第22話 ガニ

 江戸川南警察署は、笠井町の中心地からは少し離れている。離れているといっても車で10分程度の距離だ。笠井町――東京方面は荒川、千葉方面は江戸川に挟まれたいわゆる海抜ゼロメートル地帯である。後藤が下駄の男と約束した場所、古池公園は警察署から街の中心地を挟んで反対側に位置する。それても30分もかからない。


「蝉が……鳴き始めたか」

 後藤が警察署を車で出て、最初の信号待ちをしたとき、道路沿いの植え込みの木から蝉の鳴き声が聞こえた。

「そういえば、今年はまだ蝉の鳴き声を聞いていなかったっけな?去年に比べると随分遅かったなぁ」


 ジージージージー……


 後藤の感傷的な気持ちをあざ笑うかのように、蝉は鳴いている。いや、蝉も泣いているのか。昨年の夏――確か、今年以上の猛暑だったと後藤は思い出していた。

「墓参りにいかないとなぁ」

 信号が変わる。後藤は蝉の鳴き声から逃げるようにアクセルを踏み切る。だが、いくら車を飛ばしても蝉の鳴き声は後藤を追い回す。まるで夜空に浮かぶ月ように――


「どうしてお月さんは、僕の跡をついてくるの?」

 後藤は少年のその質問に答えることが出来なかった?

「さぁ、なんでかなぁ?」

「おじさん何にも知らないんだね。パパならちゃんと教えてくれるよ。ねぇ、パパはまだ帰ってこないの」

 

「ちぃっ!これから毎年、蝉の鳴き声を聞くたびに思い出しちまうのか。まったく!」

 去年の夏、後藤の同僚 鈴森一郎が病に倒れた――骨髄性急性白血病。後藤と組んだパートナーは過去3人が死んでいる。事故死、殉職、そして病死である。いつしか後藤の周りに噂が立つ。後藤と組むと長くはないと……

 後藤は、病に倒れた同僚の家族とは生前から親しくいた。後藤の意に反して同僚の一人息子にひどく気に入られていた後藤は、不器用ながらも同僚の遺族――妻 純子と一人息子 亮太と付き合っていた。


 最初は感傷的だった後藤の気分は、笠井町の中心地を走り抜けることには、すっかり別なものになっていた。

「おいおい、いくら出足が遅いからって、この数は異常だな」

 街中いたるところで蝉が鳴いている。道路の植え込みの木に2~3匹。いや、あるいはもっとかもしれない。いたるところで蝉の鳴き声が聞こえる。しかし、街行く人は、そのことに気づかないフリをしているかのように、まったく蝉に関心を持たない――暑すぎるのだ。


 目的地に近づくにつれて、蝉の鳴き声は激しくなる。緑の多い公園に向かっているのだから当たり前といえばそうなのだが、後藤は妙な不安を覚えていた。後藤の悪い予感は、本人の期待にそぐわずよく当たるのだった。

「このあたりのはずだが」

 後藤は車を道路わきに止め、車を降りた。夏の暑い日ざしと蝉の鳴き声がいっせいに降り注ぐ。思わず後藤はよろけそうになる。息苦しいほどの熱波と音の塊が後藤の頭上に降り注ぎ、一瞬、前後左右の感覚を失いそうになる。「なんて――」後藤は口に出して何かを言おうとしたが、自分の声が自分の耳に入ってこない。まるで、蝉が何者も近づけまいとするかのように激しい怒りのエネルギーの塊が後藤に襲い掛かっているかのようであった。


「こいつはただ事じゃないな」

 後藤の悪い予感はまたしても的中しようとしていた。




「開けてくれ! 頼む! 開けてくれ!」

 その声が後藤に届くことはなかった。権田がドアを叩くたびに、蝉がザワザワと蠢く。蝉はまるで何かに引き寄せられるように権田のアパートの玄関のドアにへばりつく。力尽きた蝉の屍骸が廊下中に散乱している。しかし、その有様も外からは死角になっている。完全な死角ではないが、見ようと思わなければそこに目は行かない。権田の精神状態はすでに限界点をすぎていた。ドアを叩く手は紫色にはれ上がり、爪の先からは血がにじみ出ている。権田には人間としての権利は何一つ許されていなかった。この状況を打破すべき手立てを冷静に考える事ができない。蝉の鳴き声は権田が30秒以上一つのことを考えるのを許さない。窓から覗く数万を越える蝉の視線が、権田の平常心を奪う。しかもトイレにはすでに蝉が侵入している。権田は追い込まれていた。


「助けて、助けてくれー!」

 権田は頭をドアに打ち付け、床にのた打ち回る。どんなに耳をふさいでも、蝉の鳴き声は止まらない。いや、すでに権田の耳には蝉の鳴き声には聞こえていない。


 ユ~ル~サ~ナ~イ

   ユ~ル~サ~ナ~イ


 シー、シー、シネー~

   シー、シー、シネー~


 ニ~ガ~サ~ナ~イ

   ニ~ガ~サ~ナ~イ


 ク~ル~シ~メ~

   ク~ル~シ~メ~


 それは権田が命を奪った女――坂口浩子の呪詛のうめき声。権田はすでに12時間以上経つ


 立ちくらみや目眩など平衡感覚が失われ、吐き気がする。頭部のダメージは深刻で、耳鳴りが止まず、頭痛や帽子をきつく被ったような圧迫感が襲う。やがれ、全身に震えが始まり、胸の圧迫感が酷くなり息苦しくなる。いっそう気を失えばそれで楽になれるのかもしれないが、蝉がそれを……坂口浩子がそれを許さなかった。


 気を失えばそこには悪夢が待っている。目を瞑れば、無数の蝉が四方から権田を囲む。やがてその中から腐乱した髪の長い屍骸が現れ権田に迫ってくる。権田が逃げようにも足が動かない。何者かに足を掴まれて動けない。足元をみるとそこには地中から生えた二本の白い女の腕が権田の足首をしっかりと掴んでいる。無理に引き離そうとすると、地面が盛り上がり、人間の頭が地中から現れる。頭から血を流し、血に染まった目で権田を睨みつけるその表情は、まさに鬼の有様である。


 恐怖のあまりに権田が意識を取り戻すと、そこは当たり前のように権田の部屋だ。そして一斉に激しく鳴り響く蝉の鳴き声――蝉時雨が権田を更なる絶望の深淵へと引き込む。もはや権田に逃げる術はない。



 後藤は、思わずたじろぎ、そして車の中へ戻った。車の中であれば普通にしていられる。エンジンをかけ、エアコンを最大にし、ラジオをかける。これで蝉の鳴き声はあまり気にならなくなった。タバコをくわえ、外の様子を車内から伺う。これといってかわったことはないように思えた。

「さて、どうする? 相変わらずの嫌な予感はしているが、どうやらこれも俺たちの領分じゃなさそうだな」

 結局後藤は、その場で鳴門と下駄の男を待つことにした。鳴門刑事は既に署を出て車を拾い後藤を追いかけていた。鳴門刑事から連絡を受けた下駄の男は、古池公園中を散策していた。後藤とは目と鼻の距離にいたものの、下駄の男は瘴気の発生している場所を突き止めようとしていた。権田のアパートで起きていることは現象に過ぎない。瘴気の発生源は近いが別の場所にある。そこに何があるのか?そこに誰がいるのかをつきとめよとしていた。


「どうにもおかしなことじゃ。こんなところにあるはずがないものがある。これはまさしく、死臭じゃな」

 東京江戸川区には60万人以上の人間が住んでいる。そんな街の公園に死臭――それも人の死体の匂いがするはずがない。だが、無数に大発生している蝉からは確かに死臭がする。つまり、この公園のどこかに人の屍骸が埋まっており、そこからこの蝉は発生したのではないか? 下駄の男はそう睨んで公園の人目のつかない場所を中心に「何か」を探していた。そしてついにそれは見つかった。


「これか! ここじゃな!」

 下駄の男は公園の池の周りを歩き、樹木が生い茂る人の死角に鳴る場所で、それを見つけた。

「凄い数よのぉ~。そして凄い瘴気じゃ」

 下駄の男の目の前の大きなブナの木がありえない色で埋め尽くされている。それは大量のガニ――蝉の幼虫の抜け殻である。

「7年、ここに埋まり、地中深くから男を呪い、それを成就させたか。まさに女の執念よ」

 下駄の男は女と言い切った。そうと確信するに足りる物証や論理的に推測される何物もそこにはない。ただ、直感でそれは女であると感じたのである。あえてその理由を挙げるとすれば、ブナの木にしがみついた大量のガニの抜け殻が、女の姿を象っているように見えたことくらいである。


「まだ、そこにおるのか?」

 下駄の男は、ガニの抜け殻の固まりに語りかけた。

「悲しいのぉ。しかし、鬼を撃つのに、自らが鬼になっては何も浮かばれまい。そなた、そこに埋まっている者の縁者か?」


 しゅ~~~~~

 

 それは普通の人の目には映らない無味無臭のガスのようなものである。しかし、それを大量に吸い込めば、健康に自身のある若者でも吐き気くらいはするだろう。体力のないものならおそらく、立っていられなくなるような悪い気の集まり――瘴気がブナの木に折り重なったガニの抜け殻の隙間から噴出す。


「そのような外法、いかにして手に入れたのじゃ」

 一般にそれは伝説、或いは作り話と言われている。しかし、呪詛の世界には、様々な方法があり、その数だけ外法と呼ばれるすさまじい呪術がある。呪いとは普通、呪う相手を苦しめ、時に死に至らしめるとも、呪いをかけた人間は、何かを犠牲――生贄に捧げることはあっても、自らの命を絶つことはない。しかし、呪詛の中には自らの命を賭して、呪う相手に大きなダメージを与える禁断の法――外法が存在する。


「ワ・タ・シ・ハ ア・ネ・ノ ム・ネ・ン・ヲ…… ム・ネ・ン…… ム・ネ・ン……」

 下駄の男が身構える。作務衣の袂からなにやら取り出す。

「邪魔をするヤツは、コ・ロ・ス 死~~」

 ブナの木がガサガサと音を立てる。公園の林で泣いていた蝉たちが一斉に羽ばたく。カサカサと羽音を立て、四方八方に飛び回る。

「これでは、分が悪いかよ」

 下駄の男は、一歩下がり、周りをけん制する。そしてまた一歩下がる。

「ひとまず退散じゃな」

 下駄の男は振り向き一気に駆け出す。その後ろを瘴気を帯びた蝉の群れが追いかける。下駄の男は一瞬振り向くと、蝉の群れに向かって右手で何かを投げつけた。砂のようなそれは群れの先頭に当たり、群れは何かに驚いたかのように四散する。下駄の男の投げつけたもの――それは清めの塩であった。

「しかし、この量では、これが精一杯じゃ。とてもじゃないが、全部は防ぎきれん」


 蝉の群れは下駄の男の追跡を諦めたようだ。

「まずは、あの男と合流じゃな。まったく。ワシが誰かの手を借りねばならんとわな!」

 そういいながらも下駄の男は後藤との再会を決して嫌なものには感じていなかった。そしてその事が、更に下駄の男を不機嫌にさせた。そして何よりも事態が最悪の状況であることに、激しい憤りを感じていた。


「まったく、罪なことをしおるわい。いったい誰がこんなことを……確か、妹とか言っておったな」

 下駄の男は、公園の池を離れ、約束の場所へと急いだ。陽射しは激しく地面に照りつけ、蝉は一層激しく鳴き始めた。

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