったよりも薄暗かった。ドアのすぐ傍に、カンテラの明かり。


「風呂に何時間かかってんだ。ジャスパーを独占すると飯が遅れんだ、気をつけろ」


 そう言った声は、予想よりずっと近く。ドアを開いたすぐ脇に、壁にもたれたレイズが居た。


「…!」

「ぐずぐずすんな、さっさと済ませるぞ」

「えっ、な、なにを…!」


 いきなりぐいと手をひかれ、部屋の中に引っ張り込まれる。それからレイズはガチャリと。扉の鍵を閉めた。


「…どうして…閉める、の…」


 余計なことは訊かない方が良い。だけどあまりの恐怖に、声に出さずにはいられなかった。

 掴まれた手が痛い。振り解けない。

 蜂蜜色の髪の隙間から、またあの瞳。頭のてっぺんから爪先までその視線が這う。ジャラリと腕のブレスレットが鳴った。


「他のヤツらには、見られたくねぇことするからだよ」


 言ったレイズはそのままあたしの手を半ば強引にひき、部屋の奥にあったベッドに放った。ギシリと古いベッドの軋む音が、船の揺れに重なった。


「服、脱げ」



 抵抗はすべて無駄だった。

 ベッドの上に組み敷かれて、どこからか出てきた布で腕を縛られた。レイズの頬にはついさっきあたしが引っ掻いた跡が赤く走る。縛られた腕はその報復だ。

 しかめっつらのレイズは心底面倒くさそうに着たばかりのあたしの服を剥いだ。あたしは涙目で睨みながら、ぎゅっと唇を噛みしめる。


 数分前、叫んだその後でまた強引に口を塞がれて、「舌噛み切るぞ」と脅された。普通逆だと思う、その脅し文句は。でもあたしはレイズにとって人質でも価値のある存在でもないので、当然だった。

 平常時にされたキスは衝撃的すぎて、一瞬の隙にあたしはレイズに組み敷かれて今に至る。

 そんな場合じゃないけど。今さらだけど。本当にそんな場合じゃないことは、分かっているんだけれど。

 ――ファーストキスだった。

 海で溺れた後のやつあれこれはカウントしないと決めていただけに、ショックだった。


「手間かけさせやがって、別に痛くはねぇよ」

「……っ」


 その物言いにカチンときたけれど、言葉が出ない。文句を言ってまた強引に唇を塞がれるのがイヤだった。

 こわくて悔しくて、涙が流れた。ひかれるように唸るように、小さく言葉が漏れる。無意識に出た恨み言に近かった。睨んだ目が交差する。


「…見損なう…ジャスパーはあんたのこと、優しいって言ってたのに…!」

「は、海賊相手になに言ってんだ」


 それは、正論かもしれない。自分が、甘いのかもしれない。だけど理不尽だ。

 ひやりとした感触が腹を撫でる。思わずびくりと体が跳ねた。レイズも多くの装飾品を身に着けていて、指先や手首にもそれはたくさんあって。晒された肌にそれが不愉快だった。触られるのが、イヤだった。


「……何も泣くこと無ぇだろ。こんなのたいしたことじゃない。痕が残るわけでもねぇし」

「…うるさい、もうあんたの言うことなんか信じない…!」


 体の輪郭をなぞるように撫でていた手が、心臓の上で止まる。どくどくと、熱く脈打つ鼓動。自分でも痛いくらいにそれを感じた。

 ギシリと、レイズが体勢を変える気配を空気越しに感じる。固く瞑った瞼の向こうで、もう見る気はなかった。


「…ガキに興味は無ぇが、なるほどベッドの上で泣かれると、それなりにそそる」


 ふ、と吐息が落ちてくる。それはどこか小馬鹿にしたような。


「仕方ねぇな、心臓だけでカンベンしてやる」


 呆れるように言ったレイズの言葉が上手く理解できず、間を置いてゆっくりと目を開いた。自分を見下ろすその藍色の目に宿る光は真剣な色。

 その手が一瞬、離れる。それから今度は同じ場所に指先が触れた。

 心臓の真上。


「…っ」


 肌をなぞるくすぐったさに、肩を竦める。

 冷たい。だけど装飾品の冷たさじゃない。


「動くなっつってんだろ」


 ぴしゃりと言われて、それからおそるおそるその指が触れている先に視線を向ける。レイズの腕が自分の胸に伸び、その指先が心臓の上の肌をなぞっていた。ゆっくりと押し付けられる指の感触が、次第に熱を帯びる。

 もう片方の手に何かを持っていることに今初めて気付いた。何かの容器だ。レイズの手の平に収まるくらいの、お椀のような器。そこに右手の指を入れ、また心臓の上に戻ってくる。ポタリと肌に落ちる液体の感触。

 それはここに来るまでに幾度も見た色で、そして目の前のレイズの肌にも多く刻まれている色だった。


「本来は日に焼いた方がもつんだがな。まぁどうせ水ですぐ落ちちまうけど」

「……刺青…?」

「別に本当に彫るワケじゃねぇ。まじないだ。心臓や急所、肌の露出した部分に描くのが一番だが、そんなにイヤがるなら心臓だけにしといてやる。その代り極力肌出すなよ。もってかれるぞ」


 言いながらレイズは真剣な目で、おそらくその肌にもあるような複雑な紋様を慣れた手つきであたしの肌に描いている。

 あたしの心臓の、真上。

 守るために。


『マオのは、きっとキャプテンがいれてくれますよ。乗船の最初の儀式みたいなものですから』


 ジャスパーが言っていた言葉を思い出す。そうこれは、この船の船長であるレイズの、仕事なんだ。


「…………」


 どっと力が抜けるのを感じる。それから自分の思い込みの激しさと、想像力の逞しさに言葉を失った。

 一番最悪の想像をしていた。

 だけどレイズが与えてくれたのは、それとは正反対のものだった。


「…船でのおまえの役割は、魔力感知だ。魔導師なら見習いだろうと修行中だろうとできるだろ」

「…え…」


 レイズが腕を止めずに言った言葉を、一瞬聞き逃す。思考が上手くまとまらなかった。顔があつい。それからレイズに触れられている部分も。


「港まではまだ3日ある。この海域はまだ船属魔導師なしではキツいと思ってたところだ。何しろほとんどの船員が魔力を持ってないしな。無事港まで着けたら、そこでお前を解放してやってもいい。所属先や雇い先を探してるんならそのまま置いてやってもいい」

「…えっと…」


 おそらくこれは、仕事の話なのだろう。混乱していた頭が少しずつ冷静になってくる。だけどやっぱりこんな時、この世界の情報の疎さばかりが露見してしまう。


「…なんだその反応。おまえ、師はいねぇのか?」

「えっと、ちょっと辺境の地にいたもので…」


 あたしの言葉にレイズはぴたりと指を止め、じろりとあたしを見据えた。


「…まさか他国のスパイとかじゃねぇだろうな…」

「え、あ、それは違う! …えっと、国の情報には、疎くて…」


 そうか、シェルスフィアは海に囲まれた国だと言っていた。いわば島国だ。海を挟んだ先は別の国の海域なんだ。確かにそうすると、自分は怪しいことこの上ないだろう。


「…まぁ、いい。地域によっちゃ閉鎖的な村や種族も居るしな。おまえ恰好も変わってたし。特に魔力を持って生まれる人間は、血統が多い。成人するまでは外界との接触を断つ村もあるらしいし。じゃあ教えてやる。この国の魔導師の所属は2種類だ。王国直属か、船乗り所属か。よっぽっど有能なヤツは大抵王族やら貴族に仕えちまうがな。だけどシェルスフィアは船乗りの国だ。船乗りの仕事は海にある。だが海には多くの神と精霊が居る。ヤツらは船を襲い指針を狂わせる。だから魔導師の力が必要だ。この国じゃ船には必ずひとりは、魔導師を乗せる義務がある」


 言葉と共に、レイズの作業も再開する。あたしはただ黙ってそれを受け入れた。


「結界張れとかそこまでは求めねぇ。おまえがそこまで有能そうにも見えねぇし。だけど魔力を持つ者なら、ヤツらの力を感知できるだろ。そこまででいい。危険だと思ったら報せろ。後は俺がなんとかする」


 …魔力感知。海にいるという精霊や、神々の気配を感じたら、報せる。

 できるだろうか、あたしに。そんな、今までやったことがないようなこと。


「……、感知が遅れたり、できなかったりしたら…」

「船の全員が死ぬ。言ったろ、ほとんどの船員が魔力を持ってないし、ごくわずかに素質のあるヤツもいるが、途絶えた血統の隠れた生き残りか、ごく稀に居る天賦の才だ。魔導師の教えを受けていない。現状俺たちができるのは、危険回避のみだ。それが遅れたら全員死ぬだけだ」

「……!」


 そんなの、重すぎる。いきなりこの船の全員の命を背負わされるなんて。

 今さらながらに魔導師だなんて嘘をついたことを後悔する。だけどここまで来て撤回できる空気じゃない。

 この世界に来て魔法や魔力には何度か触れた。自分の中に居るというその存在も、感じることはできる。だけどそれはあちらから接触がある時のみだ。自分から望んで関わろうとしたわけではない。すべて不可抗力だ。


「……別に、おまえひとりにそこまでの責任を負わせようとは思ってねぇよ。船長は俺だ。この船の責任はすべて俺にある」


 言うのと同時に鎖骨にまで伸びていたレイズの指が肌から離れる。「少し乾かすから動くなよ」と言われ、あたしはまだ動けない。


「多少の失敗は譲歩してやる。まだガキみてぇだし。ただ、努力はしろ」


 レイズの言う通りだ。

 ここまでのすべてが、不本意だったわけではない。少なくともここに、シェルスフィアにもう一度来ることを望んだのは自分だ。

 ジャラリと頭の上で音が鳴る。頭の上で縛られた腕の、ジャスパーにもらったブレスレット。魔除けのお守りだ。

 ジャスパーもレイズも、少なくともこんな見ず知らずのあたしに守りをくれている。あたしにはそれに報いる義務がある。


「…わかった。努力する」

「いいだろう。それから、この船で特別扱いはしない。船の見張りに加わってもらう。交代制だ、最初はジャスパーと一緒にやれ。だが、ある程度の処遇は考える。ガキとはいえ女だしな。部屋はこの部屋を使え。ここなら内から鍵がかかる。ただし変なマネしたら即海に投げ捨てるからな」


 また物騒なことを言いながら、腕をしばっていた布を解いてくれた。流石にもう抵抗しないと判断したのだろう。


「わかった。そのかわり、レイズ。あたしはもう15だよ。ガキ扱いしないで。それと今後許可なく、触れたりしないでほしい」


 体を起こしながら剥がれた衣服を集めて、見よう見まねで体に巻きつける。いまいち着方が分からない。後でジャスパーに教えてもらうか、制服が乾いていたら着替えたい。

 胸元に視線をやると、肌に咲くような青い色。心臓から延びる蔦のように、青い文様が鎖骨あたりまで描かれているのが布の隙間から見える。


「…ほう、言うな。確かに15は立派な成人だ。だがこの船に居る以上、おまえは俺に従う義務がある。それに触るなと言われると触りたくなるな。この船の男共は皆女には飢えてる」


 言ったレイズの目が細められ、あたしを見据える。また、獲物を見るような目だ。彼の放つ空気がそう見せる。だけど負けじとあたしも精いっぱい睨んでやる。


「キスも肌に触れるのも、信頼の上に成り立つものよ。あんたと恋人になりたいとは思えない」

「は、俺だっておまえみたいなガキは願い下げだ。どこ触ってもつまらな過ぎるし」

「だからガキじゃないってば! とにかく、キスは好きな人としかしたくない!」


 叫んでから、思わず口に手をやる。自分でも意外だった。たかがキスに、そんなにこだわるだなんて。

 だけどあたしは今まで彼氏も好きなひとも居なかった。別にいつか王子様がなんて夢見ているわけはないけれど、それでも。

 恋に憧れている気持ちがないわけじゃない。好きなひとがいい。許すひとは、選びたい。

 だって大事なものでしょう?


「キスなんて挨拶代わりだぜ?」

「あたしが育った場所では違う。そんなカンタンに、触れていいものじゃない」


 言いながら唇を噛みしめる。言葉にすると、どうして。ひどく子どもじみた理由に思えた。


「…くっ、面白いなおまえ」

「そんなの求めてない、笑われるようなことを言ってるつもりもないし」


 じろりと睨むと、レイズは今までみた中で一番小馬鹿にしたように、至極楽しそうに笑っていた。それが余計に幼稚だと言われているようで腹が立つ。


「ガキ扱いは検討しよう。だけど船乗りにとって腕の中に抱いた女にキスをするのは流儀だ。ただ肌に触れるなというのはな…船員の刺青は船のルールだ。誰かにやってもらわなくちゃならない。まぁ〝触れられてもいい相手″とやらを見つけて、やってもらうんだな」

「自分でやっちゃダメなの?!」

「守りのまじないは他人にやってもらうことに意味がある。俺が毎日、やってやってもいいが?」

「だったらジャスパーに頼むからいい!」


 なんて厄介なルールだろう。だけど集団生活や特別な場所に置いて、それは最も重視しなければならないことだということは、学校でも学んでいることだ。その場所にはその場所のルールがある。


「まぁせいぜい3日の付合いだ。気を付けるんだな、いろいろと」


 ひどく意地の悪い笑みを向けたレイズはベッドから立ち上がり、それからぐしゃりとあたしの頭を乱暴に撫でる。

 触るなって、言ってるのに。

 睨むけどちっとも効かない。絶対面白がって、わざとやってるんだ。

 環境が違い過ぎるのだ。そこはもう、どうすることもできないだろう。ましてやあたしは拾われの身だし。

 あたしもそこまで気にしない努力をしながら、自分の身を守るしかない。

 そしてこれからのことを考えなければいけなかった。

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