第8話 戦い済んで

 ふらふらと立ち上がった。

 と、ここでルーシーが強大な魔力でオレを縛りつけた。オレは必死で抵抗した。したんだけど、あっけなくその体にオレを呼び込んだ。


 我に返ると、オレの頬とルーシーの頬が密着。全身で、ルーシーにのしかかる格好だ。太ももと太ももが触れ合う。ルーシーの豊かなバストはオレに押しつぶされぺしゃんこにならず存在を誇示していた。ルーシーは顔を背けた。

「ド変態!」

 チサトは足を振り上げ、オレの脳天にかかとを突き立てた。

 朦朧としたまま立ち上がる。もう料理をする元気はない。冷凍庫を漁ると、奥に先週のセールでせしめた和牛ロース様が鎮座ましましましましていた。今日はこれでいこう。


 焼き肉なんて下ごしらえも楽だし簡単なものである。流し台で食器等の準備。

 ドッダン!

 ぎょっとして振り返る。

「何……やってるんだ?」

 オレの家のど真ん中で、冷蔵庫が無様に横臥していた。

「綺麗にしなきゃいけないでしょ」

 チサトが布巾を手にしているのなんて初めて見た。冷蔵庫を拭いている。掃除らしきものが終わると牛肉を冷蔵庫の側面に並べ出した。


 じゅ~。

 間もなく肉がその身をよじらせながら苦悶に脂をにじませ、きつね色に染まる。

「何突っ立ってんの。タレ持ってきて」

 オレはチサトの我がままぶりに首を振りながらも優しいお兄ちゃんを演じ続け、取り皿やら箸やらを持って行ってやる。にんにくとショウガをすり下ろしゴマ油、塩を加え塩ダレをこしらえ、レタス、かいわれ大根とにんじんその他野菜に和えてサラダを作る。

 楽しい夕餉ゆうげと相成った。


「よく塩こしょうだけでお肉が食べられるよねえ」

「米が甘いのに調味料まで甘いタレで食べてられないんだ。チサト、肉ばっっか食べてんじゃねえ。野菜食べろ野菜を」

「ニンジンいらない。なんで何にでもニンジン入ってるんだろ。ポイッ」

 チサトは偏食が激しい。野菜はおろか、苦いもの、辛いもの、酸っぱいものも食べない。


 と、ここでルーシーが口を開いた。

「人間は、本能的に野菜が嫌いなのよ。太古の時代から毒性のある植物で命を落としてきたから、植物をいとう人間が生存し、今に至っているの」

 玉にきずというか、ルーシーは空気を読めないところがあった。流れをぶった切り、客観的な事実を述べる。いや、それともえてオレを邪魔するようなことを言っているのだろうか。


「ほら! 毒は食べなくてもいいんだよ! どさっ」

「ニンジンに毒性はない」オレは皿に野菜を投げ込む。

「つんつく。大体さ~、ピーマンがこれだけ苦いってことはあれだよね、食べてはいけないってゆう警告だよね~」

 オレだって野菜は嫌いだ。でも食べなきゃ体に悪いと学者が言ってるから、正直に言えば老化が怖いから食べてる。何千年か経って人間が進化したら、緑ピーマンを美味しいと感じるようになるのだろうか。


「ピーマンを食べるとクロロフィルの効能でお肌にいいぞ」

「ホント? はぐはぐ。うげえ、こんなん人の食べるものじゃないよお」

 高知にお住まいの促成栽培に携わる農家の皆様御免なさい。どうか愚妹の暴言をお許し下さい。



「あれえ? ナデナデ」

 チサトがスマホをいじりながら素っ頓狂とんきような声を上げる。

「故障かなあ? くるくる。機種変したばっかなのに。あー溜めてたメールが読めないッ」

 転がるように非常食がやってきてオレの膝に乗った。体も大きくなってきてオレのこぶし大ぐらいはある。基本的に、丸い。耳が立ってきた。とても短く太い足が四本、おまけみたいに付いている。目は黒目がちで大きくまんまる。鼻は黒くも短い。「非常食↑」と呼ぶと短いしっぽをどっかに飛んで行ってしまうんじゃないかと思うほどぶんぶん振った。全身を覆う白い毛は長い。全身白と黒で構成されているが舌と肉球だけはピンクだ。

 これだけ足が短いと運動能力に差し支えるようで、跳躍力はどうしようもなく低く、膝に乗るときも爪を出して不器用によじ登るしかない。撫でてやると口角を上げた。

「かわいいねえかわいいねえ」

 思わずこんなことを言ってしまうからほら、空気がよどむ。チサトが口から瘴気を吐き出す。

「なんだか肩が凝ったなあ。コキコキ」

 そりゃそうだろう。毎日ずっと部屋の隅でパソコンとにらめっこしてんだから。

「カガミさあ、マッサージしてよ。モミモミ」

 は?

 チサトは無造作にうつぶせになり、足をぶらつかせた。

「パンティ見えるぞ」

「気になるの? バタバタ」

 チサトは腰をくねらせる。

 オレはシカトした。だがその沈黙が肯定を意味することに気付いて慌てて「やめろバカ」とつぶやく。

「男子って、パンツのことパンティってゆうの好きだよねえ。変なの」

「パンティと言う言葉には夢が詰まってる。男の履くものではない、何か特別な存在だと、神のように崇めるべき存在だと、認識を昇華させているんだ」

「意味わかんない」チサトは笑った。オレはルーシーがいるのも気にめず語り出した。

「人間はなぜ脇なんかに興奮するのだろう? 性差が現れる所じゃないのに」

「臭いがあって嗅ぎたくなるから? クンカクンカ」

「チサトの脇は相当臭いんだな。憶えておく」クンクンじゃなくてクンカクンカってより気持ち悪い感が充満してるな。どうでもいいけど。

「えッ! そんなことないよ! そんなこと、ない……はず。うんうん」

「ともかく、他に人が見たくなるものに太もも、腹チラ、胸、ごにょごにょ等がある。なあに、単純な話だ。追いかけられると逃げたくなる。逃げられると追いかけたくなる。食べちゃ駄目と言われると食べたくなる。隠されると見たくなるってわけだ」

 チサトはスカートの裾を伸ばし尻をポンポンと叩くと「早くマッサージしてえ。フリフリ」とせがんだ。

 チサトとは言え、性別上は一応女なのだろう。躊躇しないことはない。でも覚悟を決めて。おずおずと手を伸ばしオレはご機嫌を取って現在チサトによって置かれている苦境から逃れるべく、全身の力を込めてむんずと妹の腰を掴むともみしだいた。

「ああん! ……つ、強いよ」

 チサトは大仰にじたばたと暴れる。

 ああ、チサトってこんなに華奢きゃしゃなんだな。とてもオレと同じ血が流れているとは思えない。案外、本気で苦しくてこんな声を出しているのかもしれない。力を緩める。

「ああ! そ、そんな! ら、らめえ……!」

 ……ふざけてやがる。オレは力加減をを変えた。チサトの横っ腹を小刻みに揉みしだく。

 チサトは笑い出した。釣り上げたばかりの活きのいいチャーシューみたいに手の中で跳ねる。

「もう……許し……てッ! ド変態!」

 オレは構わずチサトを全力でくすぐり続けた。金輪際こんな要求をしないように。

 チサトは腕と腕、脚と脚をぴったりと合わせ体を縮こませて耐えている。小刻みに体は震え、もしかすると痙攣しているかもしれない。笑い声はだんだんと力なく、暴れる元気もなくなったのかぐったりとしている。オレも握力がなくなって撤退。

「ねえ……」

 チサトが息も絶え絶えにオレのセーターの袖を摘まむ。目が開いたばかりの子猫みたいに焦点が合っていない。体に力が入ってない。

「もう、やめちゃうの?」

 参った。苦悶と悔悟を与えようとしてやったのに。……参った。後悔させられたのはオレの方だ。

それからチサトはオレをしげしげと眺めて「ねえ、付かぬ事を訊くんだけどさ」と切り出した。チサトぐらい『付かぬ事』を尋ねる奴もいない。「カガミってさ、もしかして性欲ないの? ホモなの?」

「は?」 

 気味が悪くなって「風呂入って来る」と立ち上がった。

 なんかすげえさっぱりしたい。入浴剤のパッケージをびりびり引き裂いて浴槽に投げ入れた。

 おっと、鍵を閉め忘れている。危ない危ない。ちょっと、いやちょっとなんだが、気が動転している。ユニットバスで服を脱ぎ、熱い湯に浸かった。

 なんだろう。この違和感は。

 オレの体を包む、感覚がいつもと違うんだ。

 よどんでいる。

 どうしちまったんだ、オレは。

 体にまとわりつく、ぬるぬるした気色悪い感触。

 オレは、目をあけて、さっき引き裂いた入浴剤のパッケージを手に取る。効能でも眺めて気を紛らわそう。ああ、畜生。

 もずくスープの素じゃねーか。

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