第27話 荒川の土手にて、猫と出会う
猫、猫たち――それは荒川の土手に住み着いた野良猫たちである。
僕は「川にでも飛び込むか、いや、水死体になるのは嫌だな」とか、そんなことを考えながら土手から荒川を眺めていた。
その時僕の目に映り込んでいた景色は、雲一つない秋の空の下、夏に比べれば弱弱しい太陽から降り注ぐ控えめな陽射しが、水面に反射してキラキラときれいで、その中に身を投げ入れ、ばたばたと水しぶきを上げながらしまいに川底へ、ぶくぶくと沈んでいく自分の姿だった。
「かっこわるい」
白いため息まじりにそう呟いて、どこか座る場所はないかと川岸を眺めると、ふと二匹の野良猫が目に入った。
「猫かぁ。猫はいいなぁ。生まれ変われるなら猫になりたいね。うん、猫がいい」
二匹の背格好はほぼ同じで、白がベースで黒い斑がある。いや、よく見ると一匹の猫は斑というよりは体半分が黒い。
背中はほぼ黒い毛で覆われ、正面、つまり顔の下からお腹のあたりは白なのだが、後ろから見たら黒猫と見間違えるだろう。
僕は、「猫にもいろいろあるのか?」とか「あの二匹は兄弟で、親は黒猫のオスと、白猫のメスにちがいない」とか、勝手にそんなことを想像していた。
もっと近づいてみたいと思ったけど、これ以上近づくと、猫に逃げられてしまうような気がして、結局しばらくそのまま二匹の猫を眺めていた。
二匹の猫はそれぞれ、毛繕いをしたり、顔を洗ったりしていたのだが、ある時からずっと同じ方向を注視するような状態で、動かない。
僕は二匹の猫の視線の先に何があるのかと、あたりを見回した。しかし、そこは静かな川の水面しかない。あるいは川岸に生えた草花が風にわずかに揺れているくらいのものである。
「猫にしか、見えないものでもあるのかな。いや、いるのかな」
ふと、何も居ない方向に向かって泣き叫ぶ犬や、笑いかける赤ん坊のことを思い出し、思わず身震いをした。いや、単に体が冷えただけなのか。
いや、どういうわけだか目の前の二匹の猫も同時に体を震わせた。
にゃー
僕から見て右の猫、黒い毛が多い方が最初に一声鳴いた。
にゃー
次に左の猫、白い毛が多い方が次に鳴いた。
二匹の猫の視線は遠くのものから近くのものを見る様子に変わる。
首がやや上を向き、宙の中のなにかを見つめている。
だが怯えている様子はない。
にゃー
別の方角から別の猫の鳴き声が聞こえる。どこから現れたのか、今度は真っ黒な猫が現れた。目の前の二匹よりもやや体の大きい黒猫だ。鳴き声も少し太い。
二匹の猫は黒猫の気配に対して無警戒で、おそらくは知り合いなのか。少し視線をやるだけで、また元の方角に視線を戻す。やはりそこには僕の見えない何かがある……いや、居るようだった。
「幽霊とか、そういう類なら、あまり関わりたくないなぁ」
そう思ったのか、実際に声に出して呟いてしまったのかは定かではない。
もう一度、ブルっと来るような寒気が僕を襲い、猫たちは耳を激しく動かした。何かを探すように猫たちはきょろきょろと周りを見渡し、そして何かを探すことを諦めたのか、またそれぞれに毛繕いをしたり、顔を洗ったり始めた。
にゃーお
三匹目の猫、黒猫は僕に気付いたのか、何かを抗議するような怪訝な鳴き声を上げ、どこかに姿を消してしまった。
「やはり、何か居たのか」
その日以来、僕はちょくちょくこの場所に訪れるようになった。いつの間にか猫たちと仲良くなり、機嫌のいい時には彼らの方から近寄ってきて、甘えるようになった。そうしているうちに、猫たちがどのように暮らしているのかだんだんと知るようになる。
「こんにちは」
「はい、あっ、こんにちは」
不意に女の人から話しかけられた。近所に住む猫好きのおばさんは、野良猫たちの世話をしているのだという。
時々、弱っている猫を見つけると、食事を与えたり、寒さをしのげるような毛布や、冬の厳しいときはカイロを置いたりするそうだ。場合によっては動物病院に連れて行くこともあるのだという。
この荒川の土手の周りには、野良猫たちの世話をする人が幾人かいるということを僕は知った。もちろんそれを、快く思わない人たちもいる。
そこで起きる切ない出来事や、憤りを感じるような事件の話。
そして何より野良猫の話をしているときの、猫好きな人たちの生き生きとした表情を見たとき、ふと自分はあんな表情をしているのかどうか不安になった。
「猫に好かれる人は、みんなやさしいからね」
おばさんはそういうが、僕にはどうにも納得がいかなかった。僕は決してこれまで誰かにとって優しい人間ではなかった。常に負けないことを考え、他人に気を許すことなどしてこなかった。
はたして僕は猫に好かれているのだろうか?
果たして僕は優しい人間なのだろうか?
「ここの猫たちにはみんな名前があるんだよ。中には複数の名前をもっている猫もいるわ。みんな、思い思いに猫に接し、猫も猫で、だれそれかまわずに人と関わるわけでもないのよ」
「そういうものなんですかねぇ」
「さぁね。そういうものだと、わたしは思うけどね」
僕はそこで、はっとしていた。
『そういうものだと思うこと』ができるから、この人たちは優しい表情になれるのかもしれない。
無理強いされるでもなく、へつらうでもなく、自分に言い聞かせるでも、他人に押し付けるでもなく、ただ、ただ、ありのままを受け入れるということができて初めて人は優しくなれるのではないのだろうか。
そういうことをこの猫たちは教えてくれる。
いや、知っているのかもしれない。
僕は思いきって初めてこの場所で体験した不思議な話をした。もしかしたらこんな奇妙な話をしたら、おかしな人間だと思われるのではないだろうか。そういう恐怖を心の奥底に隠しながら、二匹の猫が僕には見えない何かの気配に察知していたようだったことを話した。
おばさんは、口を挟むことなく、ただ、まっすぐと僕のほうを、僕の眼を見て話を聞いてくれた。
「そうだねぇ。私には、そう言うことはわからないけれども、そう言う不思議なことを知っている人なら、教えてあげられるかもしれないねぇ」
「霊能者……、みたいな人ですか?」
「いや、そんなんじゃなくて、なんていったかしら……、確かそう拝み屋とかなんとか」
「拝み屋?」
「私も詳しくはわからないよ。その人、明るいうちはめったに顔を出さないから。夕方から夜にかけて、たまにここを訪れては、団十郎と酒を飲むのが楽しみな、妙なおっさんよ」
「団十郎?」
「まぁ、このあたりに住み着いている野良なのだけれど、歩き方が勇ましくてね。他のノラちゃんたちとはちょっと違っていてね。立ち姿が男前で、いかつい猫ちゃんよ」
「僕はまだ、その猫にはあってないかなぁ」
「そうね。ああ見えて、団十郎は、あちこち顔を出しているみたいだし、数日姿を見ないこともよくあるのよ」
「はぁ」
僕にはその団十郎と呼ばれた猫の”ああ見えて”がまるでわからなかったが、酷く興味をそそられた。
「その拝み屋さんは。作務衣を着て下駄を履いているからすぐわかると思うわ」
「作務衣に下駄?」
なんとなくだが”ご隠居”とか”フウテン”とかそういうことだろうか
「なんとなくだけれど、今夜あたりは来るかもしれないわね。今日は確か満月だか十六夜だったと思うし」
僕はおばさんと別れ、一度家に帰って夕暮れ時にもう一度ここを訪れることにした。
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