第6章 外法

1 呪詛

第35話 夏の虫

 8月。少しばかり遅く泣き始めた蝉の鳴き声は、普段の夏よりもけたたましく聞こえた。その声を忌々しく思う者――江戸川南警察署の組織犯罪対策部に勤務する後藤刑事は、数日前の事件の記憶と蝉の鳴き声が当分はセットで思い起こされることになることがどうにも腹立たしかった。


「昔から蝉は好きじゃなかったが、今回の件で本当に嫌いになった」

「後藤さん、あの後の非番の日、虫取りに行ったんですって? あれは災難ですね」

「ふん! 俺だって子供のころは虫を取って遊んでいたさ。しかし、どういうわけだか大人になると、虫のあの感じは好きになれないな。鳴門はどうだった?」

 鳴門刑事は28歳の新人刑事である。笠井町周辺を担当エリアとする江戸川南警察署に配属になったのは昨年の9月である。主に暴力団などの組織犯罪を取り締まる刑事として後藤の下についている。もうじき一年になろうとしている。

「僕は夏休みの宿題に昆虫の標本を作って賞をとったことがあります」

「なんだよ。エリートはそういうところから違うんだな。俺なんか夏休みの宿題をまともにやった覚えがない」

「えー、でも、それじゃあ先生に怒られたでしょう?」

「そうだなぁ。あのころの俺は人気者だったからなぁ。宿題を手伝ってくれといったら、どうぞ私が代わりにやりますからって、俺の代わりにやってくれた奴がいたっけなぁ」

「そ、それって自慢ですか? もしや脅したんじゃ……」

「なんだよそれ。人聞きの悪い。そういえば、お前さんによく似たまじめなやつだったなぁ」

「なんか、それ。あまり笑えませんね」

「そうかぁ? 笑えよ」

「笑えませんよ。結局この前の事件の報告書だって――」

「だから言っただろう。俺は今、虫の話はしたくないんだよ」

「はいはい。わかりましたよ。それにしても……例の死体ですが」

「そうだな。とりあえず動きを待つしかないだろう」

「動き……あの下駄の老人のですか?」

「そうだ。あの野郎、心当たりがあるとぬかしやがった」


 この数日前。後藤と鳴門刑事の目の前で一人の男が事故死をした。アパートの2階から階段を転げ落ち、首の骨を折って死んだのである。男の名は権田聡。元暴力団員であり、現在でも何かしらの軽犯罪――恐喝や強請(ゆす)りを生業にしていたようだが、証拠をつかむことができずにこれまで野放しになっていた。しかし、この男の死はただの事故死ではなかった。7月にはまったく姿を見せなかった蝉が8月、一斉に姿を現し、こともあろうに権田住むアパートに大量に集まったのである。後藤はその蝉の大群に襲われ誤って階段の足を踏み外して事故に至ったのである。


「傘、蝉といったいこの町はどうなってるんですかね」

「一つ言えることは、この二つの事件によって、少しばかりだがゴミ掃除ができたということにはなる」

「でも、後藤さん。それって」

「ああ、そうだ。気に入らないね。まったくもって不愉快だ。こんな不愉快なことはない」


 『傘』というのはさらに数か月前、やはりこの笠井町で起きた暴力団員やその関係者の連続事故死である。後藤と鳴門刑事はその事件を追う中で一人の怪人物と知り合う。その者こそ鳴門刑事の言う下駄の老人、下駄の男――尾上弥太郎なのである。


「下駄の男を信用しないわけではない。しかし、あの男は俺たちに何か大きなことを隠している気がする」

 後藤は、たたき上げの刑事である。後藤は理屈や常識よりも経験やそこからくる勘に重きを置いている。そして既成概念にとらわれず、ありのままに状況を受け止めることができる。事件の捜査において思い込みや下手な理論や常識はかえって邪魔になることが多い。その意味で後藤は下駄の男の存在を肯定し、彼の言う呪詛や霊的なものの存在についてある程度冷静でいられる。


「あの老人と知り合ってから、妙なことばかりおきますね」

「この世の中に不思議なことなんかありはしない。不思議だと思った瞬間に思考が停止してしまう。結果と過程。この二つを結びつける線を追うこと。それが捜査の基本だ」

 後藤はそういいながらも忌々しく思っていた。現に鳴門刑事が言う『不思議』を持ってしなければ、事件の真相にはたどり着けなかったことがわかっているからである。しかもどの事件もことの核心には触れられていないという後藤の勘。それを裏付けるような下駄の男の言動。


「闇の塔――最後はそこにつながるということか」

「東京スカイツリーがオープンになるのは来年の5月でしたっけ?」

「それまでに何かしらの答えが出るのか。あるいは人知れずそれが行われ、あの男が未然に防ぐのか……まったく。なんて老人だ」

「その下駄の男が言っていた心当たり――ムクドリの後を追うでしたっけ?」

「あぁ、俺はあまり知らなかったんだが、最近は笠井町駅のまわりにムクドリが集まってるんだってなぁ」

「夜の7時から8時くらいにかけておそらく数百かそれ以上のムクドリが、駅前の木に集まるそうです」

「どこからそんなに飛んでくるんだ。こんな都会のど真ん中に」

「いや、ど真ん中といっても、ほら、荒川や江戸川沿いはそれなりに自然がありますし、大きな公園も――たぶん海浜公園あたりも生息圏ですよ」

「海浜公園って、笠井町海浜公園か?」

「そうです。ほら、あそこって、野鳥が見れるような水辺があったりするんですよ」

「ふーん。ということは、人目につかないような場所もあるってことか?」

「まぁ、そういうところもあるとは思いますが、一応公園の敷地内は管理事務所が見回りとかしてますから……とはいっても広いですけどね」

「死角がないわけではない……か」


「かつては暴走族……左螺曼蛇(サラマンダ)でしたっけ? 海浜公園でいろんな事件を起こしてましたから、その当時はうちの署もかなり警備を強化していたと聞いています。でも、今は……」

「左螺曼蛇の解体後、海浜公園の治安は回復した。まぁ、今でも痴漢や車上荒らしのような軽犯罪はあとを絶たないが、それほど目立つような数ではないしな」

「あそこに何かあるんでしょうか?」

「まぁ、可能性の一つだが、こちらもその程度で動くわけにはいかん。現にこうして日々やらなきゃならんことが山積みだ」


 後藤と鳴門刑事は机の上に山積みにされた資料を眺めた。

「しかし、ここにきてきな臭い情報が増えてきましたね」

「ここはいつの間にか最前線になっちまった。表向きは優良なベッドタウンだが、人が集まるところには必ずそれを食い物にしようという輩が現れる。犯罪とはそういうものだ」

「笠井町は、中国、韓国、インドその他各国の外国人の数が急激に増えてますしね。表向きは在日のコミュニティでも裏ではヤバい取引をしていたりしますからね」

「それに組織犯罪も形をかえ、俺たちの網にかからないようになってきている。いまではすっかり情報戦だ。こうやって毎月、奴らの情報に目を通さなきゃならん。面倒なことだ」

「この情報の出所って――」

「そういうことはできるだけ知らない方がいい。俺たちはただ、この書類に書いてある情報を頭に叩き込み、いざという時に使えるようにするだけだ」


「外法……」

 鳴門刑事はそこまで言って言葉を止めた。

「うまいこと言うな。鳴門」

 鳴門刑事は一瞬ドキッとした。明らかに後藤の機嫌を損ねたらしい。

「コーヒー入れてきましょうか?」

「ああ、なしなしで」

「わかりました。砂糖ミルクなしですね」


 後藤と鳴門刑事が書類の山に悪戦苦闘しているとき、下駄の男は彼らの考えた可能性の一つ、笠井町海浜公園に姿を現していた。新たな事件の始まりである。


 ……カラン、コロン、カラン、コロン


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