第4章 猫
第26話 味のしない食事
荒川の土手に足を運ぶ。
11月――東京の秋は短い。
今が、まさに秋であり、夏の終わりでもなく、冬の始まりでもない。
アパートから自転車を走らせ、僕のお気に入りの場所へは二十分ほどかかる。この二十分という時間は、実はいくらでも短縮できる。近道もあるし、少しだけ自転車のペダルを強く漕ぐだけでも五分は短縮できるだろう。
でも、そんなことに意味はない。僕は暇なのだ。
少し前の僕ならば――。いや、一年前の僕ならば、こうではなかった。
駅に向かう足はいつもせわしなく地面の上を這いまわり、1ブロックをショートカットするために駐車場を斜めに横切ったり、他人のマンションの敷地内を歩いたりもした。
いつも決まった時間、決まった電車の車両の扉の前に立ち、前後左右を人に囲まれ、それでも隙あれば新聞を取り出し、活字を無理やりに頭に放り込むことでわずかながらの『自分の時間と空間』を確保した。
間違わないこと
失敗しないこと
迷惑をかけないこと
目立たないこと
そして何よりも”負けないこと”が大事なことだった。
五年近く、そんな生活を続けていた僕は、ある日突然『絶対に負けてはならない戦場』から引きずり降ろされることになる。
自覚症状はあった。
最初は単に、出された料理に問題があるのだと思った。
しかし、それがそうでないと気づいた時、今度は『それはそういうものだ』と思うようにしてしまった。
歳をとれば味覚が変わるという言葉を最大限に拡大解釈し、僕はあえて、味の濃い料理を避けるようになり、必ず焼き魚にかけていた醤油をやめ、ファミリーレストランでランチを食べるときにもライスに塩をかけるのをやめた。
コーヒーや紅茶も砂糖、ミルクを入れないようにした。
しかし、そんなことは気休めでしかなく、いつしか僕は『味のしない食事』を食べ続けることに心が折れてしまった。
味のしない料理を食べるということは、想像以上に過酷で、文字通り食事がのどを通らなくなった。
人は食べられなくなると、いや、単に量の問題ではなく、つまり食事の質――おいしく食べることができないと簡単に体調を壊してしまう。
たかが味覚、栄養ドリンクだろうがビタミン剤だろうが栄養を摂取さえすればいいと思った僕の対処はまさに、火に油を注ぐがごとく体調の悪化を招き、いよいよ僕はまともに働くことができなくなってしまった。
「食べ物の、味がしないんです」
一度だけ上司に相談してみたが、彼は笑って
「味なんか胃に入っちまえば関係ないだろう。今日の食事の味のことよりも、明日の食い扶持を考えるのが俺たちの仕事ってもんだ」
僕はその言葉にひどく納得しながらも、気を許せば流れ出してしまいそうな涙をこらえるのに必死で笑顔を作った。
「そうですよね。胃に入ったら関係ないっすよね」
僕は、社会のルールというものは、弱者を守るためにあるとわかりながらも、たとえば五体満足にもかかわらず、働かずに国から生活費の援助を受けているような人々に対してどこか蔑むような目で見ていた。
この五体満足というのは文字通り、手足が自由に動き、人とコミュニケーションがとれるのに、精神疾患や僕の上司がいったように『味覚に障害がある』程度で、仕事ができないというのは、その人の弱さではなく、怠惰に他ならないと考えていた。
「多少の風邪くらいで会社を休むな」
「病気になるのは気が緩んでいる証拠だ」
「気合と根性でなんとかできないことはない」
信じていたものが一つ一つ壊れていく様は、ここまで来ると笑うしかない。
それからの僕は、僕自身を笑い、蔑むようになり、こんな試練を与えた神に罰当たりな罵倒を浴びせながら日々を暮すようになった。
病気を原因にして企業は社員を解雇することはできない。
それは紛れもない『社会のルール』であり、僕はそういったルールに従い社会は動いているものだと思っていた。思い込んでいた。
しかし、現実は違っていた。
そこで何が起きたかについて、今さら、何を語るつもりもない。
ともかく世の中は、特に僕が所属し、従属する世界では――違っていたのだ。
会社を辞めて、いや、辞めることになって最初の一か月目はそれでもしっかり医者に通い、治療に専念した。
しかし、この病気はたとえば特効薬や万人に効く治療法はなく、症状から病気の原因を特定することは僕が思っていたほど簡単ではなかった。
二か月目に治療の効果が上がらないことに我慢できなくなり、病院を変えた。それを繰り返すうちに三か月が経過したころには、自暴自棄を絵にかいたような状態に陥ってしまった。
一つの病気、いや、病気の症状がさらに別の病気を誘発し、薬によっては、副作用で気分が極端に落ち込んだり、高揚したりを繰り返し、何もかもが嫌になって、僕は死ぬつもりでふらふらと町を徘徊するようになった。
死ぬつもりといっても、いざ、死のうと思っても、どうやっていいのかわからない。あるいはそれが僕には幸いしたのかもしれない。死にきれないでいたある日のこと、僕は猫に出会った。
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