第24話 ムクドリ
蝉時雨――蝉が一斉に鳴き出し、雨が地面を叩くが如く激しく鳴る様。今年は蝉が鳴かない。そう思っていた矢先に、8月のある日、今まで眠っていた蝉が、地面から追い出されるかのように一斉に地中から現れ、街中で鳴き始めた。今から7年前――記録的な冷夏であった事がわかったのは、事件があってから数日後、鳴門刑事の報告で後藤はそのことを知る。
「まぁ、つまり、特別ではあるが、理屈は通る。7年前、7月の気温が上がらなかったから、蝉が活動を始めたのが遅かったってことなんだな」
「えぇ、まぁそういうことになります。もちろん、蝉の種類によって、地中にいる期間は違うんでしょうが、まぁ、一般的な話、蝉は地中の中で木の根の汁を吸いながら育つといわれています。そして7年たって、気温や湿度がある程度の水準に達すると地中から出てきて、求愛のために鳴くのだそうです。蝉の寿命は短いもので1週間から2週間とか……まぁ、これにも諸説あるようですが」
「確かに虫かごに入れるとあっという間に死んでしまうからな。身近な昆虫ほど、実のところ生態はよくわかっていないって、そういうこともあるんだろうな」
「でも、やっぱりあれは異常です」
「あぁ、異常だ。しかし、あれもまた、人のなせる業だそうだ。あの男に言わせれば」
「あの男――下駄の男、尾上弥太郎ですか」
そう、あの日。蝉時雨の中でひとりの男がアパートの階段から滑り落ち、命を落とした。その現場に後藤、鳴門刑事、そして下駄の男が居合わせたのである。そしてその『事故』の裏側には、更に恐ろしい事実が隠されていたのであった。後藤と下駄の男は、事故死した男――権田聡の部屋を後にし、アパートのすぐそばにある古池公園へと向かった。そこで、世にも奇妙なものを目にすることになる。
「いったい、誰の仕業なんです。これは法律では裁けないが、立派な殺人じゃないですか」
「呪いで人を殺す。昔はそれを禁じる法律があったんじゃよ。陰陽の時代――今から1200~1300年前の話じゃがな」
「そんな古い話をしてるんじゃないんです。今、目の前で人がひとり殺されたているんですよ」
「その犯人を許せんか? なら、会って捕まえるか?」
「会うって、この先に犯人が……権田を呪い殺した犯人がいると?」
「おるはずじゃ。たぶん、まだ、間に合うじゃろう」
「し、しかし、我々には、その人物を捕まえて罪を償わせる法を持っていません」
「まぁ、そのことでいえば、心配はいらんというか、いや、心配だから行くのじゃが、たぶん、もう手遅れじゃ」
後藤は下駄の男のはぐらかすような言い回しに、ほとほと困惑した。自分は冷静でいるつもりが、いつになく興奮してしまっている。いや、もっと単純にイライラしているのだ。鳴門刑事を権田の遺体に張り付かせたのも、半分はそんな自分を見せたくなかったからかもしれない。
「いや、職務の判断としては、何一つまちがっちゃいないはずだが、なんだ、この不快感は……」
「その感覚は大事じゃよ。お主は長生きでる」
「そんなふうにいわれても、全然うれしくないですがね」
「当たり前じゃ。別に褒めてなんぞおらんわい」
「喰えないジジだ」
「あん?なんか言うたか?坊主?」
「クッ……」
クソジジと言いそうになる自分を抑えられてことを、後藤は誰かに褒めて欲しいと思った。
「このあたりじゃ。瘴気がある。気をつけろよ」
「気をつけろって言われても……」
「そう。だからワシの言うことを聞くんじゃな。死にたくなければ」
「コッ……」
もう、どうでもいい。一言、言ってやりたいと後藤が思ったとき、目の前にそれは突然現れた。
「アノ オトコ……アノ オトコハ……シ・ン・ダ・カ」
「おう! さっき階段から転がり落ちて死におった。首の骨を折っての。惨いことをする」
「ソ、ソウカァ……シンダカ……アノ オトコ」
「あぁ、権田聡は死んだ。じゃがたったそれだけのことぞい。それだけのことのためになんと惨いことを」
下駄の男が話している相手――それはまるで怪物のような姿、全身に蝉の抜け殻をまとい、人の形はあるものの、それはもう人ではないようにみえた。古池公園の池のまわり、雑草や木が生い茂り、歩道から死角になる場所。ブナの木に寄りかかるようにして『それ』は立っていた。声は聞きづらいが、どうやら女のようである。良く見ると体のラインも女性のそれであり、『それ』は全裸を何か刃物のようなもので切り刻み、血がにじんでいるところに、蝉の抜け殻が爪を立て、しっかりとしがみついた『異形の塊』となっていた。
後藤は最初、下駄の男が死んだ権田のことを指して『惨い』と言っているのだと思ったが、すぐにそうではないことに気がついた。下駄の男はこの女を哀れんで、『惨い』と言っているのである。
「そのような外法をどこでどうやって手に入れたのかは知らん。じゃが、ワシにはわからん。己の命を懸けてまで呪い殺すことに比べれば、自らナイフで相手を刺し殺すほうが、よほど利にかなっていると思うがのぉ」
『異形の塊』はガサガサと音を立てながら、身を震わせながら叫んだ。
「そんなことでは、この恨み、晴らせるものか!」
その声は、さっきよりもはっきりと聞いて取れるようになったが、しかし――それは女の声でもなく、また人の声でもなかった。
「鬼……」
後藤が思わず口にした。
「おう、そうよ。鬼よ。だがわからん。お主、確か先ほど姉の恨みとか言っておったな?」
「姉? 先ほどって……」
後藤は悟った。下駄の男は、この『異形の鬼』に会っている。それもおそらく後藤と合流する直前にだ。
「姉さん。姉さんは、あの男に殺された。そして、惨いことに、こんな場所に埋められて……」
鬼女はすすり泣きながら、そう言った。ヒグラシが悲しげに鳴き始める。先ほどまでの憤怒に満ちた蝉の鳴き声とは明らかに違う、悲しく、せつなく、悲嘆に満ちた鳴き声……
「おっさん、こいつはいったい誰――」
後藤は記憶の中で、その女が名乗るより一瞬は早くある人物の顔を思い出していた。
「浩子姉さん。私は、とうとうカタキを討ったわ」
「浩子……坂口浩子か!たしか、7年前、行方不明になった」
「そう、わたしは、妹の由紀子。行方不明になった浩子姉さんをずっと探していた。でもどうしても見つからなかった。そして、ある占い師に姉の居場所を探してもらったの。占い師は権田に近い人間が、姉のことを知っていると教えてくれた」
「ふん、その占い師はたぶん、あてずっぽで言ったんじゃろう。しかし、あんたはそれを信じて、実際に権田に近しい人間に会い、情報を聞き出した……無茶なことをしおる」
「浩子姉さんのためなら何でもできる。あとでわかったのよ。権田が両親を脅し、捜索願を取り消させたこと。そのことを知った私は、家を飛び出して、姉の行方を探したわ。そして権田から依頼を受けて、女の死体を処分したという男に会った。私はその男から情報を聞き出すために、その男と寝たわ。そして、その話を聞いたあと……」
「おい、まさか、その男を殺したんじゃ……」
女は沈黙によって答えた。後藤は首を振り、下駄の男は呟いた。
「人を呪わば穴二つじゃ……お主、そのことはわかるな」
「ええ。すべて覚悟の上のことよ。これで浩子姉さんの魂も救われる。街の真ん中に地中深く埋められ、まるで蝉のように7年間も……これでやっと外に出られる。あの男の呪縛から解き放たれる。そして私も……」
「もう、語り合う時間はないか。最後に何か言い残したこと。望みはあるか」
「なにも望まない。何も望めない。それが闇の力を求めたものの宿命。でも、できることならば、姉のそばにいさせて欲しい……」
「おそらく、その願いはかなえられるじゃろう。心配せんでいい。旅立つがいい」
「た、旅立つって……」
ヒグラシがけたたましく泣き叫ぶ、その鳴き声はやがて、別の者の騒音によってかき消される。生き物の鳴き声、それは蝉ではない――鳥、大量のムクドリがどこからともなく表れ、後藤と下駄の男がいるブナの木の周りに集まりだす。
「お、おい、おっさん。いったいなにが――」
「心配は要らんよ。天からの……いや、暗闇からの出迎えじゃ」
「出迎えって……」
「人を呪わば穴二つじゃ。人を呪えば、自分も呪われて死ぬ覚悟が必要じゃ。あの鬼は、その覚悟によって術を成功させる『外法』を使った者の悲しい姿よ」
下駄の男がそう言うと、ブナの木に集まったムクドリが一斉に『異形の鬼』に向かって集まりだした。良く見るとムクドリは、『異形の鬼』の身体をついばみ始めた。何千というムクドリが次から次へと集まり、その中から苦悶に満ちた唸り声が聞こえてくる。それを地獄絵図といえば、まさにそうである。人を呪い、呪い殺した女の末路。闇の力を使い、己の欲するものを手に入れし者の末路である。『異形の鬼』は『異形の塊』へと姿を変えてゆく。
後藤はなす術もなく、ただその光景を眺めていた。常人なら気を失いかねない凄惨な光景である。
「惨いのぉ。女が使った外法――蠱毒厭魅の両方を使い、強力な呪詛をかける。まさに鬼女のやりようよ」
「こどくえんみ? なんですかそれ」
「厭魅とは、そうじゃな。代表的なものはわら人形を使った丑の刻参りよ。ようするに「ひとがた」を使って人を呪う呪術じゃ。蠱毒は蟲。器の中にカエル、ヘビ、ムカデ、クモといった虫を入れて互いに食い合わせ、最後に生き残った最も生命力の強い一匹を用いて人を呪う呪術じゃ。この女は蝉を用いて蠱毒とし、自らの身体を用いて厭魅とした」
「なぜ、蝉なんです?」
「わからんか?この地中深く、姉の屍骸が埋まっているとすればそれは……」
「あぁ、蝉の幼虫は、坂口浩子とともに、7年間地中で生きていたということですか! 坂口浩子の無念とともに……」
数分後、そこには大量の鳥の羽と、蝉の抜け殻、そして女の髪の毛だけが残された。
「き、消えた。こんなことって……」
後藤は唖然としてブナの木を眺めた。ムクドリはなにもなかったかのように笠井町の空に飛び立ち、もう姿は見えない。下駄の男はその髪を拾い、何やら右手で印をきり、呪文のようなものを唱えた。
「あれはすでに、この世のものではなかったんじゃ。だから消えたのではなく、そうじゃな。強いて言えばもとに戻ったということじゃ」
「つ、つまり、妹の坂口由紀子も、すでにこの世にいない。死んでいると」
下駄の男は沈黙によって後藤に答えた。
「さて、ここからは、お主の仕事じゃ。ここに坂口浩子の遺体が埋まっていることは確かじゃが、ここを掘るには理由がいるじゃろう。この髪の毛を使うんじゃな。公園の土がついた髪の毛が、権田の部屋から出てくる。そして、公園を調べてみると、何やら不自然な場所を発見し、そこを調べたところ……というシナリオでどうじゃ」
「あ、あぁ。ちょ、ちょっと待ってください。そんな簡単には……」
下駄の男は作務衣の袂からビニール袋を取り出し、女の髪を入れて後藤に手渡した。
「まぁ、お主の好きにするがいい。ここから先はお主の領分じゃ。ワシはここにいなかった。そういうことだけ、きちんとしておいてくれれば、後は任せる」
「それはともかく、私には今ひとつわかりません。こんなことが、この街でおきるなんて。誰でも人を呪い殺す事ができるだなんて、そんなことがあるんですか?」
「ない」
下駄の男の表情は険しくなり、後藤は空気が張り詰めるのを感じた。下駄の男は怒っている。
「じゃぁ、いったいどうして」
それでも後藤は下駄の男に食い下がった。
「ない。説明できることなど、ひとつもない。じゃが、よかろう。お主を納得させられるかどうかわからんが、わしの考えを教えてやる。それをどう考え、どう思うのかは、お主の次第じゃ。自分で結論を出すんじゃな」
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