第40話 わき道

 雨である。夏の雨は強く、激しい。地面にたたきつけられた雨粒の音が一段と大きく聞こえる。日中でもこれだけの雨が朝から降り続けば、真夏の公園でも人気はなくなる。ましてやここ、笠井町海浜公園は、町なかの公園ではなく、ちょっとした観光スポットであり、雨の日にわざわざ足を運ぶ人は少ない。下駄の男は昨晩に引き続き、再びこの場所に姿を現したのは昼の2時をまわってからである。


 下駄の男は、ここに来る前にある人物とあっていた。書画家 田中太山とは旧知の中であった。若くしてその実力を高く評価され、海外でも活躍する書画家。それは表向きの看板である。今でこそ、表向きの仕事が本業となっているが、下駄の男のような拝み屋からの仕事を受けること――すなわち『護符』や『符呪』を用いて術を使う者に『書』を提供することである。


「まったく、相変わらずいい仕事をしおるわい」

 下駄の男は作務衣の懐から一枚の紙を取り出した。朱色で『破』と書かれたそれは、ショッピングモールに展示してあるそれとは、明らかに質感の違うものであった。『破』その文字からは強烈な念のようなものが発せられ、それは力であり、迷いなき一点への強打、是も非もなく一蹴する勢い、未練を断ちすべてを無に還す無情の鉄槌である。


「しかし、どこまでこれでいけるかじゃが……」

 公園の入り口で、大きく深呼吸をし、右手に傘、左手に『破』と書いた紙を持ち、野鳥園へ向かって歩き始める。大粒の雨が下駄の男の黒い傘を直撃し、大きな音を立てる。下駄の男はしきりに口元を動かしている。どうやら何か呪文のようなものを唱えているようだが、激しい雨音がそれを掻き消す。歩き始めて1分もたたないうちに下駄の男は歩みを止める。


「ほう。こんなところから仕掛けてあるかよ。念入りな……抜け目のない奴じゃ」

 下駄の男の左手に握られた『破』という文字が書かれた紙から熱気が上がる。朱色で書かれた文字がまるで本当に赤く燃えているかのように光りだす。すると下駄の男の前にある背の高い樹木の上から紙のようなものがヒラヒラと落ちてきた。一般に御札と言われるような形状をした長方形の紙になにやら墨で文字が書かれている。一見漢字のように見えるが、少し違うようである。

「梵字かよ」

 下駄の男にはそこに書いてあるものが何であるかすぐにわかったようである。

「見事な結界じゃ。用心深いのぉ。しかし挑戦的な筆の勢い。まだ若いようじゃが……」


 下駄の男が数メートル歩くたびに梵字が記された符が落ちてくる。下駄の男は周囲を警戒しながら次々と結界を破っていった。7枚目の符が下駄の男の足元に落ちてきたとき、以前着たときには見えなかったわき道を見つけることに成功した。

「ここかよ。しかし――」

 下駄の男はすぐにその道に入ろうとせず、そのままそこを通り過ぎ、以前に来たときと同じ道を進んだ。野鳥を観察するために立てられたウォッチングセンターまで、たどり着くと、来た道を戻り始めた。先ほど見つけ出したわき道に差し掛かったそのときである。

「ちぃ! こっちもか!」

 下駄の男の左手に握られた『破』という文字が書かれた紙が黒焦げになって萌え落ちた。


「入り口を隠し、出口を隠すか。面倒じゃわい」

 どうやら結界は二重に張られていたようである。まず、隠したいものを隠す結界。そしてその場所が見つけられた場合に、見つけた人間を簡単にそこから出さないための結界である。もしもそのことに気づかずに、ひとたび結界の中に足を踏み入れたのなら、帰り道を見失いかねない。


「破れないとは思わないが、面倒はなるべく避けたいのぉ。たいしゃんがこっちに来ていてよかったわい。こんなもの一々相手にしていたら日が暮れてしまうわい。ふむ。これはもう使い物にならんか。やはり余分に書いてもらってよかったわい」

 下駄の男が九字を切る。

「臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前」

 それから懐から『破』と書いた紙をもう一枚取り出した。再び『破』と言う文字が真っ赤に光りだす。

「さて、何がでてくるやら……まったく楽しませてくれるわい」

 下駄の男は、わき道に分け入った。雨がまた一段と強く降り出す。


「カァア! カァア!」

 一羽の大きな黒いカラスがどこからともなく飛んできた。カラスは公園の街灯の上に止まった。下駄の男の様子を窺っているようである。カラスの目は真っ黒で昼間だというのに漆黒の闇を写しているかのようである。その瞳の奥――ずっとずっと奥にさらにもうひとつの目が下駄の男の後姿を見つめている。


「アレが噂に聞く下駄の男か。面白いなぁ。私の結界をこうもやすやすと破るとはね」

 ひどく青白い顔をした男は、カラスの目を通して、下駄の男の様子を窺っていた。

「まぁ、今となってはあの結界を破られたところで、どうということはない。事が済む前に誰かに見つかったら面倒だと思い、念のために放っておいた式鬼(しき)が役に立つとはなぁ」


 式鬼――陰陽師が使役する鬼神。式神(しきがみ)ともいう。カラスの姿をしたそれは、カラスであってカラスではない。カラスの入れ物の中にひどく青白い顔をした男――狩野紫明の目を入れたものである。もちろんこの男の目は、青白い顔の一部であり、取り外したりすることは出来ない。狩野紫明はいかにして、カラスの目を自分の目として使っているのか。常人のなすところではない。しかし下駄の男もこの男同様常人ではない。


「ふん。式鬼かよ。どこまでも抜け目のない奴じゃ。嫌いなタイプじゃな。できることなら関わりたくもないが……」

 下駄の男は背後に視線を感じながらもあえてそれを無視したのである。下駄の男には二つの目的があった。一つは不幸な姉妹の魂を弔うためであり、もう一つはその魂を汚したもの正体を暴くことであった。下駄の男は確信していた。この抜け目のない呪詛を使う人間は、自分の存在を知ったとき、どのような行動をとるのかを。


「まったく鼻持ちならぬやつよ。自らの力を誇示し、いたずらに人の魂を汚す。外道のすることじゃが……それだけに手ごわいか」

 下駄の男はあえて誰かに語って聞かせるように言葉をつづけた。

「何事にも道というものがある。かたぎにはかたぎの、刑事(でか)には刑事の、盗人には盗人の、極道には極道の道があり、その道を行くものにはその道の流儀がある。もちろん陰陽道、拝み屋には拝み屋の流儀というものがある。しかし道があればまた、道を外れる者もいる。人はそれを外道といい、その流儀を外法という」

 下駄の男は、公園のわき道に分け入り、注意深くあたりを見回した。草むらの中、獣道のような道なき道を進む。激しい雨が視界を狭くする。とても東京の街中とは思えないような茂みの中についに下駄の男は何かを見つけた。


「むごいことじゃ。人の業の深さ故なのか、或いは……」

 それは一人の女性の遺体であった。土や枯草ですっかり汚れてしまった白い着物。いや、それは土ではなく彼女自身の血である。長い髪は乱れ草木に絡みつく。無数の傷跡がある。それは何かについばまれたような跡。鳥や獣により傷跡なのか。しかしそれだけではない。鋭利な刃物によって体中に浅い傷跡――血だまりがある。全身を自ら傷つけ、血を流しながら死んでいったのだろうか。まだ昼過ぎだというのに夜になったかと思うほどに空は厚い雲に覆われていた。


「坂口由紀子か? 少し話を聞かせてもらわねばならん。まったく不愉快なことじゃ。このようなやり方は、わしは好かんのじゃが、致し方あるまい。その前に……」

 下駄の男は地面にしゃがみ石ころを一つ拾い上げた。その石を『破』という文字が書いてある紙で包み込んだ。

「これ以上、無粋なことはさせん!」

 いきなり傘を放り出し、振り向きざまに紙で包んだ石を投げつけた。


 カァア!


 石はカラスに命中したのか。カラスは地面に落ちる。

「クゥッ! 気づいていたのか! 食えない男だ!」

 狩野紫明はひどく青白い顔をひきつらせ、激しく吠えた。

「まぁ、いい。私の邪魔をするものは排除せねばなるまい。下駄の男……・どれほどのものか、楽しませてもらう」


 下駄の男は、傘を拾い、カラスの落ちたカラスのもとに歩み寄る。するとそこには一羽のカラスが黒い布が落ちているかのように横たわっていた。息はないようである。

「このやり口。まさに外道よ」

 カラスの目はくりぬかれており、そこにガラスの玉が埋め込まれていた。カラスの足には紙がくくり付けてある。梵字で何か書いてある。

「いかんな。少し頭を冷やさねば……」

 下駄の男は禿げ上がった頭を雨に晒し、しばし天を見上げた。

「こいつは、相当な覚悟を持って臨まねばならんようじゃな。目には目を、歯には歯を、外法には……」


 雨はやむ気配がなかった。


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