第52話 屠る魂3

「その男は名を名乗ったか?」

「名乗ったわ。でも、それがその男の名であるかどうかはわからないわ」

「して、なんと名乗ったか」

「カリノ……カリノ、シメイ」

「ふん! 人を小ばかにしおって!」


 下駄の男、尾上弥太郎は、そうはき捨てたが、もしも後藤が聞いたら鼻で笑ったことだろう。『真』と書かれた紙は激しく燃え上がり、灰となった。


「その男、いかにして知り合ったのか?」

「知ラヌ、知ラヌ、私ハ、何モ知ラナイ……、グゥ……、グゥ……」

「用心深い男よ。よほど強い呪詛で縛っておるなぁ。この分では、あとひとつ、ふたつというところかよ」

「恐ろしい。怖いの……あの男は……」

「恐怖によって縛ったか。いや、それだけではないな。お主、その男とも寝たな」


 下駄の男は、低く、恫喝するような声で言い放った。

「やさしいの。美しいの……あの人は……」

「この近くだな。おそらくそれほど遠くない。いかに?」

「いつも見られている……怖い。でもうれしいの」

「ヤツの精を身に受けて力を得たかよ」

「そう。私の中にはあの人がいる。だから恐れることは何もなかった。言われたとおりに身を刻み、髪を切り、そこに血を滴らせ、あの男を呪ったわ」

「血と髪の毛、姉の埋められた土はすなわち墓の土、姉の血肉を食らった蟲を呼び寄せ、それに取り付かれた蝉を操ったか。なんともおぞましいことよ。一度解き放たれた魔は、関係のない人を襲うこともあるというのに」


「あの人は私たち姉妹の復習を手伝ってくれただけよ。後始末もしてくれた」

「まったく恐ろしい男よ。蟲を使って人を呪い殺し、その痕跡は鳥を使って消し去りおったわけか」

「いいの。これですべて終わった。私の姉さんは一緒になれた……。ともに地獄に落ちようとも」

「己の魂だけではなく、姉の魂まで貶めて、何が復習か!」

「あの男は、この世にいてはならない存在よ!」

「わしはお主らを救うことはできなんだ。しかし、あの男をこのままにすることはできぬ。恐らくはお主ら姉妹を利用して、権田を始末したのだろう。これほどの術の使い手よ。情や情けで動くまい」


「そんなことわかっているわ。でも警察は動いてくれなかった。誰も私たちを助けてくれなかった」

「仏はすがられてこそ仏、人を呪い殺すために使われれば悪魔になる。神も悪魔も人間次第よ。外法に手を染めてしまうまで、お主らを追い込んだ世を恨むなとは言わん。権藤は死んだ。しかし、それで何かが変わるわけではない」

「何も変わらない……」

「そうじゃ。そこで相談じゃ。わしに手を貸しては、くれんかの。カリノ、シメイ。危険な男じゃ」

「やさしい人よ。それに……」


 由紀子の姿をしたそれは、いよいよ存在が危うくなってきた。

「あの人もお姉さんを……」

「姉さん?」

「寂しい人、悲しい人、そして恐ろしい人よ……」

「限界かよ……、ヤツとはどこで会った?」

「雨の降る日、大きな傘……」

「傘じゃと……」

「あの人と会うのは雨の日だけ……」


 由紀子の姿をしたそれは、ついに姿を消した。同時に雨が止む。天に向かって一筋の煙が立ち上っていく。

「人はよって立つものを奪われたときに、はたして人ではいられなくなるのか」


 下駄の男は後始末をして、その場から立ち去った。

 次の朝、由紀子の遺体が発見されるまでの間、由紀子の遺体に近づいた人物がほかにいることを、このときはまだ誰も知らない。


 月明かりのなか、由紀子の亡骸の横に人影がある。

「どうやら遅かったようね」

 それは女の姿、少女のようでもあり、大人の女のようでもある。

 彼女はまるでフランス人形のように透き通った白い肌をしていたが、髪の毛は少し重たく感じるくらいに黒々としていた。目はパッチリとしているが、瞳はどことなく日本人のそれとは違うような、色素の薄い色をしていた。深夜の公園にあっては、およそ人とは思えないような恐ろしく異質な、それでいて儚げな存在である。

 人であるのか、或いはそうでないのか――


「どうやら私と同じような法を使うものがいるようね。私が追う者もそうだけど、ほかにもう一人いるようね」

 由紀子の亡骸を恐れるでもなく、憐れむのでもなく、静かに見つめるその表情には、冷酷さを感じなくもない。いや、むしろ死者にとっては太陽のごとき生命力にあふれた光よりも、月明かりが優しいのと同じように、死者のありようにもっとも近しい体温で、見つめていると言い換えるべきか。それほど、彼女の存在は浮世を離れている。


「もうあなたの声を聞くことはできないみたい。静かに眠りなさいな。もう、私にできることはないわ」

 人の言葉でありながら、それは風のさえずり、虫の音、星の瞬きのような存在。


 人であって人ではない。


 言葉であって言葉ではない。


 それは月明かりに照らされた場所でしか見ることができないような人知を超えた存在。


「でも、わかったわ。どうやら、この町で間違いないわね。笠井町に私の探している男がいる。符術を使い、外法を行う者」

 女の手には、紙の燃えカスがいくつか握られていた。


「今夜の月の灯りはあなたには眩しすぎるくらいかしらね。あなたの魂を弄んだ者に、私をめぐり合わせてちょうだいな」

 由紀子の躯は、何も答えない。沈黙こそが答えであるかのように、何も答えない。

「月の導きのままに……」

 何かのまじないとも、別れの挨拶とも知れぬ言葉を残して、女は夜の闇の中に消えて行った。


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