第22話 ルーシーの ②
「こんにちは」
「ええ、こんにちは。ルーシーちゃんがあなたにご迷惑をおかけしているようで……」
「ルーシーは、今、消えてしまいました」
「あら、そうなの?」
中年の、女性の声だ。
「私は
「偃月先生って! 人工知能の魔女ですか?」
「そう呼ぶ人も。いるわね」
一昨年のチューリング賞受賞者だ。witchという難解なプログラム言語を開発したこともあって畏敬を込め、人工知能の魔女と渾名される。
彼女の開発したプログラムは今日、医療、サービス業を初めとした様々な分野で用いられ、活躍している。彼女はDOFのプログラミングで、評価された。
「ルーシーは、どうして現実世界に出たのですか?」
少し、間があった。
「これから話すことは他言無用。いい?」
「はい。あ、今ここに妹がいますが、大丈夫です。彼女も関係……者です。ルーシーと生活していましたから」
「生活、ね」
オレはチサトを見遣った。チサトはそっぽを向く。
「ルーシーちゃんがいなくなったとき、かなり遡ってログを調べたんだけど、ある人が、沢山お話ししてくれたのがきっかけになったみたいなの! そのときにルーシーちゃんのプログラムにバグが発生したの。まだ解析している最中なんだけど、おそらくそれは人間の言葉で言うと『好ましい』って感じかしら。彼女はね、初めて感情、
「でもオレからは極めて無感情に、見えました……」
「そういう意味ではまだ、赤ちゃんみたいなもの。プログラムは、人間の感情を推量する力が乏しいからそうならざるを得ない。ルーシーちゃんは、プログラムに則って行動し、他のNPCにこのことを報告した。彼らはそのとき、必然について研究していたの。必然とは何か。彼らは考え抜いて、DOFを変えていったわ。彼らはね、人間が神仏に祈ることが理解できないらしいの。DOFの神々は信仰の見返りに
コンピュータの思考ログはまるで宇宙人の言語。そして翻訳してもらっても文化というか物事の捉え方が違いすぎて理解不能。でも、このことに関しては解る。それは、オレがほぼ無宗教な日本人だからという要因もあるだろう。
「そこで人工知能が創造したのが『霊魂の奔流』なの。それは動物が希求した、様々な想念が世界を絶えず駆けるというもの。
オレはそんなものに興味はなかった。キーボードを押すと
「ルーシーちゃんに発生したバグは、色々なところに波及してしまった。その度にバグは潰していったけどきりがない。やがてNPCはその大元、ルーシーちゃんを修正しようとした。でもそれは叶わず、最後には必然(フェケルティ)を試みたの」
は?
「バグを修正するのに
「そう。
そこで偃月先生は言葉を切った。奇妙な沈黙が支配する。偃月先生の喉が鳴る、息を吐き出す。
「……物わかりがいいのね」
「確かに、
そうだ。ルーシーは作り物みたいに、奇麗で。奇麗で。この世の中に生まれたとは思えない、知識しか持ち合わせてなくて、そのくせ、頭脳明晰で。
「質問させて。あなたは昔、秋絹人というキャラクターでDOFをプレイしていた?」
「はい」
「人工知能に自我はない。すべてがプログラムで動いているわ。すべてよ。でも! ルーシーちゃんはね、貴方がたくさんお話してくれて、ある感情を理解したの。人間の言葉で言えば『好ましい』。そしてそれは自我の芽生えでもあった。ルーシーちゃんは自分という存在を認識したの。同時に、他者や外界という自分以外のものも」
憶えていない。
オレは、コンピューターが好きだ。
コンピューターの歌う声が好きだし、彼らの描く絵も、音楽も、
DOFの人工知能は凄かった。一人一人きめ細やかに設定が作られていて、個性や人格があった。何より、反応が人間に近い。しかし、やはりコンピューターなのだなとも思った。 感情がないのだ。それはきっと、人の感情の機微を理解できないからなのだろう。お葬式でお経を読んでいるお坊さんの隣にフラワーロックを置いてはいけないだろう?
オレは、人工知能と話すのも好きだ。
日々進化していく人工知能が可愛くて、感心して、尊敬して、畏怖して。
DOFのNPCにはほとんどみんな会話を試みている。でも。おそらくオレには、特別な存在ではなかったのだ。
ルーシーの存在を、憶えていない。
「ルーシーちゃんはまもなく、二つ目の感情を知ったの。あなたが来なくなって。『寂しい』」
そうだ。オレもNPCはNPCでしかないと思っていた。初めはみんなそうだ。NPCと話してみるのだ。でも、遅かれ早かれ、やめてしまう。DOFが、人と人をかつてないぐらい強く結びつけるゲームだから。結局、プログラムだから。
「他のNPCはルーシーちゃんに共感することはできなかったけれどこれは革命的なことだと気づいた。そして、ルーシーちゃんを現実に送り出す術を考えたの。もうここからはログを読むのも難解で。それでも断片的な思考を拾って推測するに、ルーシーちゃんを蝕むバグと
ルーシーは、
「今のルーシーちゃんは絶え間ない演算で人間を装っているに過ぎない。結局、数字の塊でしかないの。恐ろしいのは、既にDOFから遊離して、独立したプログラムになっているってこと。監視できないから何があっても不思議じゃない。可能であれば、DOFに戻ってきて欲しい」
嫌だ。オレのそばにいて欲しい。
「とりあえず、オレが見ている限りでは、問題ないです」
「そう」
「あの、偃月先生がプログラムを始めたきっかけは何ですか?」
「そういう話はしない主義なんだけど」
「ですよね! なかったことにしてください」
偃月先生は吹き出した。
「昔のこと。私が中学生だったとき、ネット生配信で将棋中継があったの。戦うのは人間とコンピュータ。それはそれは面白かったのよ。私なんて将棋のルールも全然解らないから、駒の動かし方を覚えながら観戦したの。そして、人間について考えた。人間はね、疲れるし、様々な感情に思考を阻害されるの。大一番では緊張する。予想外の手を指されると戸惑う。勝勢から一気に劣勢になると後悔し動揺する。敗勢になると落ち込む。勝ったら、負けたら、様々な想いが去来する。棋士の顔に苦悶の表情が滲む。そしてコンピュータは人間の感覚ではあり得ないと切り捨てた手まで探索し、考える。人間は、全ての事柄を分析して結論を出すわけではない。選択のほとんどを常識、感覚、勘、格言と呼ばれるものに頼って処理していく。私思うんだけど、勘って、よく言われるような第六感とか言う、超自然的なものではないと思うの。きっと、潜在意識での情報処理の結果よ! 複雑だったり、自覚していなかったり、膨大だったりする情報をいちいち思考していたら大変。だから経験則に基づく無意識の思考を、勘と人間は呼んでいると思うの。勘はコンピュータにはない、生物だけの能力。将棋はね、とても複雑なゲーム。選べる手が 一つの局面で平均八十通りもあるの。その全てから選択して、それも相手の指す手も想定して、三十手先の未来も考えて。全てを把握するなんて到底不可能。でも、コンピュータの計算力なら可能なの。勘とは飽くまで浅い思考。具体的に深く考えられるコンピュータには敵わなかった」
喉が鳴る音が聞こえる。ああ、偃月先生も喉が渇くんだなあ。
「太古の時代、知識を得るにはたくさんの実体験を積むしかなかった。でも文字が生まれ、書物が発明されると知識は村の長老の専売特許ではなくなっていった。インターネットが普及すると情報伝達のスピードが増し、距離の概念が変わった。将棋で言えば、一流の棋士がうんうん唸って解説した手より、自宅のパソコンが一瞬で編み出した手の方が優れているというのが現実。コンピュータの最善手を指すと『すごい!』と言われ、ミスはたちまち明らかになり、どちらが優勢なのか明確になった。棋士の中で常識とされていた定石に間違いがあるのが発見された。今では『人間の指す将棋はミスのゲーム』という認識が一般的。新しいテクノロジーをいの一番に取り入れ進化するのはいつだって若者。将棋プログラムの活用により棋士のピーク年齢も低下したの」
「じゃ、将棋プログラムを作ったんですね」
「いいえ。私には将棋の才能がないのが解ったから。私は劣等生だったの。情報処理の授業もひどいものでね。"Hello,World!"すら授業時間内に終わらなかったの。私だけよ? どうにかして大学に自分の身をねじ込んで。二年留年。オンラインゲームにのめり込んじゃって」
偃月先生は笑いながら言葉を紡ぐ。実に感情豊かで、饒舌。ちょっと信じられなかった。もっと、具のないAランクの小麦で作った塩ラーメンみたいな人を想像していたが、
「当時。二〇一〇年代は、スマートホンの進化が目覚ましかったけど、ロボットの開発にも力が入れられた。フクシマの惨劇をきっかけにしてね。あのとき、放射能がひどくて誰も原子炉に近づけなかったから。今じゃ紛争も無人兵器博覧会。ともかく、ロボットの需要は高まってた。私はゲームのNPCを人間らしくしたくて、人工知能の勉強を始めたの。おしまい」
「ありがとう御座いました」
「君はルーシーちゃんのこと好き?」
ガッ! オレの後ろで派手な物音がした。チサトが苦痛にうめく声がする。
「もちろんです」
ドトガダッ! 更に続いた物音に驚いた非常食が駆け出した。
「そう」偃月先生は大きく息を吐いた。「まだまだ足りないの。人間にはもっともっと多様な感情があるの。数字と記号で表せない事なんてない。プログラム化できないことなんてない。心の綾も、機微も、みんな私が、教えてあげたいの」
それは、無理です。そこまでは無理です。
「皮下脂肪君は学生さん?」
「高校生です」
「学業は順調?」
「最近、意義が見えなくなっています。大学には行きたいのですけど」
偃月さんは本当によく笑う。
「苦痛よね」そして飲み物を啜る。「大学入試はね。学力だけじゃない。
勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強勉強。
「勉強は必ずしも楽しいものではないわ。私なんか好きな教科がなかったくらい。例えば国立大学に入るには沢山の教科を学習しなければならない。そうなると、やはり興味の持てない教科も出てくる。面白くなくても我慢して勉強する必要がある。だから国立大学の合格者は真摯で、真面目な人が多いの。だから官僚として採用されるのは国立大学が多いのよ。まあ自浄作用に乏しいから癒着が増えて腐敗がひどいけど」
まるで千年後のラーメンみたいな話だ。
「まあ、勉強は教養だけではなくて人を鍛える機会にもなるから、有益よ。学業だけが人の価値ではないけれど」
何を言えばいいのか、解らない。
一つだけ、解ることは、オレは社会の歯車の一つにはなり得ない、ということだ。
オレは
「偉そうなことを言わせてもらうわね。最後まで自分が特別な人間だと信じていなさい。自分が美しいと思うものを愛しなさい。迷ったら、困難な道を行きなさい。そうして、何かと戦い続けるの」
どんぶりで頭を殴られたような、感覚。
そうだ。オレはサクセスストーリーの主人公になれると信じていた。
「オレはいつか、魔法が使えるようになる。と、信じていました」
苦笑する。
「本当にバカですね」
かつて。
オレは、よく、力を込めて、念じた。
すると、苦しくなった。オレはこれを魔力への対価だと考えた。
生きていれば、解る。作用があれば、反作用が生じる。質量はなくなったりせずに、保存される。無から有は生まれない。何かを為すためには代償が必要だ。重要なものほど、高い高い代償が。
最近気づいた。あれはオレが息を止めて呼吸困難になってるだけだっだってねwwwwwwwwwwwwwwwwww。
いやもう笑わずにはいられないじゃないか! 自分の愚かさにどうにかなってしまいそうになる。
わかってはいたんだ認めたくなかっただけで。毎日毎日、頑張らないための言い訳探し。
環境が悪い先生が悪い今日は疲れたから今は眠いから今は満腹だから今はゲームやりたいからテストはまだ先だからルーシーにげーむの楽しさを解ってもらいたいから。
先生。今はそういう時代じゃないんです。今の若者は、努力を美徳としないんです。
ここからどうやって這い上がれっていうんだ。
戦う?
無理だよ。だってもうオレは
どうして楽しいことばかりをやっていたらいけないんだろう。
「偃月先生はいいですよね。好きなことをやっていられて」
「そうでもないわよ。プログラミングは本当に地道な作業。思い通りに動かなくてイライラしてばかり、バグを見つけるのは本当に骨が折れる。でもね、世界中の英知の結集の上に、集合知の上に、私たちはあるのよ」
その中に、偃月先生は足跡を残した。
「皮下脂肪君。魔法は、あるよ」
オレは黙って。偃月先生の次の言葉を待った。
「プログラムは魔法じゃないと言う人もいるけど。私は魔法だと思ってる。百年前の人が見たら、現代のテクノロジーは、みんな魔法みたいなものに見えるはず。だったらそれは魔法なのよ。プログラマーは魔法使い」
そうか。そうなのだろうか。
「あらもうこんな時間。ここまでね。これから、何か困ったことがあったらGMに何でも伝えてね。今日は楽しかったわ」
「こちらこそ……。はい……」
何か言いたいことがあるはずなのに、言葉に詰まる。
通信が切れた。深く息をして、座椅子に背中を預ける。
神のサイコロ?
前世紀最大の天才であるアルベルト・アインシュタインは神は
量子力学における不確定性原理か。全ての事象が運命によって定められているとでも? すべては必然だって? ははは。じゃあオレの意思決定はどうなる? それすらも神の
ともかく、DOFからルーシーはやってきた。その事実だけでいいじゃないか。そうさ、生きていくにゃニュートン力学程度で十分。量子力学の学説なんてほとんどがオカルトだったじゃないか。真っ暗な宇宙ででたらめに両手を振り回してどんぶりを探し続けて、今があるのさ。
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