第31話 必然
車は鷹揚に停まった。気がはやる。地面に足を降ろす。
やっぱりこの世界は傾いている。
「今日は助かったよ。ありがとう」
「ええ」花蝶姫は少しうつむいて唇をきつく結ぶ。「あ……」
オレはもう走り出していた。
ルーシー!
あの日。ルーシーはオレに会うために
ルーシーには、引力がある。
今日の街はやけに暗かった。両手を振って駆けた。電子制御されている物は何一つ働いていない。
「家に入れないよぉ!」
誰かが大声で嘆いている。
オレのボロアパートは平成に建てられた代物で、指紋認証や声紋認証は
「た、だいま」
自分の家に侵入する。
「どこ行ってたのいきなり出てってさ」
オレは応えずにはしごを上る。
「なんか機械みんな故障してるんだけど」
ルーシーは、まだ寝ているように見えた。躊躇いながらやっぱり声をかける。
「ルーシー?」
「復帰シマス……」
人間に似せた人形が、プログラム制御である部分を
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
ルーシーはもがいた。人間であれば、何年もかけて慣れていく過程を、たった一日で経験してしまった。
感情って、こんなに苦しいものなんだな。
「ワタクシノ、心ニ……触ラナイデ」
想いが溢れて。
そうだ。オレだって、いつだって、何かの拍子に発狂しそうになる。
ルーシーは一瞬のうちに様々な表情を湛えた。それは奇異で、異様。ルーシーの目、口、頬は絶えず目に止まらない速さで動き続けた。そして、オレに手を伸べた。正直に言えば、恐怖を覚えた。ルーシーの手を受け止める。
「ちょっとどうしたの?」
「チサトはいいから下にいてくれ。パソコンも動かない?」
「うん。どっちもダメ」
携帯電話もやっぱり動かない。通信手段はすべて閉ざされた。
ルーシーは殺してくれと言った。
君に、生きている意味はないのか?
オレはチサトがはしごを下りていくのを見届けると、ルーシーの背中に手を回して、深く息をついて、抱きしめた。
卦魂が何かを咥えてはしごを上り、ルーシーのそばに落とした。半死半生のキリギリスだ。そのままルーシーの前に座った。
ずっと
「おそらくわたくしはこれから突然いなくなる。ありがとう。さようなら」
バグとの闘いを止めたのだ。
頭がぐらぐらする。だめだだめだ。最後に残った希少な時間を活かすんだ。いやだって所詮プログラムじゃないか。オレは空虚なルーシーの瞳を確かめてからまた優しく抱きしめた。まるでマネキンだ。下でチサトがおならをしている。
ルーシーはおならをしない。そうだよ。女の子なのに、生理用品を欲しいとか言わなかった。やっぱり、やっぱり生き物じゃなかった。
人間は、年を取るんだ。酸化して、肌にはシミができて、しわくちゃになって、年齢を周りに開示する。体は弱り、必ず死が訪れる。生物は、新しい代に入れ替わらなければならない。
昔、フランスの哲学者は言ったよ。『太陽も死もじっとみつめることはできない』オレは若い。でも今からもう、将来の、老化が、死が、怖いんだ。考えないようにしてるんだ。みんなみんな年を取る。自分があんなジジイになるなんて信じられない。
正直に言えば、オレは一人の女性を生涯愛せる自信がない。
それは、
棒に
するとバッタの
なんて哀しい性質だろう。
日本人は、バッタだ。
ルーシーは、プログラムだ。容姿もプログラムによって創られただろう。
考えてみればおかしな話だ。異性の美しい姿を見るだけで、人は魅了されてしまう。人形でも。紙切れでも。それが命に繋がらなくても。錯覚に過ぎないのに。
オレは勝利者だ。政府の押しつける『人間は、人間に恋して、子供をたくさん産むべきだ』なんてイデオロギーに屈しなかった。オレは愚かにも理想を追い求めるんだ。
ああ、君は、永遠に美しい。
「この世に偶然なんて一つもないわ。幸運も不運もない。要因が見えないだけ。すべてが必然なの」
まるで何かの宗教だ。
おかしいじゃないか。科学が神々を次々と火刑に処している現代に、科学の粋を掃き集めて創造された君が、こんなことを言うなんて。
大体さ。何だよ。好きになるって、何だよ。
いない。
ルーシーが、いない。
オレの体に大きな穴があいた。
涙なんかじゃ、埋まらない。
はしごに足を下ろす。はしごがずれ、オレの体は床に叩きつけられた。
「だっ、大丈夫?」
後頭部を
「あ。ネット、繋がった」
どうやら、日常が戻ってきたらしい。
「ルーシーは?」
「わからない。消えちまった」
チサトは唇を結んだ。
「カガミさ。……チサトが、ルーシーだよ」
「お前が、ルーシーか」
「うん」
ルーシー。
オレはルーシーの手首を掴んだ。深く深く息をつく。
でも、仕方なかったんだ。だって。
その日のことはこれ以上思い出したくない。
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