第30話 きゅうり夫人 ④
小学校の体育館ぐらいの大きさの丸い池に二人は放り出された。青い液体のように見える床がしっかりオレの体重を受け止める。何か物音がして振り返ると透明な壁の向こうで花蝶姫が壁を叩いている。決闘場はどう見ても飛龍の部屋より大きいのだが
飛龍(きゅうり夫人)もオレも神に仕える身。緊張しすぎて体がこわばる。このままじゃいけない。オレは気取って花蝶姫に投げキッスを送った。そしてめまいがするほど後悔した。何を浮かれてんだオレは。心が
ターン1。神業、《
紅緋の肌、隆々とした筋肉質の肉体に四本の腕を持ち、
きゅうり夫人は武器の鞘を二つ外し、無造作に放った。
ターン2。
「一撃で倒せないなんて! どうやらきゅうり夫人の能力値が反映されてないな」
「そのようだね」
ターン3。遠距離戦は不利だ。かといってそのまま殴り合うのも危険。出し惜しみなしだ。
神業、《
ターン4。オレはびっくり鈍器を取り出した。
「ミンチにしてやんよ」
あれ?
オレが、勝手に喋ってる。DOFではびっくり鈍器を構えた際に勝手に合成音声が出る。まったく、どこまでもオレはカードに操られてる。
飛龍は神業、《
ここまでは想定内だがここからだ。きゅうり夫人の
ターン5。《
オレの体は光を帯びた。よし、《
ターン6。
「これさ。殺されたらどうなんの?」
「さあ?」
本当に解らない。オレはできるだけ冷淡に応じた。お互いにそんなことは理解している。勝負の場面では相手に気持ちよく対戦させない方がいい。むしろイライラさせたほうがいい。
体力が尽きた。秋絹人の能力ではなく、オレ、花鏡の能力が反映されているからだろう。息が苦しい。頭が重い。もう派手なカードは使えない。《
神業を使うときは相手の攻撃に晒されないようにしなければならない。相手の攻撃を受けながらの神業の行使は非常に困難。
ターン7。ターン8。ターン9……。オレはきゅうり夫人の神業を封じ続けた。
「お前さ、どんだけ
オレは答えなかった。効いてる筈だ。さすがに飛龍も神業以外のカードを繰り出してきたが大した威力ではない。武神の貔貅がボロボロになりながら守ってくれた。怖いのは神業だ。それと。きゅうり夫人は頻繁に自分のデッキからカードを引く補助カードを使い始めた。何か、欲しいカードがあるのだ。
ターン17。《予測》→《
きた。
このターンまでやってきたことを信じるしかない。飛龍はよたよたとオレに迫った。オレは逃げるか迫るか逡巡したが突っ込む。間に一体だけ残った神の貔貅が割って入ろうとする。
「どけ!」飛龍はオレを狙って駆けだした。
乳酸が溜まり腕が重いが容赦なくオレの腕が持ち上げられた。びっくり鈍器を振り下ろす。びっくり鈍器の先端にグランドピアノが生えた。飛龍は右腕を突き出した。グランドピアノは飛龍を吹き飛ばす。その顔が、歪む。神の貔貅が一瞬にして灰になり崩れ落ちた。飛龍が膝を折る。
「降伏だ」
ふっと視界が歪み、我に返ると飛龍の部屋にいた。飛龍は声を漏らす。ああ、そうだ。これはDOFじゃない。ゲンジツなんだ。未だに視界がDOFと一緒で、インターフェースも並んでるから。あ? 飛龍の体は真っ赤だった。死ぬ?
「さっすがカガミ様ですわ!」
しばし、硬直した。
勝負はまだこれからだった。終わっていなかった。飛龍は、死の恐怖に屈したのだ。オレの体力は限界だった。飛龍が降伏を選んでいなければ、おそらく、負けていた。
色んなことを考えてしまった。飛龍が動く方の腕、左腕で何か指差している。そちらに目を遣ると、小さな布袋があった。そいつを手に取る。中には見覚えがある急須が入っていた。急須を引っ掴んで飛龍の口に挿し入れた。不覚にもその苦しんでいる飛龍を、綺麗だと感じた。その体に光が点る。飛龍はそして咳き込んだ。そうして口から赤い気体を吐いた。すっくと飛龍が立ち上がる。気前のいいことに服の破れまで完全に直っていた。
「悪いけど、本当に何も知らない。キャラを作ったらたまたまこんな
にやり、笑う。
真っ暗だ。どこにも光がない。
もともと、可能性の低い賭けだったんだ。でも
きっと飛龍は刺激が欲しくて仕方がないのだ。だからDOFを荒らし回り、不遜な物言いをして人を挑発し、勝利し。
オレは奴の遊びに付き合わされた。
階下で物音がした。
「ただいま。いやー、もう交通網が大混乱で、歩いて帰って来ちゃった」母親らしき女性の声がする。
「……お客様来てるの? え? 男の子連れてきてるの!?」
声がはしゃいでいる。
そうだ。花蝶姫は突然モニターから現れた闖入者だ。オレだって了承を得ずに踏み込んでる。と、飛龍がオレの口に急須を突っ込んだ。熟したメロンのようなプリンのような、味がした。脇腹の痛みがひいて、制服も元通りに直る。息を吐くと口から赤い煙が漏れた。部屋を出る。階段を降りていく。
「そうだよ。クラスメート。今、帰るってさ」
オレは花蝶姫の顔を見た。花蝶姫は頷く。
オレは可能な限り声を整えて「おじゃましましたぁ」と階段を降りていく。「こんな時間までお邪魔してすみません」と、花蝶姫が続いた。
飛龍の母親は首を傾げる。
「あら? そちらのお嬢さんの靴は?」
「ああ、こうして来ましたの」
花蝶姫はオレの首に手を回し、ウインクしてみせた。
こういうことだろうか。オレはふわっふわのスカートにおずおずと手を伸ばし、花蝶姫の足を持ち上げた。そして花蝶姫を抱えたまま靴を履く。飛龍もついてきた。
「勘違いしないでね。貴方に心を許したわけじゃないから。ただ、《
「嫌なこった」
玄関が閉まる。
「さもありなん。これって! お姫様だっこですわよね!」
花蝶姫はオレの首筋に顔をすり寄せた。くらっとする。疲労もあった。でも何よりも、花蝶姫から甘い香りがした。いかんいかんいかん。オレには、そうだ。ルーシーだ。歩き出す。
参ったな。
アイツもDOFが好きなのだ。DOFを盛り上げるために、悪役を、強大な敵を演じている。
参ったな。
これはどういうことなんだろう。
飛龍が魅力的に思えた。
「急いで帰らないといけない」
「ああ、迎えが来ているはずですわ」
「はい。お待ちしておりました」
闇夜に何かがぬめるように月光を照り返す。洋画でしかお目にかかれないようなフルサイズバンが勇壮に停まっていた。目が暗さに慣れて、使用人先生らしき男が後部座席のドアを開くのが見えた。
見上げる。
満月だった。月に、双剣を両手に構えた《戦いと鍛錬の
神の御加護もあった。そうじゃなきゃ、オレは飛龍に勝てなかっただろう。
乗り込み、花蝶姫を降ろそうとするが花蝶姫がオレにしがみついて離さなかった。仕方ないので膝の上に乗せたままにする。なんだかチサトみたいだ。
「あれ、おかしいわ。スマートグラスが機能しませんの。カガミ様、申し訳ありませんが口頭で住所をお知らせ下さい」
自分の携帯電話を取り出す。電源が入らない。オレは使用人先生に住所をざっくり伝えた。車のエンジンがかかる。
「自動運転その他が利きませんので手動で運転して参ります」
運転免許を持ってるのか。多才だな。白髪を見るに結構お年を召しているように見える。
車が発進しても後部座席はほとんど揺れず実に快適だった。本当に走っているのか窓外の風景を確かめたほどだ。内装の充実とリクライニングシートの心地よさに戸惑う。車通りは極端に少なかった。
「カガミ様、きゅうり夫人を
「はて、何のことでしょう」
「お嬢様、お戯れは程々になさいませ」
そうだそうだとオレも心中では使用人先生を応援していた。実際、びっくり鈍器に振り回されて両腕は悲鳴を上げていた。花蝶姫は反抗するように、背伸びするとオレの頬に舌を這わせた。
「ふぁっ!?」
花蝶姫は微かな声で「……美味しい」と漏らして、微笑んだ。ふっと視線を逸らすとオレの胸に顔を埋めた。しなやかな動きは子猫を想起させた。
するのとされるのは、違う。
感情が、鎌首を
女の子って、すごい。
じっとしていると、きゅうり夫人との激戦で興奮していた心がようやく落ち着いた。コポコポと音を立てて湯から空気が抜けていく。沸騰しないように深呼吸する。
「カガミ様、どうなすったの? そんな怖い顔をなさって」
「そう、かな」話頭を転じよう。「花蝶姫は高校生?」
「中学三年生ですわ」
「女子校、とか?」
「ええ」
やっぱりそうか。
もちろん、オレだって男だ。花蝶姫みたいな女の子に抱きつかれて嬉しくないわけがない。
でも、こういうのはちょっと複雑だ。
きっと、花蝶姫は男に免疫がない。
例えば、そう。男を近づけられずに育てられた、小学校も女子校で、家庭教師も女性で。
花蝶姫はオレを上目遣いで見つめる。
瞳が、何かを求めている。蠱惑している。キスを、せがんでいる。
「カガミ様はご自身があの女にとってどんなにお優しいお兄様でいらっしゃるか御存知ないのでしょう。あたしは、カガミ様の妹として生まれたかったわ」
「兄妹は恋愛してはいけない」
「そうかもしれませんわね。でも、少なくとも今よりずっとカガミ様のそばにいられるわ」
恋は自由ではない。ここで口づけてしまえば、重荷を背負う。おれはおかしい。みんなみんな好きになっちまう。いや待てよ。一夫一妻を法律によって押しつけられちゃいるが、そもそもそこに疑義を呈さなきゃいけないんじゃないか? いや、オレが自分を正当化したいだけか? 参った。誰か助けて下さい。
そうだ。ルーシーだ。オレにはルーシーがいる。
胸が、一瞬にして乾いた。
オレは成功者たり得ない。
失敗したらどうなるだろう、という気持ちがぶわっと湧き出てくる。どこかで失敗を期待してさえいる。学校の授業が難しく感じられたときも、落ちていく自分を確かめてみたくて、努力を放棄したフシさえある。きっとオレは潜在的にネガティブでマゾなんだろう。勝者のメンタリティを持っていない。
何の収穫も得られなかった。
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