第23話 拝み屋、再び

 鳴門刑事は同僚の車に同乗し現地に到着したのは夕方3時半になろうとしていた。そこには既に下駄の男と後藤がなにやら話をしていた。鳴門刑事はまず、蝉の鳴き声に驚き、まるで気温が下がらない暑さに不快感を表した。同僚の車がいくのを見送ると二人に大きな声で挨拶をしたが、まるで届かない。蝉の鳴き声にかき消されてしまう。鳴門刑事は自分の声が相手に届き、相手の声が自分に届く位置まで近寄ろうとしたが、下駄の男と後藤は鳴門刑事に顔で合図をして、行くべき方向を促した。権田のアパートの方向である。


「すごいですね。なんなんです? この蝉の鳴き声――これは尋常じゃありませんよ」

 鳴門刑事は後藤のすぐ横に駆け寄り、大きな声で怒鳴った。

「あー、おもかく権田の様子を見に行こう。どうやら『ただ事』じゃあなさそうだ」

「元気にしておったか?鳴門刑事」

 こんな酷い雑音の中でも、下駄の男――尾上弥太郎の声は、妙にきれいに通る。

「はい。おかげさまで。というか、あの事件の事後処理がいろいろ大変で……」

 『あの事件』とは、ほんの数日前、笠井町で連続して起きていた謎の交通事故――後藤や鳴門刑事がマークしていた暴力団関係者が次々と雨の日、車にはねられて死亡するという事件のことを指す。この事件をきっかけに、後藤と鳴門刑事は、拝み屋――尾上弥太郎と名乗る謎の人物、下駄の男に出会ったのであった。


「そもそもあの事件に関わらなければ、権田という男は、僕たちの捜査線上に上がることはなかったでしょうね」

「拝み屋のおっさん、これはどちらかといえば、我々の借りではなく、貸しですからね」

「ぬかせ! 権田の尻尾もつかめないお主らに、そんなこと言われる筋合いがあるかよ」

「しかし、法治国家では、勝手に他人の住居の中には入れません。今回はやはり貸しですからね」

「ふん! それは事件が解決してから言うんじゃな」


 車を止めてある場所から、権田のアパートへは、ほんの数分である。公園脇の通りから、一本細い道を入り、左に曲がったところにある。人通りからは完全に死角になっている。新聞配達や郵便配達でもなければ、こんな場所にアパートがあることを知る人はいないだろう。しかも外からは、ほとんど生活感がうかがえない。


 一歩近づくたびに、蝉のざわめきは一層激しくなり、鳴門刑事は思わず耳をふさいだ。権田のアパートが見える曲がり角に差し掛かったとき、急に蝉の鳴き声が止んだ。三人はその場に足を止め、顔を見合す。下駄の男が叫ぶ。「しまった!まずいぞい!」下駄の音が鳴り響く。後藤がそれに反応し、鳴門刑事は二人が曲がり角に姿を消したところでようやく動き出す――出遅れた。


 うわぁぁぁぁあああー


 悲鳴。


 助けて、助けてくれー!


 懇願。


 やだー、来るな!来るなぁああ!


 狂気。


 ガタン、ガタン、ドドドドド……


 何かが転げ落ちる音。階段から?


 沈黙。


「権田! 権田! 大丈夫か!」

 後藤が叫ぶ。

「ご、後藤さん!」

 鳴門刑事は呆然とする。

「むごいことをしおるわい」

 下駄の男が嘆く。


 権田は自分の部屋から飛び出し、何かに怯えるように後ろを振り返りながら、必死で逃げようとした。アパートの2階から1階へ、階段を駆け下りようとして足元をすくわれる。まるで糸の切れた操り人形のようにぐしゃりと身体を階段に投げ出し、ゴロゴロと転がり落ちる。権田の体が地表に投げ出されたとき、すでに権田の首はあらぬ方向に曲がっており、とても助かるようには見えなかった。


 激しく痙攣する体――後藤は権田に駆け寄ったが、手の施しようがない。胸から携帯電話を取り出し、すぐさま江戸川南警察に電話をする。あとは、向こうで手配してくれるだろう。しかし――これはいったいどういうことなのか?


「おい! 鳴門! なにいつまでもぼけっと突っ立ってる! 手当てを! 」

「ご、後藤さん、あれ、あれっていったい?」

 鳴門刑事は後藤の頭上を指差す。後藤からは状況が見えない。が、鳴門刑事の表情からなにか尋常でない事が起きているのはすぐにわかった。

「なんだ! おい! どうした。なにが……」

 後藤は立ち上がり、鳴門刑事が指差す方向を見上げる。

「こ、こいつは……」

 権田のアパートから大量の蝉が飛び立つ。まるで黒い塊が獲物を探して彷徨うかのように権田のアパートの上空を旋回する。数千匹、いや、数万匹か。権田の部屋から最後の一匹が飛び立ち、それが群れに合流するとなにか獲物を見つけたかのように、その黒い塊はアパートの屋根の向こう側へと――公園の方角に飛び立っていってしまった。


「おっさん! 拝み屋のおっさん! こいつはいったい全体、どういうことなんですか!」

 後藤は下駄の男を睨みつける。下駄の男はゆっくりと後藤――いや、権田のそばにより、折れ曲がった権田の首の先にある頭を撫でた。すると権田の痙攣は止まり、恐怖に満ちた表情は一瞬和らぎ、権田は絶命した。

「因果律はときに恐ろしい勢いで――そう、歯車にかけていた一つの滑車がはまったとき、急激に動き出すことがある。そしていったん動き出した因果律は、もう、誰にもとめることはできんのじゃ」


「因果律? なにわけわからないことを――目の前で人がひとり死んでいるんですよ! 拝み屋のおっさん! これは、これは先のあの蝉の大群の仕業なのか? そしてあの蝉の化物は、いったいなんの目的で? やつは、やつは今どこに?」

 後藤がまくし立てる。下駄の男は、ごとうに諭すように放し始める。

「そう、なんでもかんでもいっぺんに聞かれたら話せることも説明できなくなるぞい。そうじゃな。まずはお主たちのやり方にしたがって順序だてて話をしよう。権田の部屋――見る必要があるじゃろう?」


「おい、鳴門! ここを頼む。あー、その前にここまで車を回してきたほうがいいか。ともかく、目隠しが必要だ」

 鳴門刑事は、後藤からキーを預かるとすぐに車をアパートの前に移動させた。これで権田の遺体は外からはみえない。後藤と下駄の男は、アパートの階段を慎重に上った。後藤は胸のポケットから手袋を取り出し、手にはめた。階段は権田の転がり落ちた後、おそらく頭を打ち付けた場所にしっかりと血痕がついている。そこをよけるように歩くのもそうだが、何よりも注意を払ったのが蝉の屍骸だ。


「こ、この屍骸に足をとられて、ヤツは階段から転がり落ちたってことですか?」

 階段の下から鳴門刑事が声をかける。

「どうやらそうらしい。鳴門、さきにおっさんと部屋の中の様子を見てくる。そこで仏を見ておいてくれ」

 鳴門刑事はなにやら不満を言おうとしたが、そうそうにあきらめた。これはもう、自分たちの領分ではない。専門家に任せるしかない。しかし、自分だって――

「わかりました。その、あとで、僕にも教えてくださいよ。なにがあったのか」


 後藤は軽く右手を上げて鳴門刑事に合図をした。アパートはそこらじゅう蝉の屍骸だらけである。開け放たれた権田の部屋まで、廊下には蝉の屍骸が散乱している。そしてそれは権田の部屋の中へと続いている。

「あ、あれだけの数の蝉が、権田の部屋に実際に入っていたってことですか?」

「最初からいたわけではあるまい。おそらく、権田が招きいれたんじゃ」

「招き入れたって?」

「おそらくは、ベランダの戸が開いているか、割れているにちがいない」

 権田の部屋を廊下から眺める。暑さによるものではない、いやな汗が後藤の頬を流れ、あごから滴れる。

「気をつけろ。まだ微量じゃが瘴気が残っておる。あまり吸い込むと身体にいい事はないからのぉ」

 それが果たして効果があるかどうかはわからないが後藤はハンカチを口に押し付けた。下駄の男は作務衣の袂から塩を取り出し、自分と後藤に振り掛ける。後藤が怪訝な顔をする。

「気休めじゃが、何もせんよりは、ましということもある」


 権田の部屋の玄関。ドアの内側は激しく傷つき、血痕らしきものが見える。まるで権田がここにしばらく軟禁され、ドアを何度も叩いたかのように見える。扉には、権田のそうした怨念がまだ残っているようだ。いや、怨念というよりは、権田自身の恐怖に怯える魂の叫びのようなものか。部屋の中は誰かに荒らされたようにめちゃくちゃになっている。もともと整理されている部屋ではなさそうだが、それにしてもまるで、人と人が争ったような後である。


「いったい、ここで何があったんです?」

 下駄の男が言っていたようにベランダのサッシは開け放たれていた。風でカーテンがゆらゆらと揺れている。しかし、そのカーテンもところどころ止め具がちぎられている。時間の経過に従い、部屋の中の空気が浄化されていくのがわかる。それだけ、この部屋の中には、何か陰鬱な思念のようなものがさっきまで漂っていたようだ。


「すべて終わったあとじゃよ。あの蝉の大群はおそらく権田の部屋を取り囲み、権田を逃がすまいとここに閉じ込めていたのだろう。そして、権田はその恐怖に耐え切れなくなり、自らの破滅を選んだんじゃ。もう少し待っておれば、ワシらが駆けつけて、最悪の事態は避けられたかもしれんが、そんなことを考えてもしかたのないことじゃ。すでに歯車は回り始めておる。もう、誰にも止められん」


「これは誰かの仕業――つまり権田を恨んだ人間が、蝉を使って権田を殺させたということですか?」

 後藤は、下駄の男を睨みつける。その迫力は鬼気迫るものがあった。たとえそれが後藤の領分ではないことであっても、誰かが誰かの命を脅かし、死に至らしめるような事がこの街で起きていることが、後藤には絶対に許せなかった。たとえそれが、権田のような人間であっても。


「お主、知っておるかの? その昔、江戸の頃にはの。親の敵討ちは法律で認められていたんじゃよ」

 後藤は、まゆをひそめ、いぶかしげに下駄の男を見つめた。

「だからといって、現代にそれをやっていいという法はありませんよ」

「そうじゃな。お主の言う通りじゃ。詰まらんことを言った。許せ」

 あまりにあっけなく下駄の男が折れたので、後藤はかえって言葉を失ってしまった。

「い、いやぁ、そりゃ、私だって、法律が全てと思っているわけではありません。現に権田は法律の網の目をかいくぐって、悪さを繰り返してきた男です。人に恨まれることはたくさんあるでしょし、もしそういう人間が、権田を後ろから一発ニ発殴っても、見てみぬフリはするかもしれません。しかし、その手に凶器を持っていれば、話は別です」

「復讐をしようとする人間を撃つか?」

「人は撃ちません。凶器を撃ちます。当たればですが」

「なるほど。そうじゃな。ワシも同じじゃ。呪う人間、呪われる人間。事情はそれぞれじゃ。だが、使っていい方法と悪い方法があるとワシも思う。呪術も同じよ。まぁ、人のためになる呪術というのは、そんなものはありやせん。それを使おうとするものが目の前にいれば、ワシはそれをなんとしてでも止めるじゃろうな。しかし……」


「放たれた弾丸を、打ち落とす術はない」

 後藤がボソリと言った。

 下駄の男は、後藤が背負った十字架のようなものを見た気がした。

「主も、それを知る者か……」

 二人の間に、過去の記憶が交差する。同じような過去を持つ者として、互いを認め合うようになるには、まだ、後藤も下駄の男も、お互いを知りはしなかった。知りすぎることをためらっていた。


 まだ、この時は……。


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