第60話 囮

「ワシが囮になる。奴は雨の日にしか動かん。予報では明日は一日雨じゃ。朝9時、笠井町駅で車を拾い、笠井町海浜公園に向かう。奴の気を引くために、いささか目立ったことをするが、何があっても手を出すな。すべて終わったら、こちらから連絡する。ただ、後ろだけ見張っていてくれればいい。ワシの背中と、奴の背中の両方だ」


 下駄の男からの連絡はいつも一方的で、しかも後藤から連絡を取る場合は条件が限定される。常に上をいかれているようで後藤はどうにも不愉快だったが、不快ではなかった。警察という組織の中においては、常に上から出されるものは不快なものであったが、下駄の男には傲慢さはあっても理不尽さはなかった。


「まったく、食えない爺だよ。あの男は」

 後藤は下駄の男に人間的な魅力を少なからず認めていた。後藤が使命感を持ってこの町、笠井町で刑事をやっているのと同様に、あの食えない男も、後藤にはわからない使命感を持っている。一般市民にとってマル暴の刑事が何をやっているのかわからないのと似ていると思った。


「あんな超法規的な存在って、映画やテレビの世界だけかと思っていましたけどね。驚きです」

 鳴門刑事は、もともとまじめを絵にかいたような男であったが、このところ自分のテリトリー外の出来事について関心を持ち恥じえているようだった。


「まったくだ。だがな、鳴門。俺たちは俺たちの仕事をするだけだ。あの男が『手を出すな』といっているのは、そういうことだ」


 法によって裁けない悪は存在する


 後藤はそのことをよく知っている。しかし、自分が持っている力が一般市民のそれとは威力が違う暴力である以上、それを律するために法を守ることは何よりも遵守しなければならないことだと理解していた。もちろん、理性と感情は時として相反する。そのような時には自分に課した掟に従う。


 自分の時、自分の場所でないときは、理性に従い、そうでないときは己に従う


 鳴門刑事ははたしてどうなのか。後藤の中に漠然とした不安があった。法によって裁けない悪は存在し、法の代わりに裁く方法――外法があるとするのであれば、それを使わない手はない。そう考え始めているのではないかと。


 正義を信じるあまりに法を軽んじるようなことがあってはならない。それは悪を恐れて法を犯すことにも劣る外道である。


「尾上弥太郎は狩野紫明の背中もケアしろといっていましたね。あれって、どういうことでしょうね」

「ああ、おそらくその狩野紫明ってやつも、組織の歯車か、あるいは単なる雇われでしかないということだろう」

「じゃぁ、その雇い主が、口封じをするってことですか?」

「おそらくそんなところだろう。まったく、食えない爺だ」

「どういうことです?」

「つまりだ。口封じという法を犯すような手段に出たところを俺たちに抑えさせようっていう魂胆さ。狩野紫明の背後にいる奴らのしっぽをつかめってことさ」

「今日は……、嵐になりそうですね」


 尾上弥太郎を載せたタクシーは、ほどなくして笠井町海浜公園についた。

 雨は小ぶりだが、傘なしではいられない。何よりも今日の気温は異常に低く、体を濡らすとあっという間に体温を奪われてしまう。

「いつもより人通りが少ないですね」

「ああ、夏休み期間とはいえ、平日でこんな天気だ。まして変死体が発見されたあととなっては、こんなものだろうな」


 下駄の男は、大きなこうもり傘を差し、公園の正門に向かった。後藤は車を降り、下駄の男の尾行を続けた。その間、鳴門刑事は車を駐車場に回した。分厚い雲が空を覆い、酷く天井の低い部屋に押し込まれたようで息苦しい。笠井町は住宅密集地で、高層マンションの隙間からわずかな空しか見えないが、ここは本来もっと開放的な場所であるはずなのに、すべてがどんよりしていた。


「これで何も起きなけりゃ、肩透かしもいいところだが……」

 後藤の感は、そうならないことを告げていた。

「鳴門のやつ、無茶をしなければいいんだが」

 下駄の男は公園内にある食堂の中に入っていた。ちょうどそこに鳴門刑事が現れた。

「車、おいてきました。尾上弥太郎はあの中ですか?」

「ああ、この公園に来る手段は、電車、バス、タクシーだが電車やバスのような公共機関はまず使わないと考えていいだろう。タクシーか車かだ。車の場合、自分で運転して駐車場に車を止めるというパターンは、考えづらい。誰かに乗せてきてもらうか、或いは歩いてくるか」

「バイクや自転車の可能性は低いですかね。こんな天気ですし」

「奴が雨の日にしか外で行動しないというのは、監視カメラを気にしてのことだと思う。奴に協力者がいれば公園の目立たないところで奴を降ろして、別の場所で待機というのが筋だろうな」

「とても二人じゃ公園の周囲を見張ることは不可能ですね」

「おそらく下駄の男が人前にいるときには何もしてこないだろう」


 そこに下駄の男からメッセージが入ってきた。鳴門刑事が声を出して読む。


「わしは昼過ぎまでここにいるから、公園の周りでも散歩してきてくれ――ですって、これってつまりあれですか」

「あのクソ爺、俺たちをいいように使いやがって!」

 後藤自身、最初からそうつもりだったが、それを先に言われて気分がいいものではない。

「長くなりそうですね。今日は」

「ああ、そうだな」


 後藤は公園入り口近くで人の出入りを監視し、鳴門刑事は車に戻り、公園周辺を流しながら不審な車がいないかチェックすることにした。笠井町海浜公園の開園面積は約81万平方メートルあり、都内でも5本の指に入る大きさだ。東京湾に面した海浜エリアとそれらを見渡すことができる展望エリア、週末の天気のいいに日に家族連れや若者でにぎわう芝生エリアのほかに有料施設として水族館や展望タワー、バーベキューエリアなどがある。


 坂口由紀子の変死体が発見されたのは、水族館エリアの奥に位置する野鳥園エリアで、面積に対して最も人通りが少ない。点在する野鳥を観察するための観測施設を結ぶ道は、木々に覆われ決して視界がいいとは言えないし、ところどころに野鳥園に入る『けもの道』のようなものがある。これは園内の清掃や管理に使われるもので、一般の人の立ち入りは禁じられている。


 おそらくはそのあたりで何かが起きるのだと後藤は睨んでいるが、人通りが少ない分、そのエリアで待ち構えるのはあまりにも目立ちすぎる。

「問題はカリノシメイが誰とつるんでいるかだ。奴だけを見つけたところで、所詮トカゲのしっぽということもあるからなぁ」

 後藤の何気ない独り言に言葉を返す者がいた。


「トカゲのしっぽというのは、どうかしらね」

 聞き覚えのある声が、雨音をすり抜けて後藤の耳に入った。

「あなたは……、この前、エメラルドバーでお会いした」

「お仕事中かしらね。お邪魔して悪かったかしら」

「まぁ、仕事中には違いないのですが、別に構いませんよ」

 それにしてもと後藤は思った。これほど近くにいるのに彼女の気配に気づかなかった。いや、正確には今こうして目の前にいるにも関わらずあまりにも存在が希薄なのである。


「トカゲの自切(じせつ)というのは、切られたしっぽが動き回って相手の注意を引いているうちに、自らが逃げ出すという脱出手段、いわゆる生き残るための非常手段よ。失礼、つい耳にはいってしまったもので」


 少女はまるでフランス人形のような、透き通った白い肌をしていたが、髪の毛は少し重たく感じるくらいに黒々としていた。目はパッチリとしているが、瞳はどことなく日本人のそれとは違うような、色素の薄い色をしていた。その少女の言葉は決して力強くも大きくもない。雨音や近くを通る車の音にかき消されても不思議はないような小さく、そして細い声であるが、後藤の耳にははっきりと聞き取れた。


「確かに、トカゲはそうですが、この場合は人間ですから、トカゲとは違います。今日はおひとりでここへ?」

 その質問にどれだけ意味のある答えが返ってくるのか、それほど期待はしていなかったが、少女は静かに答えた。

「ひとり。そうね。ここに来たのは一人で来たけれども、ずっと一人でいるつもりはないのだけれど……、でも、帰るときはやはりひとりね」

「デートをするにはあいにくの天気ですね」

「水族館は関係ないわ」

「確かに」

「お邪魔しましたわ」

「いえ、こちらこそ、またお会いできて光栄です」

「ごきげんよう」


 少女は公園の中に入っていった。

 後藤はしばらく、その儚げな後姿を眺めていた。


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