第10話 大晦日には激闘を 前編
ルーシーはオレを恨んでいる。
これはあのやわらかな唇の報復なのだ。だったらオレは、罰を粛々と甘受するべきなのだ。
相も変わらずオレは机に向かっていた。
ひどく懐かしい感覚。なんとかかんとかやりごたえのある問題に向き合っている。
中学受験で合宿をしていたときのことを思い出す。
もし第一志望の中学校、高校に合格できなくて悔しい思いをしている人があれば言っておきたい。
今のオレよりはきっとましだ。
オレは幸運だったのだろう。
いや、不運だったのだろう。
往時の俺は、学業に燃えていた。勲立中学に入ろうと、ぐらぐらと豚骨を湯だたせ、それはもう濃厚な骨髄のエキスを満々と湛えた。催眠術にかかったかのように臥薪嘗胆、一意専心、前途洋々、受験に向けて邁進していた。
それでも、勲立中学校は厳しいと言われていた。何せ受けた模擬テスト全てでE判定。でもオレは諦めが悪かった。勲立対策の問題だけに集中して取り組み、進学塾で
それがオレのピークだった。
オレは恍惚とした表情で麺を啜った。一学期は途方もなく美味だった。
入学して、
クラスメートは柔和だった。何食わぬ顔をしていた。が、ひとたび問題を目にすると、傑出した発想力でたちまちねじ伏せた。クリーミィな髄の旨味が存分に楽しめる傑出した豚骨スープをつくりあげた。
平凡に青ネギを加えるだけのオレとはモノが違う。
生まれ持った、知性。
結局、オレは外部的要因に依って勲立に籍を置いただけの、虚構、紛い物、凡百の存在。
オレは
オレは学業から目を背けた。家に帰ってしまえば、穴のことは気にしなくて済んだ。ゲーム、アニメ、萌え、目を塞ぐ術はいくらでもあった。
一度、差がつくと、オレは一気に奈落の底まで落ちていった。毎日の授業が苦痛で仕方なかった。遅々として進まない長針を眺める日々。
今思えば、落ちてしまった方が良かった。
進学塾をやめたオレは裸同然だった。自分の能力が足りない。努力もしないではこうなるのは必然だった。
だからね、滑り止めの学校に通っていたとしても、後悔なんてする必要はない。オレから見れば授業が簡単なのはメリットだらけだと思う。定期考査で点数を稼げば、推薦入試も狙えるしね。
水を張り、蒸し器に細かく刻んだ生姜を入れてスイッチを入れる。
チサトは毎晩三つ編みで寝るようになった。朝、目を開ける度にトラウマが蘇る。
オレは本当におかしい。
「ここかぁ……」
チサトはぐったりとノートPCにしがみついて目を瞑った。
何かが終わったらしい。
「カガミ、DOFやっていいよ」
?
突然お許しが出た。多少、困惑しながらもチサトの気が変わらないうちにとオレは立ち上がった。蒸し器の加熱を止める。蓋を取ると清涼感溢れる芳しい香りが部屋に広がった。
麻薬中毒者って、こんな感じかもしれない。ゲームに飢えていたオレはノートパソコンをこたつに据えて「パソコン起動。DOFログイン。皮下脂肪弁慶。ゲームスタート」とつぶやく。
DOF時間はまたもや夜だった。
見覚えのある日本庭園が目の前に広がっていた。前回
?
ノートPCのスピーカーから、もう一つ足音が聞こえた。今いるエリア、『政治都市わんわん京』は
西中門から誰かが庭に入ってくる。
鶴やら鳳凰やらが乱舞し、白い生地に椿やら牡丹やらが咲き乱れる巫女装束風な衣装を身にまとい、赤無地の袴、髪上具を被った黒髪ストレートに色白の女だ。
チサトが感慨深げにつぶやく。
「やっと……見つけた」
そしてオレの家に沈黙が訪れた。オレはキーボードを叩く。
皮下脂肪弁慶:こんにちは
???:こんにちは
オレはふっと息を吐き出した。吹き出しそうになったが息を呑んで抑え込む。さて。
皮下脂肪弁慶:これからここのボスを食べようと思うんですけど一緒にやりません?
反応が遅い。
???:はい
無事
「ナ……」
オレは自分の目を疑った。PT加入により???と表示されていたキャラの名前が見えるようになったのだがそれが、その。
花散里って名前だったのだ。
皮下脂肪弁慶:散里さん、ロールは何ですか?
やはり反応は遅い。
花散里:?
皮下脂肪弁慶:初心者さんですね。どんな仕事ができますか?
花散里:仕事はしていません。中学生です
オレはとうとう吹き出した。
皮下脂肪弁慶:いえ、リアルじゃなくて、DOFでの職業です
「あ……」
リアルのチサトが呻いた。どうやら息を呑んでオレの様子を伺っている。オレは気付かないふりをして。
花散里:パンが焼けます
オレが休止している間に随分
皮下脂肪弁慶:おそらく援護系の職ですね。承知しました。早速ですがここにパンがあります。これで何か作れませんか
花散里:やってみます
巫女服の少女は携帯調理器具を颯爽と取り出して何やら作業を始めた。と、「チン♪」と音が
花散里:できました
そして花散里のアバターは緊張した面持ちでパンを差し出した。パソコンのカメラも切ってないだろうし表情認識もオンのままなのだろう。
手渡されたものはとても活きがいいパンで、ぴっちぴち躍動しており手からこぼれそう。さて、新鮮なうちに食べてみましょうか。ダブルクリック。
「あ……」
パンから鳥が飛び出して、どこへともなく飛び去った。
「なあ、
あ、やっちまった。
「なんだ、気付いてたんだ」
「てか、本名入れちゃうとかやばいだろ。まあまさか本人だと思う奴もいないかもしれんが」
「だってさ、何度も死んだからもう名前思いつかなくってさ。ああ! タイピングしなくていいって楽だわ」
おそらく、オレを驚かせようとでもしてたんだろう。それで何日も広いDOFの世界を
パンは『かつてうぐいすパンだったもの』という名前に変わっていた。わずかにパンにうぐいす
三人は忍び足で
「何してるの? 早く行きなさいよ」
チサトが急かす。
オレはうっとりと柴式部先生を眺めていた。
「ああ、
こんがり美味しそうに焼けた背中、胸回りから腹部は真っ白でどこからどう見ても食パン。そしてちんまりとした肢体がすっぽりと
「ねえ、月に、なんか影があるんだけど」
「今日は美術と健康の神の祝祭日なんだ。祝祭日は満月で、月に神の影が映る。そしてその神の信徒は強い力を発揮する」
豊かな髪を垂らし、体を反らし手を上へと差し伸べる美術と健康の神が我が身の美しさを誇示している。
「ここ、死体がすごいね。ごろごろ」
「そうだな」
DOFはオンラインゲーム初心者にお勧めできるものではない。ほとんどのオンラインゲームは、戦闘不能になると自分の意志で街などの復帰ポイントに戻ることができる。
DOFは違う。誰かの手を借りなければ、いつまでもそこに転がっていることになり、持っていたアイテムと現金を奪われる。もちろん、もう一人キャラを作って、自分の手で助けることはできる。
そこに自力で行ければ、だが。
このシステムは現在に及ぶまで賛否両論だ。議論の行方がどうあろうと今も仕様は変わっていない。
近づいても柴式部に反応はない。
でも、これはゲームだからね。
ファンクションキーを押して、《
「あな助けよワン。曲者よワン!」
柴式部先生は扇で顔を覆うと、叫んだ。と、あちこちから犬達の唸り声が聞こえた。
再三と再四は攻撃回数を増やす効果がある武器だ。柴式部をしこたま殴りつけた。
闇から湧き出てくるように、慌てて物の具を身につけながら
戦闘開始。あらかじめ組んでおいた『対強敵』のデッキをダブルクリック。
護衛が湧いて来るのは想定内。でも先に衛士を掃除しておくべきだったかもしれない。
「オレはこいつらを食い止める。攻撃は任せるぞ」
「おっけぇー♪」
「了解」
この戦闘で負けて意気消沈したルーシーがDOFをもうやりたくないというそぶりを見せやしないか、危惧した。DOFがどんなに面白いか、知ってもらいたかった。
オレは《
二足歩行する甲斐犬と北海道犬がオレのお相手だ。立派な大鎧に兜も身につけている。
三人のカードが出揃い、衛士の差し出すカードが裏返った。《
2ターン目の受付が始まり、新しいカードが配られた。DOFのキャラクターには知覚力という能力値が設定されており、これに依って視野が広がり遠くのものまで見えるようになり、物音が聞こえるようになり、異変を鋭敏に感じ取れるようになる。数使いはそれなりにこの能力が高く、深夜とはいえルーシーやチサトの様子が確認できた。
ルーシーは《闇の
カードが裏返る。衛士のカードは《
オレが回避行動を取る前に、素早く甲斐犬は斬りつけた。さすがに避けきれず、深手を負った。《
「助太刀致すワン」
「かたじけないワン!」
厄介なことにまた、槍を持った紀州犬が参戦。これは痛い。
3ターン目。オレはカードを出さず、チサトの前方辺りにポインタを合わせ、クリック。これで《
衛士のカードは《
さて、チサトは木べらでまぜまぜ。
視界の奥で何かが蠢いた。
闇は妖しい艶を帯び、やがてそこだけ
《
《
衛士の一人が出した《
何か物音が聞こえる。ああ、仮想サラウンドにしておけば良かった。どの方向からか判らない。どうせ良くないことが起きるに決まってるし。急いで設定をいじる。
4ターン目。《
チサトはパンのタネを捏ね始めた。
混乱したのは衛士の三匹だ。背後を見せないようポジショニングするが何せ一人は闇の中、どこにいるかよく判らない。二人がオレに背中を向けた。北海道犬は瀕死。オレに攻撃してくるものはいない。オレは悠々と数使いの
ルーシーは甲斐犬と紀州犬を相手に交戦。どうやら衛士の処理は何とかなりそう。
5ターン目。《
チサトはボールにパンの種を戻して、仁王立ちでご満悦のご様子。発酵か。
オレは甲斐犬に挑みかかった。甲斐犬のカードは不運なことに《
しかしそれでも《
「東中門の方から木が
ルーシーの報告。さてはて。
6ターン目。
DOFの戦闘はカードを用いるが、補助カードとメインカードの二枚を1ターン内で使うことができる。補助カードは頭脳戦を仕掛けるものだが、基本的にカードを使うと体力や集中力を消費し、能力が低下するのでカードを使えば良いというものではなく効果的な運用が求められる。
オレは補助カード《
花散里:では、
と、料理番組みたいな事を言い出してチサトはどこからともなく発酵済みのパンのタネを取り出した。最初っからそれを使っとけばいいんじゃないかな。
衛士の出したカードはやはり、《
「オッケー」
オレの体が明滅する。《
そしてオレは重苦しい物音に耳を澄ませ、闇に目を凝らした。
そうか、
東中門に隣接した施設、紫……じゃなかった柴式部先生はあそこに行って車を出して来たんだ。
7ターン目。の入力受付時間が終わる。茫然自失。カードを出さず《
「オレの知ってる牛車と違う」
チサトはパンのタネを円状に伸ばしておいて、棒状に伸ばしている。ルーシーは戦闘力の低下した衛士を半死半生に追い込んでいた。とりあえず柴式部先生以外は無力化した。
さて。
ターン8。オレは手元に唯一あった守備系カード《
カードが裏返る。《
御者もいないのに鞭の音が鳴り響いた。
伸びやかに。
それが意志そのものであるように、四肢を存分に躍らせて、牽牛は平橋を飛び越え、オレを踏みつけようとした。オレは再三と再四で受け止める。
ああそうだ。オレが間違っていた。
とても耐えられるものではなかった。オレの体は湯に落ちる刀削麺みたいに跳ねた。オレの体は池に落ち、衝撃を多少緩和してくれたのはわずかに幸運だった。
うん。まだなんとか体は動く。牛車は勢い余って築地に激突した。
一方チサトはまたも仁王立ちでパンのタネを眺めていた。二次発酵か。まるで別世界に存在しているようだ。
ターン9。《
柴式部のカードは、《
牛は築地に激突した体をゆっくり反転させ、オレを正面に見据えた。まだまだやる気十分のご様子。
チサトは何やら
ルーシーは? おそらく闇に潜んで機を窺っている。彼女ならうまくやってくれるだろう。
ターン10。以降。オレはひたすら牛車から逃げ続けた。柴式部は、《
ターン25。
来た!
「ルーシー、次のターンで勝負に出る。オレの近くに来てくれ」
「わかったわ」
オレは寝殿から延びて中島に架かる建物――釣殿の中に移動。
「何この果物。うわー中、黄緑だ。……ねちょねちょしてる」
チサトは生ハムとアボカドでトッピングかなんかを作っていた。
ターン26。オレは前のターンで引いた念願の《
《
オレもボロボロだが牽牛もだいぶ疲れが見える。《
さあ来い。オレは振り返る。「ようやくオレを捉えられる!」と仰る泥だらけの牽牛の歓喜の雄叫びが地鳴りのように鳴り響く。突進。オレは慌てて飛び退いた。
轟音と共に釣殿が崩れ落ちた。崩落した釣殿の破片で多少のダメージを負う。でも、これで牛車と肉薄したまま次のターンを迎えられる。
「チーン!」レンガが叫ぶ。
どうやらパンが焼き上がったようだ。チサトがトングを燃え盛る釜に突っ込むと灯火の光を受けて燦然と輝く細長い棒状の炭がお出ましになった。チサトがトングを振ると炭がレンガに当たり、キンキン鋭い音が鳴り響く。
「うーん、ちょっと焦げたかも」
それを
さすがDOF。中の人のスキルも影響してるのか。
ターン27。何をするかはとうに決めてある。ポインターがうまく合わない。
《
オレは大胆に牛車の前に躍り出た。動き出そうとする牛車の機先を制する。
オープンフェイズ。カードが裏返る。
は?
色が違う。
《
は?
連続で《
オレの《
なあに、《
オレは両手を突き出した。
数字が湧きだし、くるくる踊る。
アラビア数字。漢数字。ギリシャ数字。インド数字。ローマ数字。
膨大な数字の奔流がうねりとなって迫り来る牛車と激突した。
そうか。別に2ターンに
そうだよ。前のターンに《
口で息をする。牽牛が痛みに喘ぎ、夜空を仰いで呻いた。
果たして《
しかし、皮下脂肪弁慶の体も脳も完全に疲労してしまった。もう動けない。もう何の
物音がした。ああ、オレのキャラは疲労しきって知覚力に影響を受け、今の今まで気づかなかった。後ろから何かが近づいてくる。……太刀を腰に帯びた土佐犬だ。
「何奴……」
あ。抵抗する術がねえ。
攻略サイトで柴式部先生について予習しておくべきだったかもしれない。彼を知り己を知れば百戦殆うからず。
でも。敗北するかもしれないけど能動的に適宜判断して最適解を導き出す、それがゲームの醍醐味じゃないか? その面白いところを放棄して攻略サイトの仰せのままになぞるなんて、そんなの
仮に敗北したとしても、試行錯誤して突破口を探すんだ。ゲームのいいところは死んでもそこで終わりじゃないところだ。そうして創意工夫が実って倒せたときの充実感とカタルシスと言ったら!
座椅子にもたれ、マウスカーソルが明滅するのを焦点の合わない目で眺める。さすがにピンチを悟ったのだろう。チサトがしゃしゃり出てロクに戦闘能力もないくせに土佐犬に向かい駆けていった。真っ黒なバゲットを振るう。耳をつんざくものすごい音がした。そしてガランガラン足下から音が鳴り響く。折れた刀身が床を回りながら転がり、やがて止まった。
目を凝らす。何が起こっているのか理解するまで少々時間を要した。
つまりチサトはキラキラ輝く真っ黒なバゲットを手に突撃し、土佐犬の太刀と
チサトの得物にマウスを合わせ、ダブルクリック。これで《
調査結果。『バゲットのなれの果て。あまりに狂った高温加圧の末、炭素とダイヤの混合物ができあがった。食べられない』
ファンタジーだ。
チサトは猛然と土佐犬に打ちかかり、腹部に強烈な打撃を加えた。土佐犬が前のめりに倒れる。
「パンは剣よりも強し!」
オレを救出して英雄気取りのチサトが大見得を切ってみせる。ついでに案の定おならをした。するとまだカメラを切ってないのだろう。ゲーム内の
「チサト。その勢いで柴式部先生も頼む」
「ふふ。仕方ないなあ」
こりゃまた大した救世主様だ。チサトは意気揚々と牛車の中に飛び込んでいった。どったんばったんすったぁもんだぁの末、唐突に牛車がかき消え、ルーシーとチサトだけがその場に放り出された。
倒したのか……?
放心状態のオレはどっしりと背もたれに体重を預ける。
「チサトがやっつけた!」
と、チサトはノートパソコン越しにオレを見る。
「あー、すごいすごい」
と、これで我が妹君はおならをした。
「あ、なんか落とした」
柴式部先生その他の衛士達が煙になって消えると、後に一振りの刀が残された。オレは重い体を引きずるようにして中島に降り、拾い上げる。
インベントリを覗く。銘は冷刀『
「あの、その刀、わずかだけれど少しずつ短くなっているわ」
「なん……」
思わず
「今の戦闘で《
「それはいいね。もしかしたら、ルーシーは刀の潜在能力が高いのかもしれない。さて、撤収しよう。二人とも死体をどれか、回収してくれ」
柴式部先生に討たれたであろう遺体は無数に転がっていた。回収してないということはDOFをやめてしまったんだろうか。
「なんでそんなことするの?」
「うーん……」
深夜にも関わらず甘い甘い
光輝く装備を沢山身につけた女の子が転がっている。この子にしよう。
「DOFの習いなんだよ。みんながみんなやってるわけじゃないけど」
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