第18話 エピローグ
「では、これを、お願いします。でも、大丈夫ですか、この傘は……」
真壁は下駄の男に傘を渡した。愛着のある傘だが、未練はなかった。しかし他人にこの傘を託すのは、たとえそれが下駄の男であろうと心配である。なんと言っても、この傘には不思議な力が宿っているのだから。
「ふむ、心配はいらん。わしを誰だと思っちょる」
下駄の男は、傘を受け取ると、その場で傘を開いた。傘の中心部分、骨と柄が集まる一点にひとさし指を滑らせ、くるくると小さく回した――まるでトンボを捕まえるときのように。するとその指先に黒い、糸のようなものが巻きついている。髪の毛――それはあの日、真壁の頭髪から引き抜いた一本の髪の毛であった。下駄の男は指先にふっと、息を吹きかける。髪の毛はどこかに飛んでいき、所在がわからなくなってしまった。真壁の目には、空中に溶けていってしまったように見えた。
「これで終わりじゃ。あとはお主次第じゃよ」
下駄の男は、真壁の肩に手を置いて真壁を見つめた。肩に置いた手は力強く、眼光は鋭い。
「わかりました。この部屋はもう、引き払おうと思います。この街を、東京を出ようかと思います。」
「そうだな。いい結論じゃ。後藤よ、かまわんな」
「え、ええ、別に具体的な容疑者というわけではありませんし、連中も東京を出てまで、この件は追わないでしょう」
「ご、後藤さん、いいんですか?」
「鳴門、どう考えたって、真壁の名前が出るような報告書はかけないだろう。それに二人を襲った連中だって、もう手出しをしないだろうし、それに……」
「なんです?後藤さん」
「い、いや、なんでもない、少しばかり、考えすぎかもしれんが、あの二人は別件でも十分に引っ張れるだろう?」
「まぁ、それはそうですが……」
鳴門刑事は不満であった。この事件の真相が、明るみになる事がないのはわかる。しかし、頭でわかるからといって、感情や感覚がそれをゆるさないこともある。たぶん、後藤もそうに違いないのだ。が、自分よりもこういうことへの割りきりは後藤は早い。そしてむしろその事が、鳴門刑事を苛立たせているのかもしれない。
「よし、いくぞ。やはり気になることは先に片付けておかないとな」
「え?なんです?気になることって」
「もういちど白鷺組に行くぞ。署に戻るのはそれからだ。じゃぁ、拝み屋のオッサン、世話になりました。いろいろと面白いものも見せていただいて、また、近々お会いすることもあるかもしれませんが、今日はこれで引き上げます」
下駄の男は、後藤に近づき、真壁にしたように後藤の肩に手をおいた。
「なかなか面白い男よ。後藤、また会う日も、そう遠くはないじゃろう。なにかワシに頼りたい事があれば、つぶやけばいい。すぐに駆けつけてやるわい」
「な、なんですか、それ、呟くって?」
「鳴門刑事、あとで主にメールをするから、それで後藤に教えてやってくれ」
「は?で、でも、僕のメールアドレスなんて」
「ワシを誰じゃと思ちょる。袴田元気じゃぞ!わしは少し、この場所に用事がある。さぁ、とっとと行かんか!」
下駄の男は部屋から二人を追い出した。
「な、なんだ、『はかまだ げんき』って?まぁ、いい、いくぞ。車拾うぞ」
「は、はい」
後藤と真壁刑事は、急いで真壁のマンションを出た。そして、大通りに出たところで車を拾う。不意に鳴門刑事が笑い出した。
「な、なんだよ鳴門?お前までおかしくなったのか?」
「い、いえね。後藤さん、あの老人は本当に食えないというか……『はかまだげんき』って、もしかしたら、ハッカー、まだ現役とか、そういうことじゃないかって」
「フン、拝み屋が!」
車は白鷺組の事務所があるビルに向かっていった。一方下駄の男は、真壁を連れて、部屋を出ていた。一階のロビー。
「わるいがのぉ、管理人に話しかけてくれんか?部屋に誰か侵入した形跡があるとか何とか行って、部屋まで連れていって、そう5分くらい足止めしてくれんか?」
「はぁ、でも、なんで?」
「ちとな、防犯カメラの映像に細工をな」
「ちょ、ちょっとそれは……わ、わかりました。もしかしたら、これで」
「そうじゃ、これでお別れじゃ。主とはもう、二度と会うこともあるまい」
「そうですか。こういうとき、お礼を言うべきなのか、お詫びを言うべきなのか、ワタシには……」
「礼は形のあるもので、詫びは誠意でするものじゃ。ワシは誠意でことに当たったわけでも、礼でもない。これは仕事じゃ。詫びも礼も不要じゃよ」
真壁はしばらく下駄の男を見つめ、そして頭を下げた。
「お疲れ様でした」
「うん、お疲れじゃな」
「では、失礼します」
「あー、失礼する」
真壁と下駄の男はそこで別れた。下駄の男は管理人室の中に入り、ビデオに細工をし、下駄の男が出入りした時間の映像を消去した。
その後真壁は、東京を離れ、地方勤務へ写った。以来、真壁は二度と下駄の男と会う事はなかった。なにも変わりのない生活を送り始めた真壁であったが、一つだけ、変わった事がある。
それは、ビニール傘を使うようになったことだ。
「武井はいるか。江戸川南署の後藤だ」
後藤と鳴門刑事は白鷺組の事務所の前にいた。
「お待ちください。すぐにお呼びします」
先ほどとは、明らかに対応が違う。それだけじゃなく、なにか様子がおかしい。
「どう思う?」
「なんか、あったみたいですね。どうも様子がおかしい気がします」
事務所の前には数台の車が止まっている。どうもあわただしい感じがする。やがて武井が現れた。
「後藤さん、どうも、実はちょっと、問題が起きておりまして……あー、ちょうどよかった、警察にご連絡しようかと思っていたところです」
「どういうことだ?なにがあった?」
「失礼」
武井は胸のポケットからタバコを取り出し、火をつけた。眉間に寄せた皺は厳しく、吐いた煙を疎ましく睨んでいた。
「組長が死にました」
「なに?」
「組長が死にました。自殺です。どうしましょう?」
「自殺?自殺だと!どういうことだ!」
武井が言うには、こういうことらしい。後藤の要請で武井が組長に電話したあと、20分位してから、組長は事務所にもどり、何本かの電話のあと、人払いをして、5分もしないうちに、銃声がし、中に飛び込むと組長の頭は吹っ飛んでいたということらしい。
「おい、その何本かの電話って、誰からだかわかるのか?」
「どうでしょう?事務所の通話記録で調べてください。まぁ、それで足がつくような連絡で、こういうことになったとは、わたしには思えませんが」
「お前、予測していたのか?」
「まさか、後藤さん、いくらわたしでも、ここまで事態が急に進むとは……」
「早すぎた、とうだけで、概ね予測できたということか?」
「ヤクザもんの言うことを真に受けちゃいけませんよ、後藤さん。ワシらは毎日タマの取り合いやってんですよ。カタギの連中とは違う。常にこうなる覚悟はしてるってだけです」
後藤は武井の言っていることは理解できるし、実際そうだと思う。しかし、どうも、何か隠しているような気がしてならなかった。だが、あまりにもそれが漠然としすぎていて、どうにも攻め手がなかった。
「まぁ、いい、ともかく、現場を……いや、すまんが警察に連絡してくれるか?そのほうが動きやすい、それから……」
「えぇ、今日、あなたがたがここに来たことは、必要がない限り、しゃべりません。そういうことでよろしいですか?」
「あー、片付けたいものがいろいろあるなら、いまのうちやっておけ。そんなに時間はないと思うがな。で、武井、お前はこれからどうする?」
「まぁ、どうするもこうするも、上次第ですが、多分白鷺組は解散。シマは、他の組に統合されるでしょう。おそらくは……」
「榊原のところか」
「えー、おそらく」
「榊原か……結局、一番得をしたのはやつか」
「まぁ、あちらも3人も立て続けに不慮の事故で人材を失ってますからね」
「榊原の下につくか?」
「さぁ、私と奴の間には、少々因縁がありましてねぇ……私は、そういうことを、簡単に割り切れる男ではありませんから、では、やらなきゃならないことが山積みなのでこれで失礼します。今回の件、感謝はしてませんが、一応礼だけは、言っておきます。世話になりました」
鳴門刑事は黙ってことの成り行きを見守っていた。こういうとき、自分はどうしていいのかわからない。いや、じっくり考えれば、いいアイデアが出るかもしれない。後藤は判断が早い。しかも、こういうときの後藤の判断が間違っていたことはなかった。
「行くぞ、取り急ぎ署に戻って、体制を立て直す。お前は先に戻って、署長に報告しろ。途中で俺を見失ったと」
「ご、後藤さん!」
「心配するな。ちょっくら行って、アリバイを作ってくる。なぁに。この街には俺に借りがある連中なんざ、五万といる……いや、正確には5人か」
「知りませんよ。どうなっても……じゃ、キヨのママの店で見失ったってことで良いですか?」
「あー、それでいい。あとは俺のほうで絵を描いておくから」
鳴門刑事は署に戻った。後藤は駅の繁華街にある「キヨ」という店に行き、口裏を合わせるように頼み込んだ。昼間は喫茶店、夜はカラオケバーをやっている店で、このあたりではかなりの古株だ。ちょっとした情報屋でもある。
「ママ、いつもすまないなぁ。ところで、サラマンダーって昔あった暴走族が復活したって話、あれは本当か?」
見た目は40歳くらいだが、実際にはもっと歳をとっている。後藤が始めてこの店を訪れたときから、ほとんど見た目が変わっていない。噂では、若い恋人をとっかえひっかえにしているらしいが、その噂が本人から出ているもので、他からは聞こえてこない。これはきっとガセだろうと、後藤は思っている。
「その話は聞いた事があるけど、以前のサラマンダーとは、どうも違うみたいね。表立ってはほとんど動いていないって話よ。だから、噂だけで、本当の所はわからないわね。前は、うちみたいな店にも、勘違いした連中が来たりしていたものだけど……」
「そうか……何かわかったら、連絡を、じゃ、あとはお願いします」
「えー、たまには飲みに来てね」
店を後にする。後藤の携帯に連絡が入る。署からだった。
「わかりました。現場に急行します」
翌日の新聞に小さな記事が載る。
『笠井町の暴力団幹部、拳銃で自殺』
当然に銃刀法違反で捜査が入り、事実上白鷺組は消滅した。様々な捜査が行われたが、それ以上、何ひとつ事件の証拠になるようなものは出てこなかった。『謎の死』ではあるが、自殺ということは疑いようもなかった。
「後藤さん、これはやはり、あの事件に関係が……」
「わからん」
「だって、二人の証言によれば」
「二人?だれだそれ」
「あの、ハッカージジイと真壁ですよ」
「存在しないもの、関わりのない者の話が、なんでここに出てくるんだ?」
「そ、そんなぁ」
笠井町の南、繁華街からはだいぶ離れたところの工業地帯。廃工場になったところに2台のバイクと二人の男の血痕が発見されたのは、あの日から1週間たってからのことである。二人が現場に訪れたのは、そのバイクの持ち主が、どうやらサラマンダーと関係があるのではないかという、キヨのママの情報からであった。
「二人を襲うように命令されたが、途中でそれが変更になった。だが、その情報が届くよりも、先に二人を襲い、その後、始末のために二人はバラされ、命令をした組長が自殺」
「鳴門、それには少し無理があるな」
「なんでです?」
「二人をバラすまではいいが、なんで組長が自殺をしなきゃならん?」
「そ、そうですよね。だとすると他に黒幕がいてとか、そういうことなんでしょうか?」
「ふん!こんな街に黒幕とか、影の支配者とか、いると思うか?」
「それは、そうですけど、じゃぁなんで」
「わからん、だからわからんと言っている。もっとわからんのは、ドラゴンスケールだ」
「メンバーらしき人物と接触して、リーダーらしき人物が、最近行方がわからないっていう……」
「しかも、その親の反応、あれは絶対になにか隠しているに違いない」
この現場に来る前に、後藤と鳴門刑事は解散したはずのドラゴンスケールが最近復活したという情報を調べていた。確かに、そういうことはあったようなのだが、これといって活動をしているわけでもなく、それでもメンバーのうち頭をとっていたという『橘 裕二』という男を探り当てた。笠井町で花屋を営む両親の話では、もう何日も連絡がないという。捜査願いを出すかと聞くと、かたくなに拒んだ。いつものことで、まわりに迷惑をかけているので、申し訳ないというのだ。それはわかる。しかし……
「脅されているのか……」
後藤は、この事件の闇が、想像以上に深いことを思い知らされた。だが、後藤が動けるようなことは何一つなかった。おかしいからといって、なんでも捜査できるものではない。警察の領分ではあるが、それがすべて後藤の領分というわけでもない。
後藤と鳴門刑事が帰った後……
「あなた、本当にこれで、良かったのかしら?」
「仕方がないさ、裕二の命がかかってるんだ」
「でも、本当にあの子は無事にいるんですか?」
「でも、信じるしか、信じるしかないだろう、あんなものを見せられては……」
橘裕二の母親は、堪えられなくなり、部屋の奥へ飛び込んだ。嗚咽が漏れる。父親は必死で耐えていた。息子はもう、死んでいるかもしれない。だが……
5日ほど前、店を開けようとシャッターを開けると、そこに小包が置いてあった。宛名のない小包には、宅配便の「なまもの」のシールが貼られていた。橘裕二の父親がその小包の開ける。包装紙、新聞紙、そして小さな箱。中には小さなビニール袋になにかが入っている。良く見るとそれは切断された人間の指であり、その指には見覚えのある指輪が……間違いない、それは息子、裕二の指だった。
箱の中には一枚のメモ書きがはいっていて、こう書かれていた。
『息子の命が惜しければ、他言無用、さもなくば今度は息子の首が家の前にさらされることになる』
カラン、コロン、カラン、コロン……
夜の街に下駄の音が響く。その音はあるビルの中に消えていく。
「お待ちしておりました。どうぞこちらに」
美しい、若い男がひとり、下駄の男を部屋の奥へ案内する。
「失礼致します。お客様を御連れしました」
小さなノックの後に、美しい、若い男は静かにドアを開ける。なんともいえない圧迫感が、部屋の中からあふれ出る。
「終わったぞい」
部屋に入るなり、下駄の男が声を上げる。その越えは老いてなお闊達であり、部屋の淀んだ空気を一瞬振り払った。
「すまない。こちらで手違いが合ったようで、すこし迷惑をかけたようじゃな」
「いやいや、ちょっとした運動になった。かすり傷一つ負っておらんわい」
「それは良かった。で、首尾はどうじゃ」
「フン、それよりも2~3、聴きたい事があるんじゃがな」
「聞きたいこと?さて、どんなことかのぉ、わしの、すぐに答えられることならいいんじゃがな」
しわがれた声の主は、下駄の男とは正反対の声の質をしていた。しわがれた声の主の放つ波動は、話す相手を圧倒するような威圧感、それになんとも言えないいやらしい視線にさらされる。普通の人間であれば、吐き気を催すようなプレッシャーだ。
「依頼のとおり、事件は解決じゃ。ことの真相を知りたいか?」
「いや、その必要はない。お主が解決したというのなら、そうなのじゃろう。なにか、証拠の品でもあれば、それでいい」
「ふん、どうせそう言うと思っての。ほれ、これじゃい!」
下駄の男はレジ袋から何かを取り出した。それは怪獣の人形のようだった。
「ほう、それは?」
「触れてみるか」
「おー、触れてみるかのぉ」
下駄の男はゆっくりとしわがれた声の主に歩み寄り、手に持ったもの――ソフトビニールの人形を手渡した。
「ほー、ほー、なるほど、これはなんとも禍々しい。タイラントというのか、これは」
人形の足の裏には怪獣の名前が記述してある。普通の怪獣の人形とは明らかに違う雰囲気をもつそれは、まるで生きた怪獣のようであり、それは怪獣というよりは、悪魔のようであった。
「これはなかなか面白いものを見せたもらった。で、もう片方の手に持っている傘には何か意味があるのか?」
「ふんん、あざといのぉ。そうじゃ、あの三人は、この傘を盗んでのぉ、バチがあたり、その有様よ」
「おぬしの仕業か」
「まぁ、そういうことになる」
「ちがうな」
「あー、ちがう」
「で、どうなのだ」
「だから、おわったと、言っておる」
恐ろしいほどの静寂。何一つ動かない、いや動けないような空気の中で、美しい、若い男は思わず窒息しそうになった。
「まぁ、よい、で、聞きたいことというのは?」
「ワシを襲ったあの二人組み、どうした?」
「始末した。その監督責任者にも、しっかりと責任をとってもらった」
「惨いのぉ」
「あぁ、惨いが、これがワシのやり方じゃ」
「で、これで終わりか?」
「あー、終わりだ」
「後藤の件も」
「あー、後藤か、後藤な……それはわからん」
「わからんか?」
「あー、まだ、わからん。あのもの次第じゃ」
「そういうことか」
「そういうことじゃ」
「頼みがある」
「なんだ、珍しいな」
「それをくれてやる代わりに、後藤の件、わしに預けてくれんか?」
「ほれたか?」
「ふん! 馬鹿なことを!」
「まぁ、いい、主が見込んだのであれば、それならば、よい。じゃが……」
「わかっておる。ルールはルールじゃ」
「そういうことじゃ」
「用事はそれだけじゃ」
下駄の男は、しわがれた声の主にくるりと背を向け、出口に向かって歩き出す。ドアのそばまで来ると振り向かずに呟いた。
「闇の力は増してきておる。本来、ここまでのことにはならん。人の世が乱れるのは勝手じゃ。ワシには興味のないことじゃ。じゃが、そんなものを増幅しようなどと、そういうことには、加担する気はない。今も、これからもじゃ」
「塔はまもなく完成する」
しわがれた声の主は、静かに答えた。
「誰にも止められんし、誰にも邪魔はさせん。たとえそれが……」
「失礼するよ」
下駄の男はドアを開けて出て行った。その後姿に向かってしわがれた声の主は小さな、小さな声で言った。
「かつての同士であろうともな」
下駄の男が去った後、入れ替わるようにひとりの男がしわがれた声の主を訪ねた。
「お呼びでしょうか?」
「7代目、すべて終わったよ」
「はあ?」
「7代目の抱えていた問題はすべてあの下駄の男が解決してくれた」
「そのことと、関係があるかどうかはわかりませんが、白鷺組の……」
「お前が引き継げ」
「はあ? わたしが、ですか?」
「回りくどいのは好かん。わかっておるだろうが、ワシの意に沿わんことはくれぐれもしないことだな」
「はい、肝に銘じて」
榊原はずっと気になっていた。しわがれた声の主が手に持っているもの。子供の頃に見た記憶がある。もしかしたら持っていたか?怪獣の人形。ソフトビニール製のそれは、しかし、とても作り物とは思えないほどに生々しく、しかも禍々しい。「それはなんです?」と一瞬聞こうとしたとき、しわがれた声の主が先に口を開いた。
「後藤からは眼を離すな」
「はい、すでにひとりつけております」
「ふん、手回しのいい」
「ただし、手は出すなよ。白鷺組も加賀組もワシにとっては取るに足らん。白鷺組のようになりたくなければ、今から言う3つのことを守るのじゃ」
「3つ」
「逆らうな、謀るな、侮るな」
しわがれた声の主は合図をして榊原に帰るように促した。不思議な感じがした。あの人形、以前どこがで見たか、或いは……不思議と知っているような感覚、懐かしい知り合いに出会って、でも、名前も誰なのかも思い出せないようなもどかしさを感じていた。
なぜだ?
余計なことを聞くことは、命に関わる。榊原が諦めて部屋を出ようとしたとき、不意に呼び止められた。
「あと、ひとつ。塔には関わるな。いいな」
榊原はしわがれた声の主に深々とお辞儀をして部屋を出た。帰りの車の中、窓の外は闇だが、空に突き刺さる鉄の塔が眼に入った。
なぜだ?
「なぁ、東京スカイツリーは、いつ完成だ?」
「たしか、来年の12月とかだったと」
「そうか、来年か?」
「そういえば、最近あのあたりに妙な噂があるのご存知出すか?」
「妙な噂だと?」
「えぇ、なんでも、あの塔の周りで最近妙なことが起きているようで――」
運転手の話に耳を傾けながら、榊原は塔を見ながら呟いた。
「逆らうな、謀るな、侮るな……そして、塔には関わるな、か」
下駄の男は、荒川の土手にいた。そこから東京スカイツリーは実に良く見える。闇に突き刺さる鋼鉄の塔は、いつになく禍々しくその姿をさらしている。
「このまま、何事もなく、というわけにはいかんじゃろうな。猫が一匹、下駄の男の足元で甘える。白と黒の模様が見事に左右に分かれた変わった猫である。
「団十郎、どうじゃ? 今日も変わりないかのぉ」
団十郎と呼ばれた猫は、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、額を下駄の男の足にこすり付けてくる。
「そうか、そうか。おぬしが見ていてくれるおかげで、ワシも安心して仕事ができる。今のところは大きな動きはないようじゃな。しかし、ワシのシキガミでは近づけないほど、禍々しい気を発しておる。どうにも、困ったことじゃ」
カラン、コロン、カラン、コロン……
誰もいない荒川の土手を、下駄の音が鳴り響く。
カラン、コロン、カラン、コロン……
そして、闇の中に消えてゆく。
下駄の男~おわり
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます