2


 無意識だった。

 震える指先が、通話のマークをタップする。半透明のイルカが小さく揺れる。


『――もしもし?』


 画面の表示が通話中に変わり、携帯からは七瀬の声がした。携帯越しの振動に、体がびくりと震える。

 この世界に居るはずのない、七瀬の声。

 ――どうして…


『もしもし? 真魚?』


 もう一度呼ばれ、はっと慌てて携帯を耳にあてる。


「あ、ごめん、な、七瀬…っ?」

『……』


 あれ、沈黙? もしかしてこれ、あたしの錯覚?

 そうか、そうだよね。だって電波が入るわけない。ここは世界が違うのだから。いくら心許ないからって、そんな都合の良いことあるわけ…


『…ごめん、俺、すっごくしつこかったよね、電話…』


 数秒の間を置いて、再び聞こえてきた七瀬の声はどこかくぐもっていて。その内容を理解して、あたしは慌てて首を振った。


「あ、ちがう…! あたしが、わるい…! ごめん、たくさん電話くれてたのに、その、出られなくて…」

『…いいんだ、その…心配だったし、いろいろ…真魚、家には着いたの? ちゃんとお風呂入った? 玄関の鍵閉めた?』


 電話の向こうで少し照れた様子の七瀬の顔が浮かんだ。ただでさえ今日は、心配かけてばかりだったのに。

 それにそう、七瀬は。あたしのこと好きだって、言ってくれた。抱き締めてくれたひとだ。

 あれから何時間も経ったわけじゃないのに、それがすごく前のことのように思えた。なぜだか懐かしいだなんて感じて、胸が締め付けられた。

 加南や早帆と放課後の教室でムダにおしゃべりしたり、三波や凪沙のいつも突発で無計画な企画に振り回されたり。あたしはいつも適当に合わせてるだけで、楽しいフリをして取り繕っていただけで。

 だけどきっとあたし以外のひと達はあの場所で、心から笑っていたはずだ。今ならそう思える。

 薄情だったのは、あたしだけだ。


「…七瀬、お母さんみたいだよ」


 くすりと笑いながら、知らず零れた涙を手の甲で拭う。どうして涙が流れたのかわからない。

 ううん、あたしはいつも。知らないフリ、気付かないフリをしていただけ。本当にこういうところは、お父さんそっくりだ。


『…真魚? 泣いてるの…?』

「ちがうよ、大丈夫。今日はいろいろと疲れちゃったから、もう寝るところだったんだ」

『……本当に?』


 珍しく七瀬が、踏み込んでくる。

 でも、そうか。今まで七瀬はわざと、距離をとってくれていたんだ。あたしがすぐに逃げてしまうのを、知っていたから。


「大丈夫だよ、声、聞いたら…元気出た」

『……そっか。真魚がそう言うなら、わかった』


 耳元の声がくすぐったかった。単純に自分を心配して、気にかけてくれるその心が。


「電話、ありがとう。おやすみ、七瀬」

『…おやすみ、真魚。また明日ね』


 また、明日。明日、会えるの? あたし達は。

 また、会えるの?

 でも、一度は戻れたんだ。理由は分からないけれど、戻れないことはないはず。戻りたいと、心から願う気持ちがあれば。


「また明日」


 最後の語尾が震えたのは、それが叶わないからじゃない。信じる心が唇を震わせた。通話の切れた少し熱を持った携帯を、両手で握りしめる。

 帰るんだ、あたしは。だってここは、あたしの世界じゃない。


「…あの、マオ? だれか、居るんですか?」


 背中からかけられた声に、はっと息を呑んで振り返る。そこには目を丸くしたジャスパーが、木戸に手をかけてこちらを見ていた。

 そうだ、こちらが。この世界が今の、現実だ。


「…あ、その、ちょっと、啓示が…おりてきて…」


 引き戻される現実に自分の設定を思い出しながら、しどろもどろと答える。

 どうして携帯が通じたのかは分からない。だけどこれ以上余計な印象を与えるべきではない。そっと後ろ手に携帯の電源を切った。


「そうなんですか、ぼくはぜんぜん魔力を持って生まれなかったので、そういったことは分からないのですが、本当に魔導師さんなんですね」


 無垢な笑顔を向けられて、僅かに胸が痛んだ。だけど仕方ない。生きる為の嘘だ。

 それからひとまずお風呂を再開する。脱いだ制服はジャスパーが洗って塩を落としてくれるというので預ける。携帯だけは、手元に残して。

 結っていた髪を解くと、塩の粒がざらざらと手につく。限られた湯で少しずつ洗って、顔と体はさっと洗って流した。それから少し覚めた湯に体を沈める。

 冷え切っていた体に、温度がしみわたる。手足の指先からじんわりと。湯船の中で体を縮めて、瞼を伏せた。湯嵩が減って、届かない肩がひやりと冷えていく。


 シアの手をとった。

 それからこの世界に来たいと思った時、シアの元に行きたいと。シアの力に、なれたらと――

 だけどやっぱり、あたしには無理だ。そんなこと、できるわけない。こんな、自分の身を守るだけで、精一杯なのに。

 シアに抱くこの感情は、もうわかっていた。

 幼い自分と重なるその影。

 同情だ。

 それじゃひとは、救えない。


 温かな水面が揺れる。

 お守り…お母さんの石だけは、絶対に取り戻したい。あたしにとっての一番はそれだ。

 だってあたしには、何もできないよ――


 ぎゅっと、掴んだ指間でお湯が撥ねる。それがそのままゆっくりと、ふわりと浮かび上がった。視界の端でそれを見つけた時にはもう、浮かび上がる滴の群れに囲まれていた。


「な、に…?!」


 その光景に思わず身をひくも、そこは狭い木槽で。自分の一動で作り上げる湯の滴は湯船に落ちず、重力に逆らってふわりと漂う。微かに香る花の香りは、石鹸に練りこまれたもの。湯にも染みたそれが、充満する。


 ――マオ


「…! この声」


 旧校舎の、プール。あたしを導いた、あたしのなかから聞こえた声。


「あんた、なんなの一体…っ」


 予感はしていた。予想はしていた。

 だけどそれを確かめるのも認めるのも、自分で口にするのも。イヤだった。確かめるのがこわかった。


 ――知っているはず、ボクの名


「……卑怯よそれ…!」


 滴の漂う虚空を睨みつける。姿はない。見えない。だけど確かに、ここに居る。

 それが分かって、受け入れてしまう自分もイヤだった。

 平凡な女子高生で居たかった。あの世界にまた、帰る為に。


 ――王の末裔は約束を違えた


 王の、末裔…一族? シア達のことを言っているの?


 ――人間は思いあがりをたださない限り、加護も叡智も得られない。待っているのは亡びだ


「……間違いを、おかしたっってこと…?」


 ――ボクは、約束を守る為に王と契約した


「……約束…」


 シアの話に、似たような言葉が出てきた気がする。約束を、守るために――


 ――その約束は、マオ、君でなければ叶えられない


「そんなはずない、やめて…!」


 思わず耳を塞ぐ。ムダだと分かっていても。

 叫んだ声に弾かれるように、漂っていた滴が一斉に落下した。ばしゃばしゃと勢いよく、肌と水面を激しく打つ。


 ――呼べば、力を貸してあげる、ただしく使う意思があるなら――


 すっかり湯気のなくなった室内に、ぎしぎしと揺れる音だけが響く。思えば大きな揺れは感じない。停泊しているのかな。

 緩くなった湯を絡ませながら、木槽から立ち上がる。撥ねる水音。今はひどく耳障りに感じた。


「…風邪をひいてしまいますよ」


 声をかけられて顔を上げると、木戸の向こうから困ったように笑うジャスパーの顔が覗く。返事はできずに少しだけ笑って、木戸にかけていたタオルを手に取る。

 多分、さっきの会話にジャスパーは気付いていないのだろう。あの声はあたしにしか聞こえない。あの時間はあたし達の間にしか存在しない。そう感じるから。


「そんな心配なさらなくても、レイは本当にあなたを売ったりしませんよ」


 ジャスパーの言葉に思わず水気を拭っていた手をとめる。確かにそれも、気がかりではあったけど。


「…そうなの…?」

「ご確認された通り、男所帯ですから。今回の航海は長かったですし、港まではまだ3日はかかります。みんな飢えてしまっているんですよ。そこにマオみたいなかわいい女の子が転がり込んで来たんですから、予防線を張ったんです。この船では商品と人のモノには手を出さないのが絶対のルールです。キャプテンの制裁は、冗談抜きにこわいですから」

「…そ、うなんだ…」


 おそらく自分を気遣って、優しい声音で言うジャスパーに少し気が抜ける。


「とはいえやはり、まだマオの得体が知れない以上はこちらも牽制しないわけには行きませんから。だからああいう言い方になったんです」


 そうか、あの言葉は船員とあたし、両方への牽制だったんだ。


「ぼくが世話役に選ばれたのは、そう意味です。無害そうでしょう? 見張り兼、護衛です」

「…護衛…」


 無害そうかは置いておいて、護衛という意味ではどうだろう。自分より背も低いし、体の線も細く見える。あの甲板に居た他の船員たちに力で勝てそうにはとても思えない。


「あ、その顔。信じてませんね。ぼくこう見えてこの船ではエライほうなんですよ。キャプテンと副キャプテンと、航海士の次くらいに」

「え、そうなの…?」


 思わず零れた本音に、ジャスパーはむっと頬を膨らませる。慌てて口を押えて「ごめん」と零すと、今度は得意そうに笑った。


「ぼくはこの船の料理長です。ぼくの機嫌を損ねると、ごはんにありつけませんよ」


 なるほどそれは。


「それは…こわいね」


 言って自然と、くすりと笑う。強張っていた心が少しだけ解れた。


「さぁ、着替えてキャプテンの小難しい話を聞いたらごはんです。どうせ小難しいのはポーズだけですから気にしなくていいですよ。レイは女のひとには甘いですから。久しぶりのお客さんだから、今日はぼく腕を振るわなくちゃ」


 制服はそのままジャスパーに預け、借りた衣服に腕を通す。

 簡素なワンピースにいくつか布を巻きつけて、最後にジャスパーがつけていたブレスレットを腕に巻いてくれた。彼の名と同じ宝石を加工し数珠状に繋げたブレスレットで、赤い色に黒い紋様が入っている。


「価値を問わず、海に出る者は皆宝石を身につけます。海には陸よりも多くの神々が居て、彼らにとってぼくたちは侵入者でしかありません。なのでいざという時は、身に着けていた宝石を供物の代わりに捧げ、怒りをおさめてもらうんです。この、刺青も。船乗りたちが身に着けているものや晒すもののほとんどは、魔除けのまじないでもあります。マオのは、きっとキャプテンがいれてくれますよ。乗船の最初の儀式みたいなものですから」

「刺青って、強制なの…?」

「そうですね、少なくともこの船の最低限のルールです」


 そう言われてしまうと、反論できない。勝手にこの船に転がり込んできたのはこちらなのだ。しかもこの船がなかったらあたしは、今頃ここには居なかったかもしれない。海の近くで育ったので泳ぎには自信があるけれど、海の真ん中に落とされて生きて陸まで泳げるほどの自信は無い。

 複雑な気持ちでジャスパーが巻いてくれたブレスレットにそっと触れる。


「これは、借りちゃっていいの…? 大事なものじゃないの?」

「はい、あげます。返さなくて結構ですよ。マオを守るのはぼくの役目でもあるんで、いいんです。船の新入りが来た時は、その中で一番下っ端の船員が自分の装飾品を分け与えて、それで船乗りの兄貴分になるんです」

「ジャスパー、下っ端って言ってる」

「実質この船の中じゃぼくが一番下っ端なので。船での役割と乗船期間は別モノですから」


 そう言うジャスパーは、確かにどこか誇らしげに笑っている。それに微笑ましく思いながらも、必然的につまり、この船で一番の下っ端が自分に移ったのだと理解し少し複雑だった。


「レイの部屋はこの奥です。ぼくは夕飯の準備にとりかかりますね」


 言われて向けた視線の先には、明かりのついた部屋がある。船の一番端に位置する船長の部屋とのこと。


「ジャスパーは、その…行っちゃうの?」

「この船での自分の役割を果たさなくてはいけませんから。大丈夫、レイはこわいのは見た目だけで、根は割と優しいですよ」


 どうしよう、信用できない。

 だけど屈託ない笑みを向けるジャスパーにそれを言うことも、仕事に行く彼をこれ以上引き留めることもできない。

 改めてお礼を言って、ジャスパーの背中を見送る。それから今さらだと思いながら慎重にゆっくりと、その部屋に近づく。木製のドアに嵌められたガラスから漏れる、オレンジ色の明かり。外はすっかり暗く、今何時ごろなのかはわからない。だけどやはり船は動いていなく、今夜はここで停船とのことだった。

 ノックしようとした手が、躊躇する。

 ジャスパーはああ言っていたけれど、やはりこわいものはこわい。自分を売ると言い放ったあの瞳は、紛れも無く本気に思えたのだ。

 真水は貴重だと言っていた。そんな中、自分みたいな得体の知れない相手に湯を沸かしてくれた。それはあたしが思っているよりずっと、紳士的な待遇なのかもしれない。だけど悪い想像しか働かない。商品を小奇麗にするのは、売り手のマナーのようにも思えて仕方ない。

 海賊という言葉は、自分が知る知識や持つ印象は、それほどまでに悪いものしかなかった。

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