第5章 異世界より:もうひとりの、
1
―――――――…
『――マオ、おれだ』
そのカラスが窓を叩いたのは、アクアマリー号滞在2日目の夜だった。
その日は朝から船の動きや仕事、船内の案内や船員の紹介をジャスパーにしてもらって、とにかく慌ただしい一日だった。
あたしの役目はレイズから言われた通り魔力の感知と、それから日に一度交代制の見張り番、そしてジャスパーの手伝いだ。
アクアマリー号には現在あたしを含めて39人の船員がいる。その全員分の食事の用意と洗濯をジャスパーはひとりでやっていたというのだ。本人曰く、「戦闘に向いていないし、こっちの方が性に合ってる」から不満は無いらしい。
ひとり暮らしを始めてから炊事洗濯には慣れてきたつもりだったけど、規模と勝手が全く違った。あたしが顔と名前を覚えられたのはほんの一部。「この人の顔と名前だけ分かっていれば後はみんなおんなじですよ」とジャスパーがアドバイスをくれたので、 船長のレイズ、副船長のルチル、航海士のレピドだけはなんとか覚えた。
やはり気遣いなのか、見張り番は昼間の1時間。今日はジャスパーと一緒だったけど、明日からはジャスパーの次の担当になった。
船の船員達は快活豪快でたまに雑、デリカシーのない輩も居たけれど、基本的に皆明るく気さくで良い人たちだという印象だった。突然増えた得体の知れないあたしを笑って迎えてくれた。たぶん、レイズがいれてくれた刺青の効果だと悟る。この青い紋様は、仲間の証でもあるようだった。
いろいろ考えてお風呂は2日に一度、刺青をいれる相手はジャスパーが快く了承してくれた。その代わりあたしも、ジャスパーの刺青をいれることになった。
そうしてなんとかその日一日を終え、部屋に戻った時。そのままベッドに入ろうとしたあたしの視界に映ったのが、その白いカラスだった。
「――…まさか」
疲れた体をひきずりながら、ベッドの脇にある窓に駆け寄る。こつこつとカラスが、窓を叩く。
『――マオ、本当にマオなんだな。無事で良かった』
白いカラスから聞こえてくるのは、紛れもなくシアの声。
「シア?! どうして…っていうか、カラスなんだけど…!」
『落ち着け、リシュカの魔法だ。おれ自身は城に居る』
窓を開けるとカラスは、その両足を揃えて跳び窓枠の内側に身を寄せた。透明な瞳がくるくるとあたりを見回し、そして最後にあたしを見つめる。
「そ、そっか、そうだよね…」
当たり前だ、シアはこの国の王様なのだ。こんな所に、こんな姿で居るはずがない。
冷静に考えて弾んだ心が少し沈む。別になんでもないことのはずなのに、やっぱり疲れているのかもしれない。声だけだというこの距離に、海と陸という想像もつかない遠さに、何故だか少しだけ胸が疼いた。
『リズが言うにはあの後、お前の気配は完全にこの世界から消えていた。 今までどこに居た? もしかしてもとの世界に、帰れたのか…?』
不思議だ。目の前の白いカラスから発せられるのは、間違いなくシアの声。だけど姿が見えないだけで、こんなシアの声が年相応の子どもの声に聞こえるなんて。
目の前で堂々と話すシアは、やはり王族の空気というのを持っていたのかもしれない。だけど姿のちがうカラスから聞こえてくる声は、不安そうな子どものそれと同じだった。
「うん、理由は分からないんだけど、もとの世界に戻れて…」
『…そうか…ひとまずは、無事で何よりだ。別のことに巻き込まれてやしないかと、心配だった。あの後満月を待ってもう一度召喚の儀を試みてみたんだが、お前を
「そうなんだ…確かにシアに喚よばれたカンジは、ぜんぜん無かったけど…」
でもそうだ、一番最初あたしはシェルスフィアへ、シアに
状況からしてあたしの中の“彼”の所為だとは思うけれど、それだけとは限らないのかもしれない。
「シア、それって、いつの話? もしかして昨日の夜?」
『儀式か? いや、満月は3日前だ。マオが居なくなって3日待った』
…あれ? 計算が合わない。
あたしが再びシェルスフィアに来たのは、昨日の夜だ。もとの世界に戻って、数時間も経たずにまたここへ。
『あれから5日、儀式も失敗しリズにも諦めろと言われた。だけど昨日、マオの気配をリズが感じとったんだ。この世界に、マオがいると。まさか海の上に居るとは思わなくて、見つけるのに1日もかかってしまった』
「5日…!?」
まさか、そんなはずない。だけどシアがそんな嘘をつく理由なんてない。
つまり、シェルスフィアともとの世界では、時差があるということになる。約5日分もの――
『それよりマオ、どうしてそんな船の上に居る? 帆を見たがもしや海賊船か…?』
「あ、えっと…あたしがまたこっちに来たのは昨日なんだけど、何故だか海の真ん中に落ちちゃって…そこをこの船の船長に助けられたの。今は港まで置いてもらってる身」
『……そうか。いろいろと気にかかるが、今ここで議論してもしょうがない。距離も遠く交信魔法は長くはもたないんだ。マオ、このカラスはリシュカの魔法で作られていて、魔力の無い者には視えない。その船にはどれくらい魔導師が居る?』
「あ、えっと…魔導師は今、居ないって。あたしがその、咄嗟についた嘘で、今この船の魔導師ってことになってる」
言いながらなんとなく情けなくなって、自然と視線が下がる。シアの前でそれを名乗るのは烏滸がましい気がした。
白いカラスは、予想に反して穏やかな声音で続けた。
『賢明な判断だ。まずは命を大事にしてくれ。それにあながち嘘でもないさ』
「…そう、かな…」
『お前の中に何かが居るかどうかは別として、お前自体に素質はあるはずだ。このカラスが視えているのだから』
そうなのだろうか。あたしに、魔力が? 少しくらいの力なら、あるの? あたしに。
もしかしてシアには、あたしの姿が見えているのかもしれない。励ますような優しい声音でそう言われて、少し胸が軽くなった。
この船での役割を、少しは果たせるかもしれない。
『そのカラスに、ある物を持たせた。あるか?』
「え、待って」
言われてカラスの居る窓枠に目を凝らす。カラスは近づいても逃げなかった。その、足元に――
「あった、布にくるまれた…何これ」
『開いてみろ』
言わるがままに、布を開く。次第にその姿が顕わになる。無意識に鞘から抜いたそれに、月の光が反射する。
「…短剣…?」
『一応防護の魔法をかけてあるが、一回きりしか発動しない。それに時間が経つにつれ効力はなくなる。剣だけでも無いよりはマシなはずだ。護身用に持っておけ』
片手の平に収まる柄。同じくらいの真っ直ぐな刀身。果物ナイフほどの、細身の短剣。だけど果物ナイフなんかとは違う。柄には装飾の石が嵌めこまれ、月明かりに煌めく。思わずため息が零れるくらい、綺麗な短剣だった。
『裏を見てみろ。紋章があるはずだ』
「…うん、ある」
くるりと裏返すと、金属の柄に深く刻まれた紋様があった。どこかで、見たことがある気がする。
『シェルスフィア王家の紋章だ。いざとなったらそれを翳せ。おれの名を使っても構わない。身を護れ』
きっぱりと言い放ったその声音に、胸が疼いた。
シアがここまで自分の身を案じてくれていること。一国の国王である自分の名を…容易に貸せるものであるはずがないその名前を、はたから見たら一介の小娘に過ぎないあたしに、預けてくれた。
その心にじわりと涙が滲む。
刃を鞘にしまい短剣を強く胸に抱いた。
シアの心に報いたい。それが心の内に浮かぶ。
「…約束する。死なないよう、努力する」
『…ああ、信じている。港へはいつ着く予定だ?』
「2日後、イベルグ港って言ってた」
『わかった、迎えの者を出す。船と船長の名は?』
「船は、アクアマリー号。船長は…フルネームじゃなくていい? 覚えることたくさんあって忘れちゃったの。船長の名はレイズ」
『はは、マオらしいな』
それからふと不安になって口に出す。
レイズは海賊で、シアは国王だ。
「シア、この世界での海賊の扱いって、どうなってるの…? やっぱり犯罪者なの? あたしこの船には助けてもらった恩があるの」
『…そうだな。現状の国内での海賊たちの立ち位置は、少し複雑だ。いま説明してやれる時間もない。ただ、安心しろ。マオの恩人ということは気に留めておく』
シアの返事にほっと胸を撫で下ろす。
良かった、映画や小説みたいに、捕まってひどいことをされたらどうしようと思った。
それからはっと無意識に握っていた胸元の違和感に、漸くこの世界に再び来た目的を思い出した。
「そうだ、シア! ネックレスを見なかった? 石が付いている…ここで失くしたとしか思えない。死んだお母さんのお守りなの、それを見つけたくて、あたしはここに来たの…!」
あたしの目的。それだけはどうしても、取り戻したいもの。
白いカラスは沈黙している。失くしたと気付いたあの絶望的な気持ちが、胸に蘇る。
ここになかったらもう、二度とこの手に戻ってこない。
それからシアの落ち着いた声が、ようやく返ってくる。
『それならおれが持っている。バルコニーに落ちていた。青い石だろう?』
「…! そう、それだと思う、良かったやっぱりここにあったんだ…!」
シアの答えにあたしは思わず力が抜けて、そのまま床にお尻を着く。いろいろと張りつめていた気持ちがゆっくり解けていく。
「…それ、シアに預けておく。持っていて、シア。あたしは別のお守りをもらったから、だからあたしがこの剣を返すまで、代わりにして」
『…わかった。そうする。お前の大事なものは、おれが預かる。必ず無事で会おう、マオ』
シアの言葉にあたしは微笑む。それからその言葉を最後に、白いカラスは何もしゃべらなくなった。だけどカラス自体はまだ、ここに居る。まるで本当に生きているみたいに、その透明な瞳にあたしを映して。
もしかしたらそういう魔法なのかもしれない。このカラスが居てくれれば、またシアと連絡がとれる。話ができる。
それはシアが見守ってくれているということだ。遠く、離れていても。
そう思うと、涙が出るくらいに安心した。
潜り込んだベッドで夢も見ずに、あたしはあっという間に眠りに落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます