第21話 団十郎


「おー、団十郎。どうした、蝉なんぞくわえて、蝉じゃご褒美はあげられんぞい」

 団十郎とは荒川の河川敷に住み着いている野良猫のことである。といっても誰もがその猫のことを団十郎と呼んでいるわけではない。黒い毛と白い毛がバランスよく生えた、一見どこにでもいそうな野良猫だが、この猫を正面から見て、その異常さに気づく。顔の模様が白と黒、左右にきっちりと分かれているのである。


 ミャーウォン


 くわえていた蝉を地面に置き、少し低くうなるような声で団十郎は鳴いた。かわいいというよりは、気品と妖しさを含んだ、妙に耳に残る鳴き声である。


「どれどれ、うん、こいつは……ちょっとした変わりダネだな。わずかながら瘴気が残っておる。ちょっとした呪詛じゃな……団十郎、こいつをどこで手に入れた?」


 ミャーウォン


 団十郎はゴロゴロとのどを鳴らし、男の足に顔を擦り付けると、ふっと背中を向け歩き出した。

「おー、案内してくれるのか。賢いのぉ、団十郎は」

 そういって男は歩き出す。


 カラン、コロン、カラン、コロン


 下駄の音、下駄の男は団十郎の跡を追いかけ、荒川の土手を歩き始めた。紺色の作務衣からのぞく手足は程よく夏の日差しで焼けている。50歳か60歳か、遠目にはそう見えるがそばで見ると肌つやがよく、何よりも活力にあふれている。まるで年齢がつかめないが、その顔つきにはあらゆることを経験してきたような風格がある。


 拝み屋――原因不明の病や不幸な事故が続くなどといった人身の不安を解決する職業。祈祷師、占い師、陰陽師などとも言われる。この下駄の男は時に拝み屋と称し、名を尾上弥太郎と名乗る。どのような目的でこの街――笠井町に現れたのかは、まだ一部の人間しか知るところではない。


「まったく、あの塔のおかげで毎日退屈しないわい。このようなものが出てくるのも、あの塔の影響よ」

 下駄の男は荒川の土手の江戸川区側から反対側を眺める。そこにはまだ建設途中の巨大な塔――東京スカイツリーが禍々しくそびえ立っている。下駄の男はそれを『あの塔』と呼び、ある男は『闇の塔』と呼ぶ。『闇の塔』と呼ぶ男と下駄の男とは少なからず、因縁があるようである。


「そういえば今年はまだ蝉の声を聞いてなかったのう。と、いうことはだ。7年前は冷夏じゃったかのう?」下駄の男は作務衣の袂から端末を取り出した。iPhonである。下駄の男はネットに接続し、検索サイトで冷夏に関する過去の記録を検索した。「なるほど2003年か。確かに冷夏じゃ。7月中に蝉は活動してなかったということじゃな」その風貌に似合わず、いまどきの電子機器を難なく使いこなす。下駄の男は公の機関にハッキングを仕掛けるほどの実力の持ち主であることを知るものは少ない。その中に江戸川南警察署の後藤刑事がいる。後藤と下駄の男とは、つい数日前に起きたある事件で知り合うことになった。


 ミャーウォン


 団十郎は、少し歩いては後ろを振り返り、下駄の男を催促するように鳴いた。

「ワシもさすがにこの暑さにはかなわんわい」

 下駄の男の頭は見事に禿げ上がっている。拝み屋を生業とする下駄の男にとって、髪の毛のようなものは、己に下手な術をかけられないための予防策である。下駄の男は持っていた手ぬぐいを頭にかぶせて縛り付けた。


 団十郎は暑いコンクリートの上を避けて日陰の中を歩いていた。やけに涼しげな団十郎は、どことなし浮世離れした生き物のように見えた。団十郎は人や車の通りの少ない道を歩いていった。下駄の男は時々iPhonを操作しながら、団十郎のあとをついていった。程なくして古池公園に差し掛かったところで、下駄の男の足が止まった。


「蝉時雨じゃな」

 蝉の声が、音の塊となって空から、いや四方八方から降りかかってくる。地中深くに7年もの月日を暮らしてきた蝉が、この日いっせいに地表に現れた。それも大量に、局地的に。


「しかも泣いておる。叫んでおる。恨んでおる。怨念か執念か、これは間違いない。女じゃな」

 団十郎は公園には入らずに、公園の横の通りをぐるりと回る形で公園の反対側へ向かっていた。尻尾を太くし、激しく耳とひげを動かしながら、確かな足取りで歩いてゆく。


「団十郎はたくましいのぉ。さすがじゃわい」

 ふと団十郎が歩みを止め、すっと公園の中に消えていった。自分の役目はここまで。あとは任せたという感じなのか。


「良くぞここまで案内してくれた。あとは大丈夫じゃ。礼はちゃんとするでの」

 団十郎の後姿にそう話しかけると、下駄の男も戦闘態勢に入った。あたりに気を配り、耳を澄ませ、匂いをかぎ分ける。あたりに人はいない。それはまるで蝉時雨が結界のような役割をしているようだった。そう、ここは異界である。


「さて、こいつは人のなせる業なのか、それとも妖鬼かの」

 道端に弱った蝉が落ちている。まだ息絶えてはいないが、あと数分も持たない様子だ。何が蝉たちをここまで駆り立てているのか。やはり、蝉には少しばかりの瘴気が残っている。


 瘴気――簡単に言えば悪い空気である。古代から病気は「悪い土地」「悪い水」「悪い空気」などにより発生すると考えられていた。それを医学的に真剣に治療に取り入れていた時代もある。あるいは呪いや祟りといったものという考え方をする地域もある。一般にそれを大量に長期間、体に吸い込めば悪い病気になり、体の弱い者なら死にいたることもあると考えられている。


 瘴気の強いところをたどる。その方法が手っ取り早いが、それは同時に身を危険にさらすことになりかねない。下駄の男にはこれといって準備がない。まずはこれが何者かが誰かに危害を加えようとしている人為的なものであるのか、あるいは偶発的、自然発生的なものであるかを見極めるための手がかりでもつかめれば、ひとまずは十分である。


「さて、どうやらここのようじゃが。どうしたものかのぉ」

 5分もしないうちに下駄の男は、一見のアパートにたどり着いた。そこは人目につきづらい、死角になった建物。木造あるいは軽鉄骨の小さな2階建てのアパートである。


「どうやら2階の角部屋じゃな。どれどれ、住んでおるのは……」

 下駄の男は郵便受けで名前を確認しようとしたが、書いていない。郵便物を勝手に見るのは犯罪である。チラシや不要な郵便物を捨てるためのゴミ箱がおいてあった。下駄の男はその中から、難無くその部屋の住人の名前を突き止めた。


「ややこしいことをしてなければ、この部屋には権田聡という人間が住んでいるのか。ふむ、念のため調べてみるかのぉ」

 下駄の男はiPhonを取り出し、自宅のPCをリモート操作し始めた。いくつかの手順を手早くこなし、あるデータベースで権田聡という名前を検索した。


「ビンゴじゃ。こりゃ、あの男に動いてもらうかのぉ」

 こうして下駄の男は再び後藤と接触することになる。しかしそれは、後藤の都合もあって、翌日の朝ということになった。下駄の男は、仕方がなく、その場を後にした。それは権田にとっての不幸だったのかもしれない。いや、坂口浩子の執念が勝ったのだと、後に下駄の男は口にすることになる。



 江戸川南警察署 組織犯罪対策課――


「確かに権田は以前捜査線上に上がっていた人物ですが、だからといって何でもかんでも私が動けるわけでは……わかりました。まぁ、はたけば埃はいくらでも出てくる男です。これまでは何度か逃げられてますが、案外こういう何もないタイミングで踏み込めば、何か出るかもしれません。この前の借りもありますし、明日の朝までにこちらも何か材料をそろえて起きます。えー、では、明日10時に現地で。はい、はい。それじゃぁ」

 電話を切ると後藤は鳴門刑事を呼び出した。

「なるとー!鳴門いるかぁー!」

「はい、何でしょう」

 鳴門刑事はちょうど外から帰ってきたところだった。手にはハンバーガーショップの袋を持っている。

「なんんだ。昼飯、まだだったのか?」

「えー、食べます?」

「いらねーよ。よく冷めたハンバーガーとか食えるなぁ」

「あれ、なんでわかりました?」

「じゃなきゃ、お前が俺に勧めるかよ。自分で食っちまうだろう?」

「あらら、バレバレですね。買ったいいけど食べ損ないまして」

「それ食ってからでいいから、ちょっと調べてほしいことがあるんだが」

「なんです?」

「権田聡ってしっているか?」

「権田聡……ちょっと記憶には……」

「あー、そうだろう。この男はお前がこっちに赴任する前に組をやめているし、その組ももうないからな」

「その男がどうかしたんですか?」

「いや、ちょっと頼まれごとでね。この男のこと調べてくれないかって、お前の知っている男からさ」

「僕の知っているって、誰です?」

「拝み屋のおっさんさ」

「ああー、あの下駄の男ですか。たしか尾上弥太郎でしたっけ?」

「あーそうだ。その尾上弥太郎から電話があってさ。調べてくれって。ちょっとその男に会いたいって言うんだ」

「何かの事件……ですかね」

「さぁ、ちょっと急いでいる様子だったんだが、ほら、こっちもいろいろとあるだろう?」

「えぇ、まぁ、そうですけど。あの老人がわざわざ電話をしてくるってことは……」

「あー、あまり無碍にもできないし、なんていうの、いやな感じ……するよな」

「後藤さんをして、無視できない男ってわけですか」

「おいおい、なんだよそれ」

「いや、後藤さんがほかの誰かを、そんなふうに評価することは珍しいなぁって思っただけで」

「フン!なにつまらないこと言ってやがる!さっさと冷めたフィレオフィッシュ食って、仕事しろ!」

「はーい」


 自分のデスクに戻りかけた鳴門刑事が袋からフィレオフィッシュを取り出したとき、ある疑問がわきあがった。

「あ、あのー、後藤さん。どうしてハンバーガーじゃなく、フィレオフィッシュだって、わかりました」

「フン! 今なら平日特別割引だろうが!」

 ふと見ると、後藤のデスクのゴミ箱には鳴門刑事と同じハンバーガーショップの袋が捨ててあった。


 デスクに戻った鳴門刑事は、冷めたフィレオフィッシュを食べながら、権田についての過去の資料に目を通した。その中で気になる名前を発見するのにさほど時間を要さなかった。

「後藤さん、この名前、これってあの加藤三治ですよ。権田は少なからず、加藤と関わりがあったようです。いくつかの恐喝未遂事件やそのほかの容疑者の中に二人の名前が」

「なるほど。権田と加藤はもともと同じく組で、そこが解体になった後、それぞれ別の組に入り、後藤はその後組もやめている。しかし、その後も二人に何らかの関係があったということは考えられる。加藤の遺留品の携帯に権田の番号あるか?」

「ちょっと待ってください。そいつは、ちょっとすぐには……ちょっと時間かかりますね」

「どう思う?鳴門」

「急がば回れということわざがあります」

「回れっていうのは、俺たちの世界じゃ動けってことだろう?」

「そうですね。あの老人に連絡して、今夜にも行くってことにしてはどうです?」

「そうだな。しかしあの老人への連絡の仕方がわからん」

「あー、それなら、大丈夫です。つぶやけって、言っていましたよね」

「ああ、確かそんなこと、言ってたな」

「そっちは僕に任せてください。多分連絡取れると思います」

「ああ、すまんが頼む。おれは、ちっと一足先に現場に行って来るわ」

「えー、また単独で動くつもりですか」

「これはまだ捜査じゃないだろう?」

「それは理屈です。それも下手な理屈ですよ」

「下手でも何でも理屈は理屈だ。お前もそんなに時間はかからないだろう」

「わかりました。でも絶対に一人で踏み込んだりしないでくださいよ」

「ああ、わかってるって。ルールは守るさ。できる限りな」


 後藤は鳴門刑事の肩を叩き、警察署を後にした。鳴門刑事はすぐさまパソコンの画面に向かい、ツイッターにアカウント登録をした。いくつかの考えられるキーワード。拝み屋、尾上弥太郎、下駄の男といった言葉を盛り込んだ文章と「予定変更 連絡されたし」と入力した。


 しばらくすると、尾上弥太郎という男から電話がかかってきた。

「鳴門です。はい。その節は。で、実は予定を早めて……えぇ、すでに後藤は現場に向かっています。僕もすぐに向かいます。はい。じゃぁ、現地で」


 後藤が出た30分後、鳴門刑事は後藤を追いかけて警察署をでた。こうして再び、下駄の男と後藤、鳴門刑事が会うことになる。ひとりの男の死体の前で。

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