第9話 カガミの授業

 今日もまた、あの非道な看守チサトの管理下に置かれるのだ。そう考えるととても目を開ける気にはならなかった。憂鬱に独り、懊悩していた。幸いなことに、いつの間にかまた眠りの神ヒュプノス先生に手を引かれ眠りに落ちる。

 誰だろう? 見たことのないひとだな。

 浅い眠りから目覚める。目の覚めるような美少女が、無防備に傍らに眠っていたからだ。

 曖昧な意識を振り絞って気付いた。ここは夢の中だ。自分が今夢の中にいるって自覚している。いわゆる明晰夢って奴。

 せっかくの機会だ。夢の中ぐらい好き放題させてもらおう。日頃の鬱憤を撒き散らすのだ。

「服を脱げ。靴下はそのままだ」

「え……靴下履いてないんだけど」

 黒髪の美少女は目が半分しか開いていない。

「どういうことだ? 即座に着用せよ」

「……わかりました。ドキドキ」

 どこかで聞き覚えのある声だ。そして衣装ケースの中からいそいそと靴下を取り出す小さな背中をぼんやりと眺めていた。

 何か気配を感じて振り返ると布団の中にいたルーシーが上半身を起こしてこちらを眺めている。

 ルーシーはちょっと変わった、まあ、……不思議な女のコだった。人一倍の驚き、悲しみ、喜びをハイテンションで見せる時もあるのだが、基本的に感情を伏せる。

 そして今は後者だった。

 こんな夢を見るってことは、それだけオレが欲求不満だってことだ。

「ちくしょう。チサトの奴め」

 チサトさえ、いなければ。

「履きました」

「ようし。こっちゃ来い」

「寒いんで暖めて下さい。ドキドキ」

「いいコだ。抱きしめてやろう」

 黒髪の美少女はオレの胸に滑り込んだ。なんて可愛らしいのだろう。オレは両腕を伸ばし、ひしと抱く。少女は顔を染め、覆った。

 あれ?

 何か、おかしい。

 大きく深呼吸して目を開く。少女を突き飛ばす。

 がっくりと膝をついた。なんてこった。不覚。

「いったーい。……乱暴なのも嫌いじゃないけど」

「ちょっ、と待て。……さっきのは冗談だ」

「では、失礼します。ぬぎぬぎ」

 チサトはどうしたことか見事に聞き流してオレは少女……いや、チサトの手首を掴んで力尽くで制止させる。

「どきどき。ああ、強引なのがいいのね。それとも、自分で脱がせたいの?」

 オレは横目を使ってルーシーを見遣った。ルーシーはまるで人間とは思えないくらい静止したままだった。

「悪い。冗談だよ」

「なーんだ。つまんない」

 一時、落ち着いた。しかし改めて感情を発露しそうになってオレは布団をかぶった。

 オレは……チサトを可愛いと感じてしまった! 死ねオレ! オレ死ね!

 ズッダン! ズズダン! 地団駄を踏んでいる。もしくはバスドラムか。デタラメなリズム。いたずらに。騒音公害。オレの頭ん中だけで衛星生中継。悪ふざけにも程がある。オレの意思ではない。そうして亀になったオレは顔だけ出してチサトの表情を確かめる。

 チサトはもやしでも見るような顔でオレを見下ろしていた。オレは、何者かに厳しく罰せられなければならない、そんな気分だった。

 チサトは、はしごを降りていく。

 ああ、そうか。髪型が変わっていたんだ。

「どうして三つ編みにしたんだ?」

「髪が傷むから」

 寝惚けていたとはいえ、ひどい有様だ。。

 ということは、妹フィルターを通さずに、客観的に妹を見たら、夢に見るような美少女だってことなのか?

 オレはルーシーの視線を避けるようにして立ち上がり、はしごを下りる。

「チサト」

「何?」

「反抗期って知ってるか?」

「何、チサトが反抗期だって言いたいわけ? イライラ」

「そう、お前ぐらいの歳になると大体発症する」

「な、なんかそういう風に考えられるのやだ。プンスカ」

 いくらオレでも妹であるチサトの感情は解らないでもない。でもオレはチサトの想いなど全く気付かない、もしくは全く無視するようにして、言葉を続ける。

「人は……いや多細胞生物はなぜ分裂でえないか解るか?」

「分裂とか気持ち悪いから? うにょうにょ」

「お前が分裂で殖えたとする。クローンでもいい。まだ日本じゃ法律で禁じられてるけどな」

 非常食がオレを見上げて「ファッ」と甲高い声で鳴いた。オレは部屋を出て冷蔵庫のミルクを取り出す。

「そしてチサトはひたすら数を殖やし、毎日だらだらうだつの上がらない日々を過ごしました」

「それで?」

「おしまい」

 オレは非常食にミルクをあげた。非常食は小さな舌を器用に使いながらミルクを舐める。まったく習性って奴は恐ろしい。誰も何も教えていないのに生きる術を知っている。人間じゃこうはいかない。

「何それ」

 チサトはオレの背中にしがみついて抗議の意を表明。オレはにべもなく振り払って一息つくと「パソコン起動。黒板」とつぶやいてモニターに黒板を呼び出し、人差し指でディスプレイをなぞっていく。

「まあ待て。一方オレは優秀な陸上選手と結婚し、子供が生まれました」

「何それ! ぶんぶん! カガミ、こういう人が好きなの!?」

「あくまで仮定の話だ。さてオレの子供はどんな子供だろう」

「きっとカガミに似てむっつりスケベだね。ニヤニヤ」

 着替え終わったルーシーが、ゆっくりはしごを下りてくる。ああそうだよ。その通りだ。何度もルーシーに抱きつきたい衝動に駆られた。駆られている。オレはそんな感情を握りつぶし押し込めて無垢で無害な子犬を演じている。演じきれてないけど。でも、チサトはあっさりとオレの魂胆を見抜いているのか、ただからかっているのか、そうあって欲しいと望んでいるのか知らないけれど、ともかくオレにとっては障害だ。

 口で息をする。ルーシーの前では、理想的なオレでいたかった。腕の力を抜く。

「オレの短所と伴侶の短所を強く引き継いだ子が生まれるかもしれないし、特に特徴のない子になるかもしれない。でも、オレの知性と彼女の身体能力を与えられた子が生まれ落ちるかもしれない。この子をCとする」

「なんだか授業受けてるみたい」

 チサトの瞳に憂鬱の色がほんのり浮かぶ。

「Cは優秀なので当然モテる。仕事もでき勝ち組になり生活にゆとりもできるだろう。やがて結婚しまた子孫も繁栄する。一方、今や一億を割った人口を見ても解る通り少子化は未だ歯止めがかからない状況だ。経済的に余裕がない負け組の人間は子孫を残さず淘汰される。優秀な遺伝子が生き残り人間は少しずつ進化していく。これを適者生存という。イギリスのスペンサーという哲学者の言葉だ」

 チサトは非常食を捕まえようとするが逃げられた。非常食はオレの足にまとわりつく。

「さてここでチサト、じゃなかった単細胞生物を見てみよう。単細胞生物は進化のすべに乏しい。突然変異しかない。チサトはいつまで経ってもチサトでチサト2号、3号、4号ができるだけだ。性別すらないのがほとんどだ」

「チサト、単細胞やめたい。うにょうにょ」

「つまり分裂しかできない単細胞生物より異性の遺伝子を選択できる多細胞生物の方が進化の上では優秀だと言える。先月深海の熱水噴出口で発見された底生生物ベントスの新種にはalmaleと呼ばれる三つ目の性――第二の雄が見つかった。この雌は二種の雄の精子を受精して子を宿す」

「てかさぁ。何真顔で『精子』とか言っちゃってんの? けらけら」

 チサトは笑い出した。じゃあ何か。顔を真っ赤にしながら「せ、精子……」とか言わなきゃいけないのか。オレはホモじゃない。

「三種交配により、より多くの遺伝子がくじに入れられ、優秀な遺伝子が誕生する可能性が高くなるのではないかという説が有力だ」

 チサトのいびきが響く。……少し講義のレベルを落とそう。

 ここでオレは黒板を最小化して「ランの画像」とつぶやく。

「この花を見てくれ。こいつをどう思う」

「きれー」

 オレは少し残念に思った。

「そうだ。さて、花はどうしてきれいなんだろう?」

「きれいになりたかったから?」

「そうかもしれない。きれいな花は虫や鳥、コウモリを魅了し蜜を御馳走して、花粉を運ばせ、繁栄していく。きれいな花が選ばれ、生き残る。さっきの適者生存って奴だ。だから花はきれいだ。おそらく、人間だけでなく、虫だけでなく、すべての動物が花を美しいと感じている」

 ふと、ルーシーと目が合った。オレはすぐに目を逸らす。

「生き残るために多細胞生物は計り知れないほどの進化を遂げてきた。自分と異なる遺伝子を求めるように、多細胞生物はできている。つまり」

 どこを見るでもなく。

「兄妹間の恋愛なんてあり得ない」

 びりり。紙が破れる音。

「何それ」

「反抗期ってのはな、親と子の間で恋愛感情が生まれないように起こるんだ。兄妹間でも普通は忌避感があるのが普通なんだよ。異性としてなんて考えられないはずなんだ」

「そんなことを言うためにこんな話をしたっての?」

 オレはチサトの視線を真っ向から受け止め、睨み返す。

「オレには好きな人がいる」

「チサトでしょ?」

「お前じゃない」

「嘘……」

 チサトの目がぴくり、跳ねた。

「お前はおかしい。オレとお前には、同じ血が流れてんのに」

「カンケーない」

「オレはお前を好きにはならない」

 くしゃくしゃになったチサトが、ついに逃げ出した。

「大ッ嫌い!」

 玄関に飛び出すと慌ただしくまっピンクのスニーカーを突っかけ、チサトが駆けていく。

 大嫌いか―。

 ……やった。

 ああ、

 ついに、オレは解放される!

 窓がびくり、震えた。振り返る。

 開いた玄関からチサトが入ってくる。

 早い。

 できれば失意のうちに実家に帰って……いやせめて一時間ぐらいはどこか人目のつかないところでおいおいさめざめ泣いたのちに戻ってきて欲しかった。

「つまりさ、チサトが妹じゃなければいいんでしょ?」

「そういう問題じゃない」そういう問題なんだけど。

兄妹きょうだいの縁を切って」

「残念ながら日本にそんな法律はない」

「法律なんてどうでもいいの。いい? チサトとカガミは赤の他人。わかった?」

「もうそんな風に考えることなんてできない」

「じゃあ……」

 チサトは伝家の宝刀ををかざす。オレはその手を押さえる。

「お前が電話したら、お前もここを出て行ってもらう」

 スズメが外で激しく鳴いている。非常食が朝食を欲しがってオレの足にまとわりつく。

「カガミ、ちょっと痛くするよ」

 チサトが吸血鬼になった。オレの首筋に噛みついたのだ。大して痛くはない。

「腹減ったんだな。ご飯にしよう」

「草は要らないから」

「草じゃなくて野菜な。それは無理だ」

 仕方がないからコンソメで煮て、食べやすくしてやろう。ビタミンが死ぬのがもったいないけど。

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