第17話 始動 ③
傷一つ負わなかったので次の獲物を探す。DOF内の時計は現実時間の三倍の速さで回る。じきに太陽が姿を見せた。
ルーシーは咎人になるために生まれてきたようなものだ。昼間さえも日向なら姿を隠すことができる。ましてや夜はスープをたっぷり吸った海苔の如き芳醇な風味を醸し出した。無防備な相手の急所に一刺し。恐慌状態の皆様を二人と一本がべしべし殴ってトドメ。
美味い。美味すぎる。
「ルーシー、君のおかげだよ」
そうして、我慢しきれずチサトの顔を盗み見る。
うん。オレって、意地が悪い。
チサトが傷つくのを、期待している。
でもやっぱりチサトの為でもある。
ルーシーはむすっとして応えなかった。
ルーシーはヘッドマウントディスプレイを外す。
「さ、カガミ、DOFはこれくらいにして、宿題を終わらせなさい」
ルーシーはそう言ってオレからどんぶりを取り上げるのだ。
ルーシーには逆らえない。こんなに美味しくてスープまで飲み干したいのに、
ぐっとこらえて問題集を広げた。
少し、心配になった。
ルーシーに楽しんでもらいたくてDOFをやってるつもりなのだが、嫌々付き合っているだけなんじゃないだろうか。
ルーシーは感情を押し隠す。
それがオレには不愉快だった。
「さ、チサトもそろそろ帰れ」
「わかった。じゃ、カガミがヒトスジシマカと同棲してるって話しておくね」
「お前まだここに住むつもりか?」
「はい」
チサトは電話を差し出す。
「カガミさ、前に『貸し』があったよね。これで解消。ママに電話して。チサトをここから学校に通わせたいって」
……マジかよ。
ルーシーの視線を感じた。オレは玄関の方を向いて、電話をかける。
「……ああ、チサトもこっからの方が学校近いしさ。んで、オレがチサトに勉強教える。そのほうが塾なんかにお金掛かんなくていいだろ? うん……」
チサトは口の端を上げ、オレにしな
考えてみると不都合なのも確かだった。チサトが家に帰って、ルーシーのことを話されたらおしまいだ。
オレは自分の持った話術の限りを尽くして母親を説得した。
「チサトの成績を上げる、ってのを条件にならいいそうだ。でも、いつまでかは判らない。週に一度は家に帰って小テストを見せてくること。勉強もやってもらうからな」
「おっけえおっけえ」
チサトは最後に母親と言葉を交わし、電話を切った。
「まずは英語の宿題終わらせろ」
「英語はもういいや。国語やる」
人間は追いかけられると逃げたくなる生き物だ。宿題も、やらなければいけない! と強制されると、嫌になる。その気持ちは解るんだけど。
「ふせぐんちゅに行くは誰が背と問ふ人を 見るがともしさ物思ひもせず」
「それは
不思議なもので、妹を見てると、勉強への意欲が湧いてくる。
穏やかに生きていきたかった。
水のように、空気のように。
クールにさ。クールにさ!
昔はあれだった。いや……。うん。
自分のことを天才だと思っていた。
オレは、近い将来、物語の主人公みたいに
思い描いていた。
中学受験のときは本当に頑張った。頑張ったけど、努力の跡は周囲には見せないように徹底的に隠した。
天賦の才だと思われたかったんだ。
「何もしなくても。勉強なんてできちゃうんですよ花君はすげえなあ」って、思われたかったんだ。
そうしてすいすいと、どこまでも泳いでいけると思っていた。
「学校なんて退屈で死にそうだよ」
完璧な日本語だった。そうして彼女は目をキラキラさせて笑った。
確かに校長の話はつまらない。職務上そういう話をしなくちゃいけない。冬休みの総括をしなくちゃいけない。来たるべき大学入試に向けて精励恪勤するよう説き勧めなければならない。まさか落語みたいな
立場上、どうしてもつまらない話をしなきゃいけないなんて、大変だなあとは思う。
さて。幸か不幸か隣のクラスで大量の欠席者を出して彼女が隣に位置することになったのだが。名前は飛龍……忘れた。
ルーシーのおかげで多少は慣れたとは言え、校内に話をするような女子なんていない。ましてや飛龍みたいな女子となんて。
飛龍先生にとって学校生活そのものが退屈の連続なのだろう。歳もいっこ下のはずだ。飛び級なのだ。オレはひたすら愚痴の相槌を打った。
「まあ今日は仕方ないね」
「いや始業式はまだマシ。早く学校を解放されるからね。明日から始める授業を考えると憂鬱で仕方がないよ。どうして教師って生き物は教科書を読めば解ることをわざわざ繰り返すんだろうね! 毎日毎日よくみんなおんなじこんな狭苦しい箱の中に押し込められておんなじ姿勢で机にかじりついてら。拷問だよ。ああ、本当につまんない。自分の体に混じる日本人の血が憎らしいよ。こんなとこ早く出たい。どうして日本には飛び級がないんだい?」
栗色の髪。少し高い鼻。彫りの深い顔立ち。飛龍先生は学内ではちょっとした有名人だった。
正直に言って、仰ぎ見るような存在だった。そう、背も高いのだ。バスケやバレーをやらないかと勧誘されているのを見たことがある。しかしにべもなく断っていた。身体能力も日本人離れしているらしい。
高嶺の花過ぎて男子連中も声をかけようとはしなかった。ただ、今、飛龍先生があらゆる方向から視線を浴びているのは判った。飛龍先生は慣れているのだろう。一向にそれを気にする様子はない。
「まあ、日本に来て良かったことがないわけでもないけどさ」
そうだよ。美味しいラーメンを食べさせてあげたい。
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