第5話 小さな贖罪  

 家に戻るとお湯を沸かし、買ってきたばかりの湯飲みとお茶っ葉、急須を取り出し、緑茶を淹れた。

「熱つっ……」

 湯飲みを持ってドアを開け、部屋に入る。

「キャッ!」

 中に下着姿のチサトがいた。服を着替えているらしい。

「ド変態!」

「ここはオレの部屋だ」天井を見上げた。「ルーシー?」

 ひょっとしてルーシーは昨日オレが上に来てと言ったから、今になるまでずっと上にいたのではないだろうか。

 震える手を、伸ばす。

 オレは、贖罪しょくざいをしなければならない。

 ロフトから延びるはしごははしごと言うほど急ではない。階段のようでもある。が、それでも慣れないうちは怖いかもしれない。ルーシーの目が木の上の子猫のように揺れている。

 手を取った。

 君の体に触れるたびにオレの胸がどれだけ高鳴っているか、知っているかい?

 でも。君はオレを軽蔑している。

「ありがとう」

 君の声は、涼やかで、心が洗われるようで。

 チサトは思わせぶりに大きなため息をついた。不機嫌を隠そうとしない。

「これは緑茶だよ。飲むと目が醒めると思う」

 ルーシーはおずおずと口に含む。そして渋い顔をしながらゴクゴク飲み干した。ちょっと濃いめに淹れてしまったかもしれない。

「ミルクと砂糖が欲しいわね」

 ふむ。欧米的な嗜好だな。でもその割に全部飲んじゃったね。

「もう一杯どうぞ。今度はミルクも入れようか」

 みるみるうちに白濁していった緑茶は、結構美味しそう。これは意外とありなんじゃないだろうか。

「うげ。まずそう……」

 オレはチサトの頭をコツンとやった。なぜかチサトは嬉しそうで、オレはかなり後悔した。

 そしてキッチンに立った。とりあえず、ミルクは好きなんだろう。鍋に砂糖とミルクを入れ、加熱して砂糖を溶かす。牛乳は無調整で乳脂肪分が多いからコクが出るはずだ。お湯に溶かしたゼラチンをそこに加え、鍋にミルクを追加。まったくゼラチンって奴は便利な物で、液体に加えるだけでお手軽に料理になってしまう。バニラエッセンスを加え香り付け、カップに注ぐ。次にさっき買ってきた苺を刻んで練乳を加え、ソースを作る。

 部屋に戻る。と、チサトがオレを待ち構えていた。

「何か気付かない?」

 ああ気付いているよ。お前がさっきユニットバスに入って、髪型を変えて出てきた。

「そうだな……。ルーシーが退屈そうにしてる」

 ルーシーは部屋の隅に息を潜めるようにして立っていた。

「他には?」チサトはオレの視界を遮るように立ち位置を変える。

「そうだな……。チサトの胸が全く成長していない」

「……な!?」

 オレはチサトを押しのけ歩いてく。

「ルーシー。ここはもう君の家だ。好きにしてくれて構わない。いつTVを点けてもいいんだよ?」

「ありがとう」

 ルーシーは相好を崩さない。オレの寸胴でスープが渦巻いている。

「カガミの、ヒトスジシマカを見る目がいやらしい」

 とチサトは自分の胸を手で隠しながらオレを引っ張る。

「あ。TVの点け方、判る?」

「いいえ」

「命令文で言えば大体反応するんだ」

 ルーシーはTVには本当に興味があるようで、一度点けると食い入るように観ていた。ちょっと、嫉妬してしまうぐらいに。

 TVでは牛豚鶏のどれが美味しいかを競う番組が放映されていた。

「カガミ! 肉が食べたい。肉ゥ~」

 とルーシーが言ってくれれば面白いのだがこんなことを言うのはチサトだ。

 ああそれで思い出した。買い物袋を探り、猫缶を取り出す。あれ? 一緒に割り箸も出てきた。レジの店員さん、オレが猫又にでも見えたのかな。卦魂にご飯をあげる。

「あ、それと」

 部屋を出てカップに触ってみる。粗熱あらねつが取れているのを確認して、冷蔵庫へ。

「オレ、バイト始めるから」

「は!?」

 骨からどれだけ沢山の髄を染み出させるつもりなのか知らないが色をなした濃厚スープは大いに沸騰した。 

「ともかく」オレはTVに釘付けのルーシーを横目で見遣る。

「おそらく留守にしていることが多くなるぞ。チサトも家に帰れ」

「ヒトスジシマカををいつまで置いておくつもり?」

「……判らん」

「カガミさ」チサトは乱れた髪を直しながら。「あの女を養うためなんでしょ」

 オレはロフトに上り、収納から服を見繕って着替えを始めた。

「何見てんだよ」

「いいじゃん。減るもんじゃないし」

 チサトははしごをちょっと上ってオレを覗いている。何、血を分けた妹さ、下着ぐらい見られたところで何でも無い。そう思い聞かせて着替えを済ませるとはしごを下り机に向かった。

「あ、そうだ」

 思いついたようにチサトが声を上げる。

「さっきね、パソコンが逝ったみたい」

「な?」

 オレはキーボードを叩いた。フリーズしとる。

「こ……」

 ため息しか出ない。

「オレの命より大切なパソコンが……」

 それまでテレビに夢中だったルーシーが突然振り向いた。

「命より、ですって?」

「そうだよ。こいつがいなくちゃ生きていけない」

 ルーシーの顔がひどく歪んだ。これから一生ラーメンを食べてはいけないと宣告されたような顔。本気で命より大事だと思ってるわけではないんだけどな。誇張が理解されていないのかも。

「うお……まずい。強制終了すら出来ない」

 仕方なく電源ボタンを長押し……反応がない。仕方が無いので電源を切った。そして起動。……OSが立ち上がらない。机から離れ、深呼吸。何か、思い当たる節はないか?

「……。パソコンが使えなきゃバイトも探せねえ」

 ふわっと、首筋に熱が伝わる。震え、振り返る。しかし淡い期待は裏切られた。そうだ。オレはルーシーを傷つけた。そんなのありえない。

 オレに、チサトが絡みついている。喉に人差し指を這わせる。

「ねえ、カガミ。バイトなんて行かなくていいよ。チサトが、お金出してあげる」

 オレは、唇を結んだ。

 妹にお金を出してもらうだって!? まるでヒモじゃないか。でも、そうしたら、ずっと家にいて、ルーシーと過ごせるのか。ルーシーを一人にしておくのも不安だな……。

 易き方へ、易き方へ流される。

 低い方に身を委ねてはいけない! 思い止(とど)まろう。誘惑に屈するな。

 大体そうしたら全ての主導権はチサトの掌の上だ。そんな情けないことでいいのか?

「あん……」チサトの手が宙を泳いだ。

 オレはチサトを振り払って冷蔵庫を開けた。うん。固まってる。仕上げに苺ソースを掛けて。ラーメン屋の飲食店営業許可の検査を受ける心地でミルクプリンを運ぶ。

「昨日の夕飯は遅かったし、今朝はこんなものでいいだろう」

「いただくわ」

 そうして、小さな口に、あの柔らかな唇に、プリンが吸い込まれるのをただ見ていた。

「わ。この苺くそうまい」

 そうしてやっぱりおならをした。その下品な表現をやめてくれないか妹よ。でもオレは妹のことなぞまったく気に掛けない風を装う。せいぜい将来出逢うだろう好男子に、宇宙の果てまで引かれるがいい。

 ルーシーは流し台に置かれたイチゴを眺める。

「光沢があり、実は盛り上がり、ヘタが反っている。新鮮な証拠ね」

「これは今朝運良く手に入った新興品種、セルジオ苺だよ。強烈な酸味と豊かな香りを併せ持つ」

 チサトがオレを睨んでいる。オレは気付いていないふりをしてプリンをスプーンに乗せた。うるさいほどの刺激が舌を痛打するが馥郁とした香りが口に入れてもなお、鼻まで駆け上ってくる。なるほど、製菓用としては最良と謳われるだけある。

「お、いった」

 試しに起動ボタンを押すとあっけなくOSが起動。静電気だったのかな。早速バイトを検索。

 チサトの手がオレの右手を掴んだ。

「何だよ」

「これチサトのプリペイドカード。好きに使っていいから。ヒトスジシマカの物でも好きに買うといいよ」

 オレはチサトを見上げた。チサトは顔を背ける。

「なんでここまでする?」

「カガミがいなくなったら意味がないの。でもこれは取引。これから家に電話して冬休みの間チサトをここに缶詰にして勉強を見るって言って」

 ありがとう。そう言いかけた。でも、できうる限りチサトに冷淡に接するのがオレの責務だと考えていた。それが、チサトの為だと考えていた。

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