第3話 君を拾った日 後編

「お腹すいた~」

 家に入るなり、チサトはオレの顔を見ながらつぶやいた。

「はいはい」

 オレは腕まくりして食材を漁る。もう一人暮らしにも慣れたもので今は冷蔵庫の中身に合わせて適当なものを作れるようになった。スーパーで売っていた生パスタ。これでいこう。まな板に洗った野菜を並べ包丁を握る。

「あ、今日キス3の日だった!」

 チサトが慌ててテレビを点けた。その後ろでルーシーが目を丸くして画面を眺めている。

 キス3は巷で話題のTVドラマだ。正しくは『KISSまで3センチ』。共学の高校を舞台とし、とある事情から恋愛症候群に罹った生徒達の群像劇だ。誰と誰がいつどのように接近し、口づけるのか。男と女か。男と男か。女と女か。予想がつかない展開が人気を博している。

 ルーシーはひたすらTVに見入っている。TVを見遣ると、茜色の教室で男女が吐息のかかるぐらいの距離で見つめ合い、終着点に至る駆け引きをしていた。

「もしかして、テレビも初めて?」

「ええ」

 ルーシーの暮らしていた国は、一体どんなところだったのだろう。

 やがて、ヒロインが目を瞑る。

「何感動してんの? まだこれ泣くとこじゃないよ」

 チサトは吹き出した。止めどなくたぎり落ちる涙。

ちげーよ、タマネギ切ってたんだ」

 グァンチャーレ豚の頬肉の塩漬けを炒め、出てきた脂でニンニクを炒める。そしてタマネギ投入。オリーブオイルを使わないのは材料費節減もあるが油っこさを減らすためでもある。その分、グァンチャーレは多めに使う。グアンチャーレがカリッカリになる頃、ニンニクは生臭さが減りコクが出てさっきオレの目に猛然とアタックしていたじゃじゃ馬タマネギはしおらしくきつね色、甘みが出る。同時に鍋にフェットチーネを投入。

「ちょっと、こっちが折角感動のシーンなのに臭いんだけど」

 さすが包丁も握ったことない我が妹様は言うことが違う。レタスをちぎりトマトを切ってサラダをこしらえると、少し堅めに茹で上げたフェットチーネをフライパンに入れ、炭酸水を混ぜ合わせて火を止め、フライパンにパルメザンチーズを振り、卵を割り入れ(卵黄だけ使うなんてもったいないことはしない!)、手早く絡めて塩と粗挽き黒こしょう。余熱でフェットチーネがいい具合に、卵は半熟になったところで大皿にオサレにねじって盛って。

「召し上がっといて」

「チサトは箸がいい。あと豆乳」

「はいはい」

「あ、ヒトスジシマカの皿、今買ってきたばっかの奴だ」

 意外とチサトは見ている。面倒な奴だ。

 ルーシーの細くたおやかな手が器用にパスタをフォークに絡め、パスタが可愛い口に滑り込む様を、オレは見るともなしに瞬きせずに観察していた。

「美味しいわ」

 オレは心の中で快哉かいさいを叫びながら茶碗にご飯をよそった。

「何にやにやしてんの?」

 チサトは辛辣な目をオレに叩きつける。オレは気にせずパスタにがっついた。

 オレのカルボナーラは卵白も使い、生クリームはもちろん牛乳すら使わない。だからグァンチャーレとチーズのコクがガツンと来る。

「炭水化物摂って炭水化物……」

 オレはチサトの言葉に耳を貸さないが心の中だけで反駁した。お前と違って俺は頭脳労働で沢山のカロリーを消費している。だからご飯が進むようにこんな味付けにしているんだ。

「……次のニュースです。オンラインゲームで口論になった相手に暴行を加えたとして、新宿警察署などは二十四日、さいたま市の高校生を殺人未遂容疑で現行犯逮捕しました。容疑者は……」

「テレビ観たかったら観てていいからね」

「……ええ」

 ルーシーはまだテレビが気になって仕方がないようで、コマーシャルまで食い入るように観ている。でもそのおかげでオレもまじまじとルーシーを眺めた。

 そして見惚れた。

 !? 冷たい? 冷たい!

 立ち上がる。オレの体は白い液体でぐっしょりと濡れていた。ゆっくりと面を上げ、呆然とチサトを見遣ると奴の手に豆乳の滴るコップが握られていた。

 チサトの顔は蒼白だが怒りを湛えていた。まばたきが多い。コップを背中に今更隠して、俯く。

 どうだチサト。オレが怒ると思ってるんだろう? でも何もしてやんない。罪を憎んで人を憎まない……というか罪も憎まない。何か気持ち悪いだろう?

 チサトは、まあ反省しているんだろう。まだ顔を上げない。

 オレはそっと席を外した。

 下手に怒鳴るよりかえって効くかもしれない。というのは方便で。実のところ、ルーシーにオレの感情を表すところなんか見せたくない。

  

 オレはユニットバスに入った。ついでに風呂に湯を張る。

「もうすぐお風呂の準備ができるから、ルーシーから先に入って」

「ちょっと……待ってよ」

 チサトがおずおずと言い出した。

「……そうだ、カガミの体冷えちゃったでしょ? だからカガミが一番先に入って」

「いやオレは大丈夫」

「遠慮しなくていいから」

「一体どうしちまったんだ? 昔はオレといつも一番風呂争いしてたって言うのに」

 チサトはゆっくり瞬きをする。

「事情が変わったの。あ、それとも何? チサトに脱がせて欲しいとか? ドキドキ」と何を考えているのやら顔を紅潮させている。

「意味不明。さ、ルーシー」

「わたくしは結構よ。先にお入りなさい」

 なんてできた娘なんだ。惚れ直した。

「お客様なんだからそういうわけにはいかないよ」

 ルーシーはわずかに俯いて、小さな唇をきゅっと結んだ。ああ、君を困らせるつもりなんてないのに。

「わたくしは今テレビを観ているのよ」

 そう言われれば無理強いするわけにもいかない。仕方なくオレはユニットバスに入り、もちろん忘れずに鍵を閉めた。

 ふっと気が抜けてため息を吐いた。なんだか妙に疲れている。でもだらだらと湯船につかっているわけにもいかない。まあオレはシャワーだけでいいや。

「政府は官僚の傀儡で、官僚に逆らうと恐るべき魔力で野党に転落。官僚は国民の審判を受けず、政治家と検察官の黙認の下、こっそり甘い汁を吸う……」

 ドアの隙間から漏れ聞こえるテレビの音、シャワーのお湯が体をなでる心地よさにそっと身をゆだねていた。

 急に目の前が真っ暗になった。

 停電だ。

「……大増税すると選挙で負けるのでいつまで経っても借金は減らない。為政者に完済しようなどという気は更々無く、隙があれば自分の懐を暖め、己の地盤の拡大に税金を投じる」

 いや、おかしい。テレビの音が聞こえる。オレは急いでドアを開けた。パタパタと部屋に戻るチサトの背中が見えた。くそっ。オレは今上半身だけユニットバスから出してほぞを噛む。裸じゃ反撃できねえ。

「何してんの? まさか変な気起こしてないよね?」

 チサトがニヤニヤしながら振り返った。

「お前にだけは起こさないからご安心ください」

 想像した通りにむくれるチサトを尻目にオレはユニットバスに戻り服を着替えた。

「次はチサトね」 

 部屋に戻ると入れ替わるようにお泊まりセットを抱え、チサトはユニットバスに入った。

 邪魔者はいなくなった。

 食器を片付け始めると「へへへへへ……」と不気味な笑い声がユニットバスから響いてきた。何がそんなにおかしいのだろう。

 片付けが済むとオレはルーシーの着替えとタオルを用意。ロフトに上がって前にチサトが送ってきた布団を敷いた。

「あの、さ。その……ずっと見ていられるとなんか気恥ずかしいんだけど……」

 ルーシーははしごの上からオレのやること為すこと始めから終わりまで食い入るように見ていた。

「カガミはよく働くわね」

「身の回りのことだけだよ」 

「ウヒヒヒヒヒヒ……」

 チサトは一体なにをしているのやら。不気味な声が響いてくる。ボコボコ音が続いているのできっとおならもしているだろう。


「……なんだその格好は」

「照れなくていいのに。可愛いでしょ? くるっ。寝るときはラクな格好じゃないと熟睡できないの」

 シャンプーの香りがふわっと広がった。一応肌を覆ってはいるがスケスケだ。妹でなければオレにも何か思うところもあったかもしれない。

「はい、これが着替えとタオル」

「ありがとう」ルーシーは立ち上がった。

「はあああああああああああ!?」

 突然チサトがすっとんきょうな声を上げた。

「なんで……あたしの……パンツ」

「だからお前のために買ったんじゃないからな。ルーシーは着の身着のままで来たんだ。着替えだって必要だろう」

「なんでチサトがヒトスジシマカにお金出さなきゃないわけ?」

「お前が自分の物だと思っていたことなんて知らなかったし……わかった。お前の分はまた改めて買ってやるから」

 後ろでブツクサ文句を言うチサトを置いて、オレはルーシーに風呂の使い方を教え、ドアを閉めた。

 そうして今度は猫砂を猫トイレに敷いた。卦魂は賢い生き物で、すぐにトイレを覚えた。卦魂用の水飲み場と食器もしつらえて飼育環境は備わった。カリカリを食器に入れて、卦魂に食事をさせる。

 じきにドアが開いてルーシーが戻ってきた。

「あの……この服は、もしかしてカガミのかしら?」

「うん、そうだよ」

 ルーシーは黙ってこたつに入った。

「やっぱり大きいみたいだな」

 ルーシーの指先だけが袖から覗いている。

「大きい方が楽ね。カガミのにおいがするわ」

 洗濯はしてるんだけど……臭いか。ごめんよルーシー。


 食事が終わると卦魂はしっぽを立てて電気毛布の上に戻った。満足して頂けたようだ。

「歯磨きはどうすればいいか知ってる?」

「教えなさい」

「うん。さ、これがルーシーのコップと歯ブラシだ」

 それは、一口目の、箸で麺を持ち上げたときの感覚に似ていた。

 ルーシーと一言、二言交わすだけで、体温が上がる。

「はい邪魔」

 するとチサトが割り込んでくる。歯磨きが済むとオレは言った。

「二人は上で寝てくれ。オレは下で寝るから」

「嫌。ヒトスジシマカが隣にいるなんて落ち着かない」

「お前なあ……」

 オレはチサトを睨んだ。チサトはどこ吹く風だ。

「そうだ、カガミもロフトで寝ようよ」

「いや、それは……」

「普段上で寝てるんでしょ? 上の方が落ち着いて寝られるはず」

 チサトはそう言うとオレの手を引き梯子を登っていった。

 それにしても、多少は慎み深さというものを持って欲しいものだね。パンティー丸見え。

(本当はヒトスジシマカが下で寝ればいいんだけど)

 聞こえてるんだが。

「おいで、ルーシー」

「失礼するわ」

 二枚の敷き布団をくっつけて、川の字になって寝る。

 一般的に言えば、両手に花なのかもしれない。

 心臓が高鳴って、どうしようもない。

 あれ?

 オレって、心臓が三つあったっけ?

 真面目に、考えた。

 思わせぶりに、ため息を吐く。

「聞こえるよ」

「えっ?」「えっ?」

 声が重なる。

 二人に挟まれたオレだけが、二人の鼓動を聞いていたはずだ。そして、ルーシーはコロコロと、チサトは顔を背けて笑みを漏らすように笑う。でも違うぞチサト。オレはルーシーに、その……興奮していたんだ。断じてお前にじゃない。

 寝息。

 ルーシーが、眠りに落ちていた。

 あの寒い中、あんな格好で、さぞかし体力を消耗していたに違いない。

「ねえねえ、カガミ」

「話しかけるな。もう寝るぞ」

 そうして、明朝の朝御飯のことを考えていた。もっと美味しいものを食べさせてあげたい。寝顔を見つめていると、幸せになる。

「ねえねえこっち向いてよ」

 チサトが背中に張り付いている。

 と、ルーシーが寝返りを打った。

 その、長い腕がオレの頭を掴んだ。そして、抱き寄せられた。

「な……」チサトがうめく。

 まだオレ、寝てないよな? ここは夢の中じゃないよな?

 唇と唇が、触れ合いそうになる程の距離。ルーシーとオレが密着して、ルーシーの柔らかな体がオレの意識を朦朧とさせ。ああ、これはまずい! 何がって……もうおかしくなるぐらいやばいッ! 

 オレは寝返りを打った。

「おかえり」

 今度はチサトだ。

 違うんだ。お前を選んだ訳じゃないんだ。

 でもそれを言葉にするのは、何だかはばかられた。

 理由は色々あるけど、一番怖いのは、ここにルーシーを連れてきたことを、親に告げ口されてしまうこと。オレも人のことは言えない。チサトになるべく刺激を与えないようにしないと。

 打算的な、ずるい人間になってしまった。でも。

「いて」

 女子にするチョップは、加減が難しい。

「キスは駄目だ」チサトはTVドラマに感化されすぎ。

「カガミは、キスしたことあるの?」

「秘密だ」

「まああるわけないけどねえ」

 そうして、ここで答えるべき台詞を、必死で考えていた。ルーシーの無事へと至る答えは。

『お前とするつもりだ。……そのうちな』ねえな。満足はさせられるだろうが、心が耐えられそうもない。突然何をされるか、たまったものではない。

『ルーシーと』ない。

『ある』……面倒なことになりそうだ。

『ない』無難だが……それはそれで兄としての尊厳が。「じゃあ、チサトと!」って展開が怖い。

『そもそもなんでお前に言わないといけないんだよ』冷たすぎるかな。明日からの兄妹関係に悪影響必至。

「もう寝ろよ」

「明日からお休みだし」

「そんなにくっつくなよ」

「カガミニウム補給~」

 オレの体から新元素が発見されるとは。めでたい。よもやお前がノーベル物理学賞を受賞するとは思わなかったよ。

「カガミニウムは水素結合しやすい」

 なぜならHなことが大好きだから、ってやかましいわ!

 参った。オレもチサトのことを笑えない。


 背中に、何かの感触があった。掴むような、撫でるような。

 オレは微睡まどろみ、また浅い眠りに引きずり込まれた。

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