第3章 蝉時雨

第19話 暑い夏

 今年は蝉の鳴き声が聞こえない。そんな話が巷で話題になっていた8月のある日……


 6月のうちに真夏日を観測するような暑い夏。この暑さにふさわしい蝉の鳴き声が今年はまだ聞こえない。去年の夏はアレほどまでにけたたましく鳴り響いていた蝉の鳴き声――去年はとくにその印象が強い。初めて子供と虫かごをもって蝉を採りに行ったから、なおさらその記憶は鮮明だ。ともすれば手が届くような背の低い木にも蝉が止まっていることもある。30分もしないうちに虫かごは蝉で一杯になった。物足りないという表情で私を見上げる子供の表情を愛しく見つめた。


「今年はいつ会えるかなぁ……」

「後藤さん、どうかしましたか?」

「あ、あぁ、いやなに、今年は去年ほど蝉が鳴かないなぁとか、そんなことを考えていたのが嘘みたいだなって、思いふけってたわけよ」

「しかし、こんなことってあるんですか?」

「ねぇよ」

「あ、ねぇよはないでしょう」

「他にどう答える?お前なら報告書になんて書くつもりだ?」

「あ、それは……原因不明の蝉の異常発生」

「ふん。そんなことはきいちゃいないよ。どんな人間にせよ、この法治国家では人が死ぬには理由が必要なんだ。老死、病死、事故死、自殺、殺人。どうしたって死因というのが手続き上必要だ。こいつはなんだ?事故死か?自殺か?」

 後藤の口調はイラついてはいたが、それは部下の鳴門刑事に対してではなかった。


「まるで傘の事件と同じですね。事故死としか、報告書には書けません」

「まったくだ。あの老人と関わるようになってから、こんな話ばかりだ」

「別に、あの老人が、あの尾上弥太郎っていう男が関わっているわけではないでしょう?」

「ああ、そうだ。俺が不機嫌なのは、関わりがないとわかっていても、あの下駄の男の力を借りなければ、真実がわからなかったってことさ」

「しかも、それを公にはできない」

「ああ、まったくだ。気持ちが悪いとは思わないか?」

「今回の事件……蝉が……ですか?」

「ちがう。すっきりしないってことさ。法律という枠で処理できないことはこの世の中には山ほどある。俺はそういうものをたくさん見てきたし、やっても来た。だがこれは……これはなんというか、俺の領分じゃない」

「まったくです。不思議というか、なんと言うか」


 2体の死体がある。ひとつは、つい2日ほど前に死んだ男の死体。権田 聡 45歳。聡笠井町のとあるアパートに一人で住んでいる。もと暴力団組員。恐喝、暴行、詐欺などのいくつかの事件の容疑者ではあるが、これといった証拠もなく、また被害者からの被害届けが取り消されたこともあって、逮捕には至っていない。これといって組織的な犯罪の重要参考人ではなかったので、江戸川南警察署の捜査線上からは消えていた。


 しかし、後藤はこの男のことを覚えていた。それは7年前。まだ鳴門刑事と組む前のこと。ある人物の捜索願が出された。笠井町に住む、ある一人暮らしのOLが行方不明になったのだと、その妹から捜索願だがされたが、これといって捜査が進展する前に、捜索願が取り消された。後藤の管轄ではないこの事件に関わるようになったのは、その妹が、ある男が姉の行方を知っているに違いないと訴えたからである。その男が、権田聡である。行方不明になったのは、都内勤務のOL 坂口 浩子当事26歳 独身。妹の由紀子によれば、数年前、姉の浩子がホステスのアルバイトをしていたとき、権田と知り合い、それから深い関係になったのだという。そのことは裏が取れている。たしかに、そういう事実はあったようだ。そして、よくある話だが、権田は浩子のヒモ同然の暮らしをしていたらしい。


 7年前、とうとう嫌気がさした浩子が、権田の下を飛び出し、会社を辞めて地方に逃げした。という話なのだがそれっきり浩子の行方はわからないままだ。当然、権田に事情聴取が行われたが、浩子失踪に関わるものはなにも出てこなかった。そして、何度かの無言電話。浩子と思われる手紙や電話が横浜、名古屋、大阪からあり、それ以来、音信不通になったことから、事件性はないと判断されたのだ。後藤は別件で権田をマークしていたので、それも合わせて捜査に加わったのだが、結局組織ぐるみの犯罪に権田が関与していないことがわかると、後藤は捜査から手を引かざるを得なかった。


 2体の遺体のうちのもう1体は、その坂口浩子のものである可能性が高いのだ。腐乱がひどく、鑑定してみなければわからないが、遺留品からその可能性は非常に高い。権田の遺体は、アパートの前。階段から転げ落ちて首の骨を折り死亡した。形の上では事故死である。坂口浩子の遺体は、その権田のアパートのすぐ近くにある公園から見つかった。都会の死角である。


「権田という男、定職に着かずに、組織からも足を洗ってどうやって食っていたのでしょね」

「ゆすりたかりの類、おおかたそんなところだろう。今回の件、死体遺棄の容疑が権田の殺人と死体遺棄だとして、とてもひとりでそれをやったとは思えん。まず、組織の誰かを個人的に使ったんだろうが」

「それで組を出たと?」

「まぁ、権田には敵も多かったと聞いている。なにせ権田がヘマをするたびに、誰かが後始末をしていたらしいからな」

「そんな人間、それまでよく組織においておきましたね」

「そこが権田のいやらしいところさ。相手の弱みを握って骨までしゃぶる。根っからのワルだよ。あいつは」

「根っからのワル……ですか?」


 後藤にとって組織の、それも中枢に行け行くほど、管理体制がしっかりしていて、プロ集団として行動原理が当てはまり、何かあっても組織と警察との間の妥協点と言うものがあるというのだ。鳴門刑事には今ひとつ納得の行かないこともあるが、少なくともこの街の――笠井町の安全がそれで保たれるのなら、そういうこともあるのだと自分を納得させることに少しなれた頃だった。後藤はそれを最大限に使い、もっとも最良の妥協点を見つける。だが、末端に行け行くほど、より個人的な要因による犯罪が増えてくる。ことが組織的な怨恨や経済的な問題に根がある場合は組織の論理で何とかなるが、こと個人的な問題になれば、そういう制御が及ばない。権田はそういう男である。


「それにしても、権田が再び捜査線上に上がったこのタイミングでっていうのはどうなんです?単なる偶然でしょうか?」

 鳴門刑事は後藤の返事を待ったが後藤は何も答えない。後藤自信、その疑問を誰かにぶつけたいと思っていたからである。そしてそれに答えられそうな男はあの男、下駄の男しか思いつかなかった。


 下駄の男――尾上弥太郎。江戸川南警察署の組織犯罪対策部、いわゆるマル暴の後藤刑事と鳴門刑事は5日ほど前、ある交通事故を追いかけているうちにこの男と接触した。その交通事故というは暴力団関係者が次々と雨の日に笠井町で車にはねられ事故死するというものだった。拝み屋の自称 尾上弥太郎の協力で事件の真相に迫ることが出来た。しかしそれは、警察が処理できるような内容ではなかったのである。そして今回の事件も、結果的に後藤たちの手に負える事件ではなかった。その事件が始まったのは2日ほど前のことである。

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