第25話 厭魅(えんみ)
古池公園にある池から、権田のアパートまだは歩いて5分。あたりは夏の風景を取り戻し、けたたましくも、そこにあるべき姿で蝉の鳴き声がする。生暖かい夕方の夏の風は、先ほどまで漂っていた瘴気を一掃し、少しだけ息苦しさが解消された気がする。街の雑踏の中にパトカーや救急車のサイレンの音が聞こえる。後藤はすぐに現場に――権田の遺体がある場所に戻らなくてはならず、下駄の男は現場から離れなければならない。
下駄の男――拝み屋 尾上弥太郎は、そんな状況を図ったかのように少しばかり、早足で権田のアパートへ向かう最短ルートではなく、その反対側の出入り口に向かいながら話を始めた。
「普通であれば、そう。せいぜいが、蝉が数日大合唱をする程度のものよ。権田もおそらく知らないことだったのじゃろうが、坂口浩子の遺体が、まさかあんなそばにあるとはな。離れた場所では、蝉を遠くへ飛ばすことも、強い怨念を含ませることも出来まい。そして、その蝉じゃ。こどく=蠱の毒と書いて蠱毒というのじゃが、普通毒虫、サソリやムカデ、トカゲやヘビを使うのがスタンダードじゃが、それほど長い期間呪詛をかけることは出来ん。蝉には攻撃力は無いが、7年近い年月を重ねることで、毒虫に匹敵する力を得たのじゃろうが、まぁ、尋常ではないわい」
「尋常ではない……。私にとっては呪いとかそういうものが、すでに尋常じゃないんですがね」
後藤は胸のポケットからタバコを取り出し、口にくわえる。ライターを探そうとして、車に置きっぱなしだったことに気づき、鳴門刑事に電話をする。
「あ、そっちはどうだ。そろそろ応援が駆けつけていると思うんだが……あぁ、そうか、あぁ、頼む、俺もすぐにそちらに向かう。あー、あとすまないんだが、車の中にライターを置き忘れたらしい。この暑さだ。爆発でもされたら洒落にならない。あぁ、頼む。5分で戻る」
後藤が電話を切ると、下駄の男が話し出した。
「結論から言えば、いろんな偶然が重なって、おきるはずも無い、或いはここまで大事にならないようなことが、人間一人を呪い殺すという結果になったわけじゃが……」
下駄の男は、歩くのを止めて空を眺める。
「あの姉妹の――坂口姉妹の怨念の深さが、すべてを突き動かしたのじゃろう。そうでなければ、今回の件、ワシらが知った時点で、最悪の結果を回避できたかもしれんじゃろう? だが、そうはならなかった。愛の深さゆえに恨みが大きくなり、時間の経過がそれを助長する。そして、この場所、このときじゃ。すべてがひとつの結果の因となっておる」
「なんですか? この場所、この時とは、つまり笠井町に問題があると?」
「そうじゃ。いや、もっと大きな規模での話しなのじゃが、ワシが今この場所におる理由もそこにある。この地でやらねばならぬこと。その影響が、小さな事象ですむはずのことを大きくしておる。人に暗部がある以上、恨み、妬み、嫉み――そういった感情が、誰かを傷つけることなどあたりまえに存在するんじゃよ。じゃが、少しばかり懲らしめるつもりが、相手を殺してしまう。そしてそれが負の連鎖、復習と報復。そんなことになってしまえば、世は乱れ、混乱し、すべては闇に閉ざされる。人の心のバランスは、案外ともろく、崩れやすいんじゃ」
後藤には、下駄の男が言っている意味が良くわからなかった。言っていることはわかる。しかし、なぜこの笠井町なのか、なぜ今なのか。その答えを導き出せるような鍵を下駄の男の言葉から、見つけることは出来なかった。
「わかりません」
「わからぬか。そりゃそうじゃ。わからないように、わかりやすく説明しておるんじゃからのぉ」
「だから、それがわからないって、言ってるんですよ!」
後藤が声を荒げる。下駄の男は、それを面白がり、そしてまた、歩き始める。
カラン、コロン、カラン、コロン
「後藤よ!呪詛とは、人のなせる業よ。それは今も昔もそれは変わらん。人の営みは、どんなに便利な世の中になろうとも、どんなに医学が発達し、生命のなぞが解明できたとしても、何一つかわらん。闇を求める心があれば、光を求める心もある。それが人というものよ」
「呪いなんてものは、はるか昔の作り話かと思っていました。違うというんですか?」
「ちがうな。これだけははっきり言っておく。ワシとお主のやっていることはたいして変わりはしない」
「わ、私はそんな、そんなおどろおどろしい商売をやっているつもりはないんですがね」
「たわけが! ならばなぜ暴力団はなくならん。答えは簡単ぞい!その力を望むもの、その力に頼るものがおるからであろう! 呪詛も同じじゃ。あの姉妹は呪詛に頼む選択肢しか、なかったのじゃ。権田のような人間がいなくならないのは、権田のような人間を頼る誰かがいるからであろうに」
後藤は言葉がなかった。そう、どんなに法律が整備されようとも、救われない人はいる。そして、そういう人が、まあ、闇の力をたより、闇の世界に落ちていくさまを後藤はいやというほど見てきた。そう、その力を欲するものがいる限り、闇の力はなくならない。闇に生きるも者は、闇の力を頼る者によって生かされている。
「お主を突き動かすものはなんぞ。正義か? 秩序か?」
「ちがいます」
「そうか、ワシも同じじゃ。ワシは闇の力を知る人間として――そうプロとしてそのような力が、あちこちで乱用されることをよしとは思わん。ワシがこうして、事件に頭を突っ込むのはそれがゆえよ。お主もまたそうであるのなら、己の信じる道を見失わんよう心がけることじゃ。人は簡単に闇に落ちる。闇を知れば知るほど、その誘惑は強烈ぞい」
後藤はある疑問があることを思い出した。このことだけは聞かなければと先を行く下駄の男の前に出ている。下駄の男の前に立ちはだかるかたちになった。2人は正面から向かい合う。後藤が口を開く。
「その誘惑ですが、坂口由紀子がやったアレ、なんて言いましたっけ――」
「
「その『えんみ』とかいうものは、誰でも調べればできることなんですか? あるいは、そんなことを教えるような輩がいると……」
下駄の男の表情がいっそう険しいものになる。
「おそらくは、悪意を持ってこの外法を坂口由紀子に教えたものがおる。ワシはそうにらんでおる」
「ちょっと待ってください。もしかしたら、権田はその何者かに――」
「それはわからん。わからんが可能性はある。ある以上、探さねばならん。無視はできん」
「どうも、これは、ただの事件、ただの呪いではないですね。裏にもっと深い事情があるように思えます」
「お主に声をかけたのもそのあたりじゃ。権田という男。この前の事件に何らかのかかわりを持つ。いや、事件ではなく、あの関係者。それもおそらくは表立っては見えてこない人物」
公園の出口で2人の男が険しい顔をして話している。そこへ4~5人のこともたちが自転車で現れる。これから公園で遊ぼうというのだろう。日中は日差しが強すぎて、人影はほとんどない。子供たちは虫かごと虫取り網を持っている。蝉を採りにきたのだろう。
「今回も、いろいろと世話になりました。たぶん事件としては事故で処理し、その上で公園の遺体については調べが進むでしょう。それであの姉妹の魂が浮かばれるとは思いませんが、せめてもの供養です」
「ワシは坂口由紀子のなきがらを探そうと思う。少しばかり、心当たりがあるのでな。それがわかったら、また何かしらの手段で連絡を取るから、そのときは2人の魂を弔ってやろう」
「心当たりって……そんなことわかるんですか?」
「ムクドリの跡を追えば、おそらくはなんらかの手がかりがあるじゃろう」
一瞬の沈黙の後、下駄の男は後藤の横をすり抜け、後藤もそのまま前に進んだ。
カラン、コロン、カラン、コロン
笠井町の雑踏の中、どこからともなく下駄の音が聞こえてくる。そして夕暮れとともに闇に消えていった。街のあちらこちらで蝉が鳴く。時に激しく。時に弱々しく。
シクシクと鳴く
ツクツクと鳴く
ジージーと鳴く
ギーギーと鳴く
だが、その鳴き声にずっと耳を傾けていると、時々蝉とは違う別の何かの鳴き声が聞こえたような気がする。その声は風に吹かれ、塵にまみれ、街の中へと溶け込んで行く。
「事故としか、書きようないですよね。でも、その公園の遺体についてはどうします?」
「あとは鑑識に任せるしかないさ。部屋の中に公園の土と、女の髪の毛。ガイシャの不可解な事故死。日本の警察は馬鹿じゃない。多少時間はかかっても、すぐに答えにたどり着くだろう」
「答え……ですか。でも、それだけでは真実は――」
「鳴門!真実なんてものは、俺たちの領分じゃない。そうだろう?それに俺たちだって――」
「下駄の男が現れなければ、何も知ることはなかった。存在しないものからの情報は、ないということと同じ……ですか」
「そういうことだ。俺たちは俺たちの方法で知りえたことでしか仕事をしない。ほかの力を用いて得た証拠など、そもそもあってはならないし、それがなければ事件を解決できないなど……」
「あの下駄の男に笑われますかね」
「ふん! 報告書とっととまとめておけよ。俺は用事がある」
「ちょ、ちょっとまた、抜け駆けですか!」
「ちがうよ。子供と約束があるんだ。花火をする」
「あー。あの子、今、何歳でしたっけ」
「小学校3年だ。歳は……いくつだっけ?」
「小学3年なら、8歳か9歳でしょう。誕生日はいつでしたっけ?」
後藤は沈黙で答えた。
「後藤さん。そういうことって、結構大事なんですよ。純子さんだって――」
後藤は沈黙を守った。
「あぁ、すいません。余計なことでした」
沈黙は静寂を呼ばない。蝉の鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。後藤はラジオをつける。ラジオからは天気予報が流れてきた。
「今日の最高気温、東京は38度を記録しましたが、明日は昼間は晴れですが、夕方ごろには北から冷たい空気が流れ込み、大荒れの天気になるでしょう。気温も夜には25度を下回ると見られ……」
「涼しくなるのはいいですが、傘がいりますね。明日は」
「ふん。もうあんな事件はごめんだ」
「そうですね。それに蝉も気温が下がったら、長くは生きられないかもしれません」
「そうか。まったく。おかしなことが次から次へと起きるものだ」
「で、どうなんです?その下駄の男がこの街――笠井町にいる本当の目的ってやつは?」
「それがな――闇の塔とか言ってたんだが、何のことだと思う?」
「闇の塔。塔といえば、ほら、あれ」
鳴門刑事は荒川越しに、車の中から指差した。
「東京スカイツリーですかね。世界最大の電波塔です」
「東京スカイツリーがなんで闇の塔なんだ?」
「さぁ、そんなこときかれても。ただ、荒川の土手からは本当に良く見えるんですよ。あの塔」
「ふーん。東京スカイツリーねぇ」
荒川の土手、一人の男が、一匹の猫になにやらえさを与えている。コンビニの袋には猫用の缶詰とさきイカが入っている。
「団十郎、ほうびじゃ。よく教えてくれたのぉ。賢い猫じゃ」
ニャーォ
遠目にはただの野良猫にしか見えないが、正面からみるとその猫の異常さに気づく。全身は黒い毛で覆われているのに顔は右半分と左半分が白い毛と黒い毛に真っ二つに分かれている。一見して不気味である。
男はコンビニの袋の中からさきイカを取り出し口にする。団十郎がそれをねだる。
「なんじゃ。猫用の缶詰は気に入らんか。結構いい値段したんじゃがな」
そういって、男はさきイカをちぎって渡した。
「あまり食いすぎると、腰を抜かすいぞい」
団十郎はさきイカを加えると、茂みの中へ消えていった。
「さてと、いくとするかのぉ」
カラン、コロン、カラン、コロン
荒川の土手。暗闇の中に下駄の音が響く。荒川の向こう岸、江東区の方角を望めば、そこには闇の塔――東京スカイツリーが禍々しくそびえ経つ。そして時を同じくして、闇の塔を見つめるもう一人の男の影。その人物と下駄の男が互いを知るには、まだ、少しばかりの時間を要した。
蝉時雨~おわり
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