第7話 妨害

 目を開けると、チサトがオレにまとわりついていた。まだ暗い。ため息をついてチサトを突き飛ばす。

 だけど一度起きてしまうともうなかなか寝付けなかった。

 高校での日々が頭をよぎった。そしてこれから、どうして苦痛な日々をやり過ごそうか、そして来たるべき受験……その絶望感が亡霊のように瞼の裏に現れた。恐怖がうしおになってせり上がってきて、胸をいた。

 絶叫した。

「ああ、死にたい死にたい!」

 あ。

 気を緩めてしまった。独りで寝ているときのオレに戻ってしまった。

 グかーっ……。

 チサトは熟睡中。

 おそるおそるルーシーを見……。

 ふわっとしたものに包まれた。

「もったいないわ。五体満足な体と正常な心があるのだから。本当に羨ましい」

 ルーシーは? 何か違うのだろうか。

 チサトのかまびすしい鼾が響いていた。

 まだ、オレは眠っているのかもしれない。みんなみんな長い夢なのかもしれない。オレはルーシーの腕に抱かれて、これが現実であって欲しいと願った。やがて、目をあけて。

「おはよう」

「おはよう」

 白い吐息が溶け合う。カーテンを漏れてくる光はか細く、冬であることを差し引いてもまだ早朝に違いない。チサトも目を開ける。

「寒い! なんでタイマーしてないの? 速攻で! 三十度にして!」

 ブォン……。エアコンが口を開けた。ルーシーが下に降りていく。オレもその後を追った。

「うーん……」

 チサトが気怠そうに起き上がる。半開きの目が後ずさりするように梯子を下りていくオレを捉える。

 ダメ人間のオレが言う。 

「よし、始めようか」

「ええ」

「パソコン起動」

 パソコンが「またっすか」「いいご身分で」と賞賛してくれる。誰だこんなアプリを突っ込んだのは。

 準備が整うと、お上からありがたいお言葉を頂いた。

「ひょこ。……カガミさあ、またゲームするわけ? 二学期の通知表家に送ってないよね? 今見せなさいよ。まさかとは思うけど自分でハンコ押して提出とかしないよねぇ?」

 チサトが顔だけ覗いてオレを見下ろす。

 正直、痛いところを突かれた。無視を決め込む。

「んじゃ、さっそく今からママに電話するね。カガミがヒトスジシマカ連れ込んでるって!」

 オレとルーシーが楽しくゲームやってるのが許せないんだろう。

「わかった! ……勉強しよう」

 まあね。確かに宿題をここで片付けておくのも悪くないだろう。しかしなんだか負けた感がハンパない。

 チサトはそして今日も部屋の隅でノートパソコンに向かう。何をやってるのか知りたいけど知りたくもない。

 机に向かってペンを握る。新鮮ではあった。勉強って、いつ以来だろう? 自分に呆れながら冬休みの宿題に取りかかる。 

 理系のクラスに入って、才能って奴を目の当たりにした。ああ、数学はセンスが必要だ。

 オレは最低だった。補習から逃げ続けた。声をかけ続けてくれていた先生も諦めたのかもう誘われることもなくなり、成績はもちろん下降線、授業は何を言っているのか解らなくなり、拷問になった。無為な時間を窓の向こうを眺めて過ごす日々。ああ、ライバル達はその間にも刻一刻と学力を高めもう取り返しのつかない差がついてしまって。教師に当てられるたびにオレは己の無力さをクラスメートに披露する。

 なんだこれ。オレはお前等に精神的優位を与えるために生きてるわけじゃない。

 三問目でもうけつまずく。この絶望があと2年も続くのか。いや、今のオレを受け入れてくれる大学なんてあるのか? 

 死んでしまいたい。

「それ、ヤコビの四平方定理を使えばいいのよ」

「あ……ああ」ペンを走らせる。

 なるほど、これで証明可能だ……。

 頭ん中を、疑問符が舞い踊る。

「どうしたの? 間違っていたかしら」

「い、いや、そんなことないよ。……助かった。次の問題もお願いできるかな」

 酸素が足りない。口で息をする。

 たまたまじゃなかった。ルーシーは次々と完璧なアドバイスを繰り出す。

 なぜルーシーに、こんな学識があるんだ?

 にも角にも快調に回答欄が埋まっていき、オレは困惑しつつも数学の宿題を終えた。チサトを見る。視線に気づいたチサトは「何?」といった憮然とした表情。ふん。どうせ全教科やれって言うに決まってる。イラッとして「お前は宿題やったのかよ」とでも言おうかと思ったがここで変に敵対心ヘイトを稼いでも仕方が無い。大人しく次の宿題に取りかかった。

 なあに。ここで宿題を終わらせてしまえば後が楽になる。そう言い聞かせてオレはこれまでになく熱心に宿題に取り組んだ。しかしまもなく解けない問題に遭遇する。オレはルーシーをチラ見。ルーシーは淡々と問題の解説を始めた。なんてこった。学校うちの先生よりも解りやすいかもしれない。

 

 宿題は一日では終わらなかった。疲労したオレは自分を制御しきれず八回ルーシーにダイブし、十三回チサトに「ド変態!」とお褒めの言葉を頂き、九回チサトキックを食らった。

「よし! ルーシー、DOFやろうか」

「ちょっと待って」

 今日もまたチサトはノートパソコンとにらめっこを続けていた。

 嫌な予感がしてチサトを睨む。チサトは腕組みをして。

「成績、上がってないんでしょ? 二学期の復習をしなさいよ」

 とのたまった。

「は?」

 上がってるどころか絶賛下降中だけどな! 頭に血が上る。

「チサトにはカンケーねえって」

「通学時間減らすためにわざわざ一人暮らししてるんでしょ? じっくり勉強できるチャンスじゃない」

「昨日今日とこんなに勉強したんだ。息抜きぐらいさせろよ」

「ああ、そう。……解りました。では今即座にここで見聞きした近況報告をもれなくさせて頂きますね」

 声音が違う。

 やっと音に聞く有名店で念願のラーメンが食べられる! と、店の暖簾のれんを見つけたら『無期限休業します』と張り紙が貼ってあったぐらいのダメージがあった。

「わかった。お前の言うとおりにする」

 とりあえず神妙にしておこう。参ったな。

 まあ、あれだ。確かに今後のことを考えたら勉強はしておくに越したことはないし。

 でも。ああ、よりによってチサトに勉強を強いられるとは。拳が震える。

 オレは仕方なしに学校指定のカバンを開けた。まさか外の空気を吸えるとは思っていなかったのだろう、久々のご登場に教科書さんもノート君も目をぱちくりして眩しそうに部屋を見回している。

 ノートは見るも無惨な落書きと戯文に充ち満ちていた。チサトはまだしもルーシーにこんなものを見せるわけにはいかない。消しゴムを握り、黒板の内容を消さないように気をつけながら力を込めて消していく。

 だってさ。先生が何を言っているのか理解できなくなったら、こんなことしかやることないじゃない。こんなオレの気持ちを露ほども共感し得ない諸兄姉は、今すぐこんなものを読むのを止めて頂きたい。もし何らかの方法でブックマークしているならすぐに消してくれ。今すぐにだ!

 済まない。……取り乱した。

 授業中に無間地獄の苦しみを被っているオレの気持ちを少しでも汲んでくれれば幸いだ。

 消しゴムを一つ半消費し、机の上にちょっとした丘が完成したところで、ようやく勉強を開始した。

 大体ノートって奴は後で復習するために取るものだ。

 ルーシーがオレを見守っていた。じっと見つめていたらチサトが背中を蹴ってくる。

 よく考えたら、教師の言ってることがまるで解らないのにノートを見て理解できるわけがない。こうなったのも今考えるとノートを取るのに集中しすぎて解説を聞いていなかった嫌いがある。理解を深めるためのノートなのにノートを取るためにオレの頭脳というリソースのかなりの部分を使ってしまい、理解を妨げている。おまけにそこまでして取ったノートは学校の机の中に入ったままで、定期考査間近になればなったで他のタスクの処理に忙しく、一切顧みられることはない。手段が目的化している。

 今、こうしてノートを見ても、さっぱりだ。教科書を見てもさっぱりだが。

「ちょっと、いいかしら」

 ルーシーの顔を、まともに見られなかった。

「なんだい?」

「中学生時代の教科書はある?」

「うん。そこに」

 ルーシーは教科書を読み始めた。かと思うと、まっすぐな目でオレを見つめた。

「復習のほうがいいわ」

「え?」

 机の上に教科書と問題集が積み上がる。

「いや……だってそんな昔の問題やったって仕方が無い」

「ではアタマから」

 ルーシーに反論する対立軸がみつからない。仕方なく一章の一問目から始める。ええ、実に簡単な二次曲線の問題達です。はらの中で不貞腐れ、半笑いしながらすらすら解いていく。

 なんで今更。

「⑥、間違ってるわ」

 ?

 油断があった。まあ人間だからね。仕方ないね。うん、ケアレスミスだ。

「⑨、間違ってるわ」

 まあこういうこともあるよね。ほいほいっと。

「まだ間違ってるわ」

 いらっとした。でも悪いのはオレだ。こう、かな。

「違うわ」

「解答見るわ」

 ああ、はいはい。なるほどね。さて、次のページ。

 ……。

 なんだこりゃわかんねーぞ。さて。

 ルーシーの手が、解答の冊子を押さえた。オレの手を阻む。

「極座標(r, θ)と直交座標(x, y) の間の変換式を答えなさい」

 オレは息を呑んだ。ルーシーの目はガラス玉なのかもしれないと、疑う。

 格子がないのになぜか出られない檻の中に、オレはいた。

「……思い出せない」

 ルーシーはやはり無感情に言葉を紡ぐ。

「学業は一つ一つ土台を着実に積み上げねば習得できない。そのときは習得したつもりでも反復演習を行い、自分の血肉にしなければいけないの」

 参ったな。お説教か。

「傷口が開いたまま進軍してはいけない。もつとも、普通の人間は『痛み』という警告を受けるけど。カガミは学習状況に瑕疵かしがあったのに現実逃避して痛みを我慢してきた。今から傷を一つ一つ、縫合しなさい」

 ぐうの音も出ません。

 俯きながらオレは次のページに取りかかった。

 む。

 息が漏れた。空笑い。

 ホントだ。

 オレ、前学年の問題もできねんだ。

 それから、ルーシー先生の下、延々と続く復習の旅は始まった。

 ルーシー先生は手厳しかった。そして間もなく。

「中学二年の教科書はあるかしら?」

「はい……」

 オレは涙目で教科書を差し出す。こんなもの、捨ててしまえば良かった。教科書の表紙には大きな薔薇が描いてあった。オレの名字は『花』なのでそれを友達がからかったものだ。ルーシー先生はパラパラと中身を精査し、オレに現実を突きつける。

「この問題をやりなさい」

 ルーシー。オレがどんなに情けない気持ちか、君には解らないだろう。

 今オレにできることは、鬼神の如く問題を解いて見せ、「ふっ、こんな問題屁でもないね」と一笑に付して見せることだけだ。

 せめて、キミの前だけではカッコいい自分でありたいんだよ。

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