第26話 仔卦魂
オレは二年生になった。仔卦魂はよたよたと歩き出したかと思うとすぐに走り出すようになった。我慢しきれなくなったチサトが
卦魂はやがてあっちこっちでとっくみあいをするようになった。一匹だけ、動きが鈍いのがいた。
仔卦魂はしかし容赦しなかった。動けない仔卦魂に次々と牙を突き立てた。卦魂を獣医に診せたら大騒ぎになるだろう。オレは悩んだ。
「ルーシー。オレとチサトは学校に行かなきゃならない。その間、この仔を守ってくれないか?」
朝食を作っているときも、食べるときもルーシーとチサトはオレにくっついていた。
「カガミはこの仔を助けたいのね。でも嫌だわ。この仔には、もう生きている価値がないもの」
合理的な思考です。
気づくのが遅すぎた。もう、手遅れだった。不具の仔は、噛まれて苦しいときに呻く。それだけが唯一の抵抗。
でもそれがどうしたというのだ。ルーシーの目から見たら、オレは毎日、ラーメン屋がチャーシューを煮るように、生き物を殺めている。この仔だけが特別なのはなぜ? 愛玩動物だけがどうして救われなければならない?
ルーシーが怖くて、オレは口をつぐんだ。仔卦魂は母卦魂からお乳をもらうとき以外は絶え間なく取っ組み合いしている。一匹がルーシーのつま先に乗った。
「今この仔達は生存競争をしてるの。いずれ死んでしまう仔に栄養を与えるのは無意味なの。だからこうあるべきなの」
ルーシーは正しいことを言っている。オレは恐る恐る仲間はずれの仔卦魂を撫でた。ほんの少しの力で、壊れてしまうかもしれない。お腹が上下している。体は小さい。君は哺乳類だ。オレと同じだ。そこに強烈な
お前は、何のために生まれてきたんだろうな。
死ぬために?
「オレは自分の実力と自分の自尊心に大きな
オレはルーシーに考えを改めて欲しかったのだろう。こんな自白をした。
「いじめは
ルーシーは正しいことを言っている。
「それは、偃月先生が君に組み込んだ、教えかい?」
「いいえ、私たちが集積した情報を分析して得た結論ね」
ルーシーが直接見ていなくても、沢山のNPCが沢山のものを見て、データベースに書き込まれ、機械学習が行われ、それをNPCが共有している。いた。心がない故に冷静で、克明だ。そして『気を遣う』なんて人間の文化を知らないルーシーの言葉は、無防備なオレに深々と突き刺さる。
「あの……わたくしはひどいことを言ったわ。ごめんなさい」
オレは目を見開いて顔を上げた。
「君はどうして自分が謝らなければならないと判断したんだい?」
「カガミが、泣いているから。涙は感情を推量する上で探索木の最上位に位置するわ。探索の結果、カガミがわたくしの言ったことで精神的損傷を負ったと推量したの」
ああ。瞼が熱を帯びている。
「許して頂戴。何でもするわ」
ルーシーの手がオレの首に伸びる。
「チサトも! 何でもする」
ああ、もう時間ギリギリだ。
「お前は便乗すんな。さ、学校行かなきゃ」
「自分が子供の頃はあれです。自動車とは名ばかりで自動で運転されてはいなかった。運転免許を取得するのに泊まり込みなんかしてね。タクシーなんかも運転手がついていたんですよ」
この話、いろんな教師が喋ってた。小学生ん時から聞いてるな。
オレはすっかり落ちこぼれキャラが板について、教師もオレには質問しない。これはこれでいいものだ。
徒然に資料集を眺める。
一九七七年五月、IBMの開発したコンピューター『ディープブルー』が史上最強のチェスプレーヤー、ガルリ・カスパロフに勝利。同年八月、『ロジステロ』がオセロ世界チャンピオン村上健を破った。二〇一三年三月、『GPS将棋』がA級棋士三浦弘行八段に完勝。二〇一六年三月、囲碁プログラム『AlphaGo』が世界最高レベルの棋士イ・セドル九段に勝利。
困ったことに、授業はマトモに聞かない、教科書は読まない癖に、こういった本筋を逸れた資料集なんかが大好物。
コンピュータはボードゲームは暴力的なまでの計算力があればいいということを教えてくれた。
「もう大体のことでコンピュータは人間を上回っています。人間はコンピュータに従うべきです」
オレは違うと思った。それは人間、いや生物としての
変な臭いがした。
「ただいま」
「おかえりなさい」
ルーシーは玄関まで駆けてきてすぐにオレに抱きついた。どうにかなっちまう。そのまま部屋に入る。床に、何かの毛と骨らしき物が転がっている。
「血は拭き取っておいたわ」
仔卦魂が死んだのはわかる。
「肉体は?」
「非常食が食べてしまったわ」
そうか。そういうものか。
仔卦魂の小さな肉体は、栄養になった。
オレだって、沢山の屍の上に立っている。
「感情がないというのは、楽でいいな」
「そんなことないわ。わたくしは感情が欲しい」
おそらくルーシーの自発的な願望ではない。偃月先生によって組み込まれたルーシーの、いやNPCの基幹部分のプログラムだ。どの人工知能にも実装されている『コンピュータは人間の忠犬であらねばならない』と同レベルの階層にプロテクト付きで。
「ペットは愛おしいのよね?」
「そうだね」
「だから死ぬと哀しいのね。そういった、人間に当たり前に備わった感情が欲しいわ」
当たり前、か。
「探索、探索。探索に次ぐ探索。いくら探しても、心は解らない」
それはオレも同じだ。ひょっとして、ルーシーは絶望しているかもしれない。でもそうではないのだろう。感情がないのだから。でも、やはり普通の人工知能とルーシーはちょっと違う。人工知能だったら、絶望はしない。いや、絶望とは異なる何かかもしれない。……ともかく、普通の人工知能は淡々と命令をこなすだけだ。ルーシーはちょっと違う。
息を切らしてチサトが帰ってくる。そして部屋に入ると辺りを嗅ぎ回った。
「何この臭い。カガミ! 変なことしてないよね?」
「これを見ろ」
チサトは爆発した。チサトの体は感情でできていた。
オレはチサトよりは少し大人だった。でも何か寂しかった。
嫌なことがあったとき、大人は酒を飲んで忘れるという。
そんなに簡単に忘れられるものなのか。オレは不思議に思う。まあ、ともかく、若いオレにはアルコールは有害なので、こうやってDOFにログインして、
パトリエソーレではある異変が起こった。男性解放運動が活発化したのだ。他国との国交が開かれ、名産品や宣教師と共に外国の男性観も流入した。影響を受けた若者が立ち上がり、声を上げるようになった。「男は女に棒と袋だと思われている」「機械の普及により
反論もあって「男は女に甘えている」「男が働くには社会的なハンデがある」「男は社会的に弱くあるべきだ。女に仕え軽作業をするための腕力さえあればいいのだ」等の意見が飛び交った。
DOFではない世界。現実では夏がやってきた。オレは十二月生まれなので暑さは苦手で汗も不快に感じる。そうなるとオレと二人の接点がぐっしょりと濡れた。
「あの……オレの汗、臭うかも」
ルーシーは満面の笑みを浮かべた。
「カガミの汗なら気にならないわ。むしろ嬉しいぐらい」
抱きしめたい。
後ろの、余計なのがいなければ。
でもねルーシー、そこはそんな笑顔は要らないんだよ。微笑ぐらいで十分なんじゃないかな。
もう理性がどっか行っちゃいそうなので三人でデパートに行き噛み噛みになりながら「この
夜、寝床でも二人とべったりで、体に熱がこもった。仕方なく、掛け布団なしで寝た。これが
チサトははしごを駆け下り……られずに、足を踏み外して、盛大に下で何かに激突した。驚いた非常食が唸り声を上げる。
「どうした?」
「カガミが……かたかった」
あ。
「あのな。これは生理現象で……仕方ないことなんだ」
「愛してるわ」ルーシーは汗をかかない。便利でいいね。
「オレもだよ」オレは顔だけルーシーの方を向いて応えた。そんな背中にルーシーがしがみつく。
「で? どっちに反応したの?」
「だからそういうんじゃないって言ってるだろ。勝手にこうなるんだよ。女に生理があるように、男にも……色々あるんだよ」
ちょっと待ってくれ。こんな生活になってからいやらしい夢を見ることが多くなった。願望充足夢って奴だ。
「男にはエロエロある!?」
チサトもまともな精神状態じゃない。いやこれがデフォなのか。
まああれだ。ルーシーにさえ気づかれていないのならオッケーだ。……。でも。ルーシーは気づいたとしてもオレに報告するだろうか? しないだろうな。待て待てルーシーにはほとんどの感情がない。別に問題ない。……。
オレはしっかりと足下を確かめながらはしごを下りた。そしてきっぱりと言い放った。
「寝るときだけは、離れて寝て欲しい」
予想に反して、チサトはニヤニヤしなかった。
「どうして?」
「最近、寝苦しくてさ、睡眠不足なんだよ」
チサトは文句を言いながらオレに抱きついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます