第20話 蝉時雨

「ちぃ、なんて暑さだ。こう暑くちゃ、ボチボチ昼寝も知れられてねぇ」

 笠井町の北。古池公園という大きな公園がある。公園は噴水、大きなコンクリート製のタコの形をした滑り台にはいつも子供たちの笑い声が耐えない。公園の敷地内に小さな古い池があり、子供がザリガニを取って遊んだりしている。夏休みだというのに公園に人の姿はない。暑すぎるのである。コンクリート製の滑り台は肌が触れようものなら火傷するような熱さだし、木陰ならまだしも直接日光が当たるところにいては、あっという間に汗でシャツがびっしょり濡れてしまう。いくら水分を補給しようとも追いつかない。


 権田聡は、冷蔵庫を開けて頭をその中に突っ込んだ。中には350mlの缶ビールが2本――発泡酒である。権田はこれといった定職に就かず、笠井町でぶらぶらとしながら暮らしている。ある暴力団組織に属していたこともあるが、分け合って組織からは抜けている。7年前のことである。組織から抜けたからといって権田の生活が何一つ変わるわけでもない。ゆすりたかりの類でわずかな稼ぎを得ている。少しばかりやばい仕事もするが、権田は要領がいい。用心深く、執念深い。誰かの弱みに付け込み、常に有利な交渉材料――ゆすりたかりのネタを持っている。抜け目がない。


 だが、最近はすっかり笠井町も住みにくくなってきた。権田にとって都合のいい連中が次々と排除され、笠井町の勢力はあるひとつの組織によって牛耳られようとしている。あいにく権田にはそっちの筋にコネクションはなかった。いや、なくなってしまったのというのが正しい。


「まったく、加藤があんなことになっちまうなんて、ついてねぇぜ」

 加藤三治は加賀組に所属していながら競合相手である白鷺組に情報を横流しし、小遣い稼ぎをしていた小悪党だが、そもそもその道先案内をしたのが権田である。権田は加藤をそそのかし、白鷺組のスパイのようなことをさせていたのだ。当然権田もその恩恵を授かる。しかし、その加藤が数日前、不可解な交通事故でこの世を去り、権田は大事な食い扶持を失くしたまでか、身の危険もあるという状況なのだ。加藤が死んだことで、それとわかるような証拠が出ないとも限らない。そうとなれば、自分の身も危ない。そもそも加藤の死は、単なる交通事故だとは思えない。これはきっと誰かの差し金、加賀組の切れ者、7代目組長、榊原は油断ならない男である。白鷺組の組長は自殺した。自殺は自殺だが、それは死因が自殺であって、中身はおそらく……


「消されたに違いない。だが、いったい誰なんだ?組長を消すほどの実力者がいるというなら、あの噂は本当だったのか?」


「あの噂」というのは、政界、経済界、警察、暴力団に対して裏で大きな影響力を持つ人物がいるという噂である。昨今、この人物が精力的に世の中に影響を与えるようになり、政治経済におけるパワーバランスが大きく変わろうとしているというのだ。


「こういうときは、動かないほうが利口だ。下手に動けば目をつけられる。それに俺みたいな小物を相手にしている暇は、今はないだろうからな。まずは刺激しないことだ。それにしても、この暑さだけはどうにもならんなぁ」


 手の甲で首筋の汗をぬぐう。シーンと静まった平日の昼間。ぎらぎらと照りつける太陽。風がない。窓を開ければ外の熱気が洪水のように部屋になだれ込む。ふと権田は口にした。


「そういえば、今年は蝉が鳴かねぇえな。いつもならうるさくて仕方がないのにな。まぁ、静かでいいや」

 権田は再び万年床に横になり、転寝を始めた。そして権田は夢を見た。それは7年前、権田が組をやめるきっかけになった事件。一人の女を殺めたときの夢だった。


「ねぇ、私のお金、あれは私のお金なのよ。返して、返してよ!」

「うるせえなぁ、そんなに返してほしけりゃ、競艇場にいくんだな。まぁ、返してはもらえねぇけどな」

「どうして、どうしてあなたはそうやって、人様のものを」

「なんだと、このアマ!自分のスケの銭使って何が悪いんだよ」

「訴えてやる」

「警察にか?無駄だ、無駄だ。そんなこととりあっちゃもらえねぇよ。こうして、一緒に住んでいるんだ。そんなことにいちいちかまってられるほど、ここの警察は暇じゃないんでね」

「警察じゃないわ。組の人によ。あんたがどれだけ、やばいことしているかってこと、みんなバラしてやる」


 権田はキレた。自分が誰かの弱みに付け込んでどれだけのことをしようが、微塵も後ろめたい気持ちにはならない。だが、自分の弱みを握られるのは、何よりも許せない。地味でまじめ、働いても金の使い道を知らない女。そんな女を権田は何人も食い物にしてきた。この坂口浩子という女も、そうだった。ちょっとした演出とまじめな女があまり関わることのないようなワルの魅力を見せるだけで、大体はうまくことが運ぶ。あとは相手があきれていなくなる直前までしゃぶりつくす。それだけだった。


「てめぇ、ふざけたことぬかしてんじゃねーぞ、コラァ!」

 平手で3発殴った後、勢いあまって突き飛ばした。それで女はおとなしくなった。


「おい、いつまで寝てるんだ」

 20分か30分たってもピクリとも動かない女に声をかける。反応はない。

「いい加減……」

 権田が女をゆすったとき、女はすでに息をしていなかった。運が悪かった。そして打ち所が悪かった。坂口浩子が倒れたところに3キロの鉄アレーが置いてあった。権田がさも、自分が普段から鍛えているところを見せるための小道具だ。実際権田はほとんどこれを使ったことがない。


「あー、あ。面倒なことになっちまった。こりゃ、始末書じゃすまないな」

 権田はすぐさま弱みを握っている幹部クラスの人間に電話をした。死体を片付ける段取りと、自分が組織に迷惑をかけないように責任をとるという形をとり、権田は組を抜けた。死体は権田のアパートから運び出され、どこかに埋められた。権田はその場所を知らない。権田は死体を引き渡す際に、わざと女の顔を判別がつかないようにぐちゃぐちゃにした。こうすることで、お互いに誰が誰を殺し、どこに埋めたかをわからなくする。女の身元がわかるようなものは、焼却処分した。あとは女がここを飛び出して、地方から家族宛に携帯から通話記録を残したり、葉書を出す工作をしたりする。それらは全部違う人間がやる。権田はこれまで、この手の仕事を何件も請け負ってきた。


「どーってことねー。いつものことだ。いつもの……」

 ひどい寝汗だった。シーツは人型に汗の跡がついている。いや、それ以上に怖気のするような感覚。三半規管がおかしくなりそうだ。まるで自分の空間的な居場所がつかめないような不愉快な浮遊感。


「音……何の音?」

 権田が目覚めたそのとき、いっせいに何かの音が権田の三半規管を直撃して感覚をおかしくしたのである。


「蝉? 蝉か?」

 最初、まったくなんの音なのかわからなかった。耳をふさいで始めてそれがわかった。あまりにも大きすぎて……いや、音源が多すぎて、何の音だかわからなかったのである。

「いったいどこで――」

 権田が窓を開けて外を確かめよとしたそのとき、最初はカーテンが閉まって、部屋に明かりが差さないのだと思った。しかしそれはそうではなかった。権田のアパートのベランダの窓は、すべて大量の蝉に覆われていたのである。


「な、な、なんなんだ。これは!」

 権田はカーテンを閉めた。それでも音は少しも衰えない。窓がジンジンと共鳴している。

「ふ、ふざけるな。いったい、誰のいたずらなんだ」

 権田は玄関から外の様子を伺おうとしたが、やはり玄関横のキチンの窓にもびっしり蝉が張り付いている。

「やばい、もしや……トイレの窓」

 権田のアパートのトイレは小さな窓があり、普段はそこを開けっ放しにしている。窓が閉まっているのに蝉の音が少しも遠くに感じない理由がようやくわかった。

「ち、畜生。誰だ!誰の仕業だ!」


 蝉時雨――夏の日、林や森の中で蝉が大量に鳴くとまるで雨のように聞こえる。権田の部屋は局地的な蝉時雨によって洪水状態になっていた。


「こ、こんなところにいられるか」

 権田は意を決して外に出ようと玄関のドアノブに手をかけた。


「なんでだ!なぜ開かない!」

 権田がいくらドアノブをまわしても鉄製のアパートのドアはビクともしない。そんなことはありえない。ありえないが、今こうして、事実権田は自分のアパートに閉じ込められているのだ。ドアを叩く。助けを呼ぶ。蝉の鳴き声がまた一段と激しくなる。権田の声は、外の誰にも聞こえなかった。


「こんなことありえない。いったい何だって言うんだ!誰も助けに来ないのか?」

 当然騒ぎになってもおかしくない状況だ。アパートが蝉に囲まれているのだ。周りの住民だって気づくはず――周りの住民?


「そうか、もしかしたら、今日、このアパートには俺だけしかいないのか」

 このアパートはいわくつきのアパートで、権田を始め、不法に入国した人間や、一時的に身を隠すために住んでいる人間が多い。権田も普段からここにずっと住んでいるわけではない。何もやることがないときに横になるだけの場所である。しかもすぐそばには大きな公園があり、普段であれば蝉がずっと鳴いている。たまたま今年は蝉が鳴き始めるのが遅かっただけで、蝉の音自体は異常ではない。暑さのあまり、人通りも少ない。外からの助けは、当てにできないかもしれない。


「くっそう。なんだっていうんだ。気が狂いそうだ……この音、この音」

 否応なしに蝉の鳴き声が権田の耳を攻め立てる。ミンミンという音もあれば、ジージーと言う音もある。ヒグラシいるようだ。しばらくすると、その音はまるで何かの意味を持ったような不協和音のシンフォニーを奏で始めた。


「女、女のうめき声、泣き声か、こ、これは、こいつは、あの女か……」


 キキキキキキ


 ギーギーギーギー


 ぐ~る~じーい~じーい~


 キキキキキキ


 ギーギーギーギー


 ぐ~る~じーい~じーい~


 それは悲痛な女の叫び。あるいはうめき声。鳴き声。うらみつらみを訴えるうめき声。


 5分もしないうちに、権田は嘔吐した。しかしトイレにはいけない。洗い物がそのままになっている台所に嘔吐した。嘔吐した目の前のガラス戸には蝉がびっしりと張り付いている。それを見てまた吐き気を催す。


「助けて……助けてくれ」

 携帯電話を手に取り、片っ端から電話をするが、通じはするものの会話ができない。蝉の音がうるさくて、相手の声も、たぶん、こちらの声も聞こえないのだ。


「メール、メールなら」

 しかし、まともに文書が作れない。蝉の音に神経がすっかり麻痺してしまっている。散文的な文章しか書けず、意味不明なメールを片っ端から送りつけるも誰からも返事が来ない。


 権田はどん詰まりの窮地に追い込まれた。

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