第4章 青の海賊

1


―――――――…


 深く深く、沈んでいく自分の体。沫に、包まれる。

 塩辛い舌先の味に、涙の海で溺れているようだなと思った。そんなになるほど泣いた記憶なんてないのに。


 お母さんが死んだ時、あたしは泣かなかった。

 まだ小さかったから記憶がおぼろげだったせいもあるけれど、あの時のあたしにとって死ぬということがどういうことなのか、分からなかったのだ。

 理解できずにただ、二度と会えないと言われて必死に棺の中からお母さんのカタチを探して掴んだ。

 二度と会えないということが死んでしまうのと同じことなら、あたしが“この世界”から戻らなかったら、“あの世界”ではあたしは、死んだのと同じことになるのかな。

 あたし…、あたしは――


―――――――…


「……っ! 生きてたか、運の良いヤツ」


 ぽたぽたと、自分の額に水滴が落ちてくる。それが頬や瞼を滑って、体中を濡らしていた。


「…ぅぐ、げほっ」

「おい、真水持ってこい!」


 目の前の人の叫んだ声に、すぐ近くに居た人が返事をして走る足音。たくさんのひとの気配を感じる。

 吐き出す水が塩辛く、肺や胃を刺激した。喉が痛い。涙が止まらない。

 一体どうしたというのだろう、今度は。

 だけど無意識にここが海の上であることが理解できた。耳につく潮騒と鼻につく匂い。

 事態は相変わらずうまく呑み込めない、だけど。不思議と確信があった。

 ここは、シェルスフィアだ。

 シアの国だ――


 床に体を横たえたまま咳き込んでいた腕を強くひかれた。抵抗する気力もなく、なすがままに仰向けになる。未だに視界がぼやけていて、目の前に誰が居るのかも分からない。だけどシアやリシュカさんだけじゃないことは分かる。ここがあの城じゃないことも。


「おい、意識ははっきりしてるか?」

「…っ、…」


 声が上手く出ない。喉が張り付いている。痺れて痛い。

 自分の顔を覗き込んでいるのだろう、その声はすぐ鼻先から聞こえた。潮の匂いに混じって、何か別の匂いがする。海水を吐き出した体が痺れと共に、今度は乾きを訴えた。


「口開けろ、噛むんじゃねーぞ」


 それだけ言われた次の瞬間。大きな手の平に、頭の後ろと顎を掴まれる。そして唇に押し付けられる温かい感触。と同時に、温い水が口内と喉に溢れる。


「……!」


 突然のことで、咄嗟に体は抵抗を見せ流し込まれた水はすぐに口から溢れた。げほげほと吐き出すけれど、相手は一瞬の間を置き、また同じ行為を繰り返す。

 それが欲していた水だと理解したけれど、この状況に頭も体もついていかず、力の入らない腕で必死に相手の体を押し退けようともがくけれどびくともしない。頭を固定され、顔を背けることもできない。

 また、押し付けられる唇。

 それから無理やり自分の唇を押し開け、その隙間からぬるりとした感触と共に入ってくる水。だけど上手く呑み込めない。吐き出してしまう水を、相手が受け止め啜る。きっとあたしの唾液も涙も混じってる。

 何度目かの抵抗がすべてムダだと理解した時、抵抗する力も抜け素直にそれを受け入れていた。というより体がその必然性に応じる方がはやかった。

 喉の奥に張り付いていた塩の痕が少しずつ水に流されていく。こくこくと喉が鳴って、合間に酸素を吸う余裕も戻ってきた頃。

 ようやく唇が解放され、視界も戻ってきていた。

舌先に残る甘い香り。水の中に何か混じっていたのかもしれない。


「…ったく、貴重な真水をムダにしやがって」


 自分の手の平から手首を滴る水を舐めながら、不機嫌そうな目がじろりとあたしを睨んだ。だけど怯える気力もあたしには残っていなかった。


「海の真ん中に落ちてくるとはどういう了見だ。思わず拾っちまったじゃねーか。名乗れ、何者だ。お前の身柄はこの海賊船アクアマリー号船長、レイズ・ウォルスターが拘束する」


 足元も、ついた背中もギシギシと揺れていた。

 ようやく呼吸を取戻しつつある体と思考で目の前の相手を見る。ついさっき随分と乱暴に水を与えてくれた人だ。

 蜂蜜色の長い髪を、片側で細い三つ編みにしていて、頭や体には布が巻かれている。隙間に光る装飾の石。目元までかかる前髪にその瞳の色はよく見えない。だけど自分を射るその光は鋭い色をしている。

 何より目をひいたのは、体のあちこちを這う青い刺青だった。紋様のようなそれは、頬や二の腕や胸元などの露出した部分から存在を主張する。少し日に焼けた肌にありありと、青い警告が走っている。

 ――海賊。

 ここは海の上で、そしてここは海賊船の中。逃げ場は無い。ぐるりと囲まれたいくつもの視線の先に自分は居る。呑み込むように理解した状況に眩暈がした。

 最初に来た時より最悪の状況だ。


「――どうした、話せるんだろ?」


 威圧ある声がさらに重く向けられる。視線の鋭さも増して、どくんどくんと心臓が早鐘を打つ。なんて答えるのが良いのか。自分の身を守る為には、どんな回答が一番最善か。頭の中でぐるぐる考える。

 シアは話を聞いてくれた。だけどリシュカさんは、容赦なくあたしを斬り捨てようとする人だった。

 相手にとって大事なのは、自分という存在が敵か味方か。有益か不必要かだ。


「……あたし、は…」


 反射的にすがった胸元に、お守りの石はない。その事実を思い出してじわりと涙が滲んだ。

 ここに来たいと願った理由。ちゃんと、覚えてる。カンタンに殺されたりなんか、してやるもんか。


「今、修行中の、魔導師なんです…!」


 精一杯叫んだあたしの言葉に、あたりがしんと静まりかえる。

 気まずい沈黙。だけどこちらからしたら真剣そのもの。命をかけた、はったりだ。


「…魔導師だと…?」

「……」


 怪訝そうな目が距離を詰める。あたしはなるべく視線を逸らさずにこくりと頷く。

 あたしが知るこの国の情報は、シアから聞いた情報しかない。その中で目の前の海賊たちにとって有益になるもの。自分をここで殺してはまずいと思わせるもの。


『精霊は神官や魔導師達が言葉を交わすことができ、生きていく上での知恵や力を借りるんだ』

『だけど誰でも、ってわけじゃない。魔法や術や儀式には必ずルールがあり、素質と資格が要る』


 そう、きっとこの国でそういった類の人たちは、希少な存在のはずだ。この世界の人間でないとはいえ、自分にそういった力があるとは思っていない。

 だけどここに、このシェルスフィアに自分の意志で来た以上、何も持っていないとは思わない。不本意ではあるけれど、自分がもうただの普通の女子高生とは思えない。

 何よりここで殺されるわけにはいかないんだ。


 沈黙を破ったのは、すぐ目の前のレイズと名乗ったこの海賊船の船長だった。


「…なぜこの海域に?」

「…そう、示されたから」

「…所属は?」


 所属? そういったものに属しているのが普通なの?

 やはりあたしにはこの国の情報が足りな過ぎる…!

 ヘタな嘘は命取りだ。相手を騙すなら真実を上手に混ぜなければいけない。何よりこれ以上の嘘はもう出てこない。


「…な、ない…!」


 また、沈黙。

 やはりムリがあるだろうか。信憑性は乏しいし何より怪しいのは自分でもわかる。

 その時、すぐ目の前でふ、と息を吐き出す音が聞こえた。


「――いいだろう。ちょうどこの船の魔導師がつい先日欠けたところだ。港に着くまでは、置いてやる」


 レイズの言葉に周りの船員であろう男たちがざわついた。思わず息を呑む。


「港に常駐の魔導師に視させりゃ本物かは分かる。実際の判断はそれからすりゃあいい」

「いいのかよ頭!」

「イベルグで補充しようと考えてたんだ、金出さずに済むならこしたことは無ぇ」

「でも見習いつってたろ、海で溺れるようなヤツじゃ逆にお荷物じゃねぇか」

「いいさ、女の魔導師も貴重だしな。最悪――」


 その目が、細められる。本能的に感じる、値踏みするような目。


「生娘は高く売れる」


 その言葉の意味に、声音に、瞳に。ぞくりと背筋が凍る。今まで味わったことのない恐怖に身が竦んだ。

 ひとまずこの場での自分の命は繋ぎとめられた。だけど安全な場所などこの船の上には無いのだと悟る。

 違う、もしかしたらこの世界には――


『戦争が起こる。この国で』


 シアの歪められた顔が浮かんだ。少なくともシアがそれを望んでいないこと。それをなんとか避けようとしていることだけは分かる。

 この国を、守ろうとしている。

 あんな小さな体で、永く国を支えてきた柱と加護を失って尚。

 改めて思い知る。ここはあの、平和な世界じゃない。無気力に生きているだけを許された、あの安穏な世界では。


「覚えてるか知らねぇが、お前は俺に助けられた恩がある。船員では無ぇが客人でも無ぇ。恩義の分は働け。それがこの船のルールだ」

「……わかった」


 向けられたその目から逸らさずに、頷く。深い藍色の瞳だった。翳るその瞳に光は見えない。


「名は」

「…マオ」

「マオ、ひとまず立てるなら身なりを整えろ。ジャスパー! 湯を沸かしてやれ」


 叫んだレイズの声にひかれるように、男たちの隙間からひょっこりと小さな男の子が顔を出した。シアと同じくらいだろうか。かわいい顔立ちをしているけれど、この子も露出した肌の部分に青い刺青が覗いている。

 この子だけじゃない。よく見ると皆、だ。


「サー、キャプテン」

「ついでに船のルールを教えてやれ。その後俺の部屋に連れてこい」

「わかりました」

「いいか、ヤロー共。商品候補だ、手ぇ出すんじゃねぇぞ」


 言い置いたレイズが踵をかえし背中を向ける。その視線から逃れたことで漸くほっと力が抜けていくのを感じた。

 ひとまずは。守れたのだ。自分の身くらいは。

 周りに居た船員たちも好奇の視線を向けながらも、ぞろぞろと場を後にする。ジャスパーと呼ばれた男の子だけが、その場に残った。


「よろしく、ぼくはジャスパー」

「えっと、マオです。よろしく…」


 言いながら「立てますか?」と差し出された手を有難くとる。上手く力が入らなくて、よろける体をジャスパーが支えてくれた。


「体が冷えてる。温めなきゃ」


 案内された場所は船内のお風呂のような場所だった。木槽は大人ひとり分ほどの大きさで、そこに半分ほどお湯が張られている。立ち込める薄い湯気に、それから微かに花の匂い。


「先に湯に浸かった方が良いかな。体を温めないと。ただ体浸かったお湯で顔とか髪を洗いたくなかったら、先に洗った方が良いかもしれません。使える水は限られてますから」


 シャワーのようなものは見当たらないので、必然的にこの木槽のお湯ですべてのあれこれをしなければならないのだろう。ジャスパーから木桶と石鹸とタオルを受け取りながら不思議な気持ちでそれを見つめる。

 まさかお風呂に入らせてもらえると思っていなかったので有難いのが本音だ。海に落ちたという体は確かに冷え切っていて寒かったし、潮気で制服も髪もべたついていた。

 だけど。

 この世界で学んだことは、そうカンタンに油断してはいけないということ。自分の身の安全を、確実に保障されるまでは。こんな得体のしれない、ともすれば自分を商品だと言う海賊船の中で、裸になって良いものなのか。自分には武器ひとつ無いとはいえ、それはいよいよ逃げ場の無い選択だ。

 さきほど視界の端で見たこの船の船員達は、皆男ばかりだ。正直それが一番、こわい。あの、品定めでもするような目が背筋を滑る。


「ジャスパー、訊いていい…? この船に女の人はいないの…?」


 段差のある敷居に扉はなく、シャワールームの個室のように、頭と足はあちら側に丸見えだ。映画で見るような木製のウェスタンドアの片開き。押せば簡単に境界はなくなる。

 ジャスパーはその向こうで穏やかかに答えた。


「今この本船には、居ませんね。分船のアクアローゼ号やアクアリリィ号には数人居ますけど、男の人の方が圧倒的に多いです」

「…そっか…」


 おそらく、その場から動く気配を見せないジャスパーは見張りだろう。流石にそれはわかる。あたしから目を離そうとしないその意志を、イヤでも感じるから。

 かたかたと震えるのは、寒いからか、こわいからか。ぎゅっと肩を抱く。

髪先から垂れる滴は潮の匂いがした。

 観念するしかない。この体では、いざという時逃げ出すにも不十分だ。

 そう腹をくくりジャスパーに背を向け、制服のスカーフに手をかけた時だった。


「……!」


 スカートのポケットから、振動を感じる。反射的にそこにある物を思い出し、いやいやと首を振った。

 いや、でも、まさか。

 そんな思いが思考を埋めながらも、おそるおそるそれに手を伸ばす。

 取り出したのは携帯電話。バイト先でもらった半透明のイルカのストラップがゆらりと揺れる。

 まだなお止まない着信のバイブ。その振動が鼓動をも揺らす。


 画面には七瀬の名前が表示されていた。

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