第51話 屠る魂2

 激しく地面を打ちつけていた雨は勢いを弱めた。


 笠井町海浜公園にある野鳥観察用に管理された小さな池の周辺。そこには普段でも死角になっているポイントがいくつかある。しかし、単に死角というだけではなく、術の使い手によって巧みにその存在を隠蔽された場所に、一人の男が分け入った。

 自称拝み屋という下駄の男は、結界を破り、そこに隠された女の遺体を前にして儀式を始めた。


 それは古から伝わる外法である。


 死者の魂を呼び寄せ、その言葉を聞く。それは死者の魂を汚すだけではなく、己の身も危険にさらす行為であるとも言われている。いかし、下駄の男は怯まない。


 なぜなら、これから相手をしなければならない術者とは、まさにその外法の使い手であり、対決は避けられないと覚悟を決めたからである。下駄の男は死者の魂に向かい合い、耳を傾けた。


「浩子姉さんがあの男と出会ったのは、8年前。姉さんが週に一度、知人の紹介で勤めていたバーで、たまたまついた客が権田だった。権田は姉さんのことをひどく気に入ったようで、毎週決まった時間にお店に来ていたようよ。自分の身の上話を親身に聞いてくれる、いいお客さんだと、最初は思っていたみたい」


 下駄の男の前には朽ち果てた女の遺体が横たわっている。そのすぐ前に香を焚きあげている。反魂香――その煙の中に人の姿が浮かび上がる。ゆらゆらと揺れながら、天に向かって消えていく。消えてはまた現れ、現れては消えていく。


「もし、もっと稼ぎがいい仕事がしたいなら、紹介してあげるよ。何、心配はいらない。この店にも迷惑がかからないような時間帯で構わないから」

 その言葉は、女のそれではなく、権田という男の声のようだった。


「権田は言葉巧みに姉さんを誘い、お店が終わった後、車で10分くらい離れた店に連れて行ったそうよ。そこは一見普通のバーで、客の数の割にお店の女の子が多い店だとしか思わなかったみたい。でもね。それは普通のバーじゃなかったのよ」

 それまで淡々と語っていた由紀子の口調は、そこから怒気を含んだ激しいものに変化していった。


「権田は、あの男は、薬をつかって姉さんを眠らせ、そのまま別の部屋に連れ出して、客に抱かせたのよ。あの男は姉さんをめちゃくちゃにした!」

 声だけではない。人型のそれは、女でありながら、まさに悪鬼がごとき表情に変わり、姿もまた人ではない魔物と化していく。


「そこから先は想像がつく……。で、どうして姉君が命を落とされるようなことになられたのかのぉ」

 下駄の男は、ゆっくりとした口調で静かに語りかけた。すると由紀子の姿は人の姿に戻っていった。それはひどく憔悴しきった少女の姿であった。


「ずっとわからなかった。姉さんは何も語ってくれない。警察も誰も姉さんのことを探してはくれなかった。もうどうしていいのかわからなかった……」

 すすり泣くような声で語る由紀子の姿は、やがてまたあの悪魔のような表情に変わっていった。


「でも、わかったの。権田という男が何か関係があるかもしれないって、警察の人が教えてくれた。それで私、あの男に近づいたの。赤の他人を装って……そしたらついに、あの男、あの男……私を抱いた後についに白状したのよ。昔、坂口浩子という女を手籠めにしたと。そして……」

 人型だったそれは、大きな顔だけの姿に変わった。もはやそれは人の表情ではなかった。


「もう姉さんはこの世にはいないと、だけどあれは事故で、殺すつもりはなかったと……殺すつもりはなかった、だなんて……あの男は笑いながら……ぐぐぐぐぐぐぐぐぐ……殺してやる! あの男! 殺してやる」

 下駄の男は、顔色一つ変えず、しかしその眼は悲しみと、怒りと、哀れみの混ざった、それでいて凛として揺るぎも淀みも曇りもない、万物を映し出す湖面のように荒ぶる魂のありのままを見つめていた。


「ゆえに、己の身を依代にして強き怨念をあの男にぶつけたわけか……肉体を傷つけ、魂を汚し、瘴気を集め、怨念を練り上げたかよ」

 下駄の男は鋭い眼光を光らせ、由紀子の魂を睨みつけた。


「お主に問う。復讐を成し遂げた今、姉の声は聞こえるか。いかに?」

 由紀子の魂は、身もだえ、のた打ち回り、這いずり、うめいた。


 ぐぅぅぅぅぅぅう……、ぐうぉぉぉぉん……


「お主に問う。姉の顔を思い出せるか。いかに?」

 由紀子の魂は、はじけ飛び、崩れ、爛れた。


 ぬうぉぉぉぉん……、ぬぅわぁぁぁん……


「お主に問う。どうやってこの呪法を会得した。いかに?」

 そう、問いた瞬間、下駄のとこは懐から一枚の紙を取り出し、焚きあげた香に放り込んだ。その紙には『真』という文字が力強く書き記されていた。そして再び、同じ問答を繰り返す。


「お主に問う。どうやってこの呪法を会得した。いかに?」

 すると『真』と書かれた紙がオレンジ色に燃え上がる。『真』の文字だけが黒くシミのように残る。いま、由紀子の魂は『真』の文字に縛られた。


「知ラヌ、知ラヌ、私ハ、何モ知ラナイ……、グゥ……、グゥ……」


「お主に問う。お主はお主の名を覚えているか。いかに?」

「私ハ、ユキコ。坂口由紀子」

「お主に問う。どうやってこの呪法を会得した。いかに?」

「恐ろしい。怖いの……あの男は……」

 香の中に再び由紀子の姿が現れる。由紀子は静かに語りだした。由紀子に呪法を教えた人物のことを……。




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