第41話 反魂香

 下駄の男は念仏を唱えていた。死者の魂を弔いながら、己の気を静め、さらに集中力を高めていく。ただ弔うということでもなさそうである。一呼吸おいて懐から再び文字の書いてある紙を取り出した。下駄の男が信頼する書画家が書いたその『書』は特殊な能力を持っている。いや、『書』そのものはあくまでも『書』である。それが呪詛として機能する仕組みについてはその『書』を書いている当の本人――田中太山の知るところではない。


「さて、あまり気の進まんやり方じゃが、これも致し方あるまい。ちと、話を聞かせてもらおうか。若い男じゃなくて申し訳ないのじゃが、年寄りも年寄りで話し相手としては悪くないと思うがのぉ」

 下駄の男はまるでそこに誰かがいるかのように話しかけた。確かに誰かはいる。それを普通は『いる』とは言わず、『ある』と人は言うのだろう。そこには一人の女の遺体が横たわっていた。そこにあるのは状態であり、存在ではない。遺体はそこに居続けるのではなく、ただ『ある』だけなのである。下駄の男は、周りを見渡し、適当な木の枝や葦を集めて遺体のすぐ横に小さな焚火の準備をした。

「たいしゃんの仕事がどれほどのものなのか。これで真価が問われるというわけじゃが……」

 下駄の男が取り出した2枚の紙――そこには文字が書かれている。いや正確に言えば文字が描かれている。田中太山の書とは書であって書にとどまらず、絵であって絵にとどまらない『書画』なのである。一枚には『反』という文字が描かれている。もう一枚は『魂』である。下駄の男は自分の傘を遺体のそばに置き、焚火に雨の降りかからないようにした。そこに二枚の書画を『魂』『反』の順に重ねて置くと、さらに懐から小さな小瓶のようなものを取り出しその中身を重ねて置いた書画の上にお灸のようにもりあげ、そこに火をつけた。緩やかに煙が立ち上る。それは何とも言えない甘味な香りがする煙であった。


「このようなものを使うことになるとはよ。死者の魂への冒涜以外の何物でもないのじゃが……」

 ゆらゆらと立ち上る煙は傘の内側を這い、雨空のなかに消えていく。下駄の男はそれを眺めながら口元を静かに動かす。聞き取れないその言葉は、たとえ聞き取れたとしても、どんなことを言っているのかわからない。日本語ではないようである。しばらくすると煙の動きに変化が現れた。それまで傘の内側を這って空へ逃げて行った煙が傘の中でぐるぐるとまわりだしたのである。白く淀んだ煙はやがて何かの形をかたどり始める。下駄の男の口元がさらに激しく動く。


「来たかよ」

 不意に下駄の男が呟いた。白い煙は人の姿となり、さらに男女の区別がつくほどにはっきりとした輪郭を持ち始める。白い着物を着た女が現れた。身の丈は30センチに満たないほどの大きさである。それはまさしく、すぐそばに横たわっている遺体の生前の姿であった。


「お主に問う。我が声が聞こえるか。いかに?」

 白い着物の女は小さく頷く。

「お主に問う。我が姿は見えるか。いかに?」

 白い着物の女はまた小さく頷く。

「さらにお主に問う。声は出せるか。いかに?」

 白い着物の女は沈黙を保つ。

「ならば問う。お主はお主の名を覚えておるか。いかに?」

 白い着物の女の姿が一瞬揺らぎ、再びただの煙に戻ってしまった。下駄の男は再び呪文のようなものを口ずさみ始める。やがてまた、白く淀んだ煙は白い着物の女の姿に戻った。

「いかに?」

 下駄の男は同じ質問を最初から繰り返した。また同じところで女の姿は消えてしまった。それを3回ほど繰り返したとき、ついに変化が現れる。


「さらにお主に問う。声は出せるか。いかに?」

「はい」

「ならば問う。お主はお主の名を覚えておるか。いかに?」

「私は……私はユキコ……サカグチ ユキコ」

「坂口由紀子。そなたはなぜここにいる」

「私は……なぜ……お姉さんが……ヒロコ姉さんが……」

「姉とはなんだ。お主にとってどんな存在だ」

「ヒロコ姉さんはいつも私を守ってくれた。親の代わりに私を育ててくれた。一番大事な人。それなのに……」

 その場の空気が一気に変わる。それまで物静かな立ち振る舞いをしていた白い着物の女――坂口由紀子の姿はたちまちに悪鬼のごとく姿に変貌した。


「あの男だけは絶対に許さない。あの男――ゴンダ! 権田 聡! あの男は私からすべてを奪った。私から……私から! 姉さんも! すべてあいつが!」

「お主の恨み、聞かせてもらおう」

 白い着物の女――坂口由紀子は語りだした。それは7年前までさかのぼる話であった。






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