第2章 下駄の男

1 下駄の男

第7話 招かれざる客

「ふー、ひでー雨だなぁ」

 ラーメン店に入ってきたその男は、招かれざる客であった。人は見た目で判断してはいけないと、子供の頃に教えられた。しかしそれは、時と場合による。家に風呂がなかったワタシは、週に3回、近所の銭湯に通っていた。


 大人は『見た目で人を判断するな』と子供に言いう。それも時と場合によりけり。背中に絵の描いてある男の近くには、一定の空間ができていたし、『ねぇ、どうして背中に絵が描いてあるの?』と竜や虎の絵に向かって指をさす子供の指は、保護者によって目立たないように無理やり下げられる。


 人に指をさすんじゃない――問題がいとも簡単に挿げ替えられる。


 我々の社会は常にダブル・スタンダードの中にある。それは決して忌むことではない。世界は一つではなく、幾多にも分裂し、分かれ、互いが干渉しあっているのだ。グローバル・スタンダードなどというものが必要とされること自体が、多種多様の規範が存在することを証明している。


 招かれざる客は、明らかに我々――店員3名、カウンターの奥の席に座るワタシと、二つ席を置いてサラリーマンらしき2人組み、テーブル席の学生3人組みとは違う世界に生きていることがわかる。頭のてっぺんから足の先まで、刑事ドラマに出てくるようないわゆる『かたぎ』ではない人間だった。


「餃子定食とビールくれ」

 店員が水を運ぶよりも早く、大きな声で自分の要求を相手に伝える。男の存在に気付いていなかった学生3人組は一瞬会話を止めた。だれもヴォリュームを揚げていないのに、テレビの音量が上がったような気がした。


「現在、東京地方に大雨洪水注意報が出されております」

 夕方の情報番組では新宿や渋谷、品川の駅周辺の映像を流している。新宿はまだ降っていないらしいが、品川はかなりの雨だ。そしてついさっき、このあたりも強い雨が降り出した。


 ワタシは外出先からの帰り、昼飯を食べ損ねたので遅い昼食をこの店でとることにした。


 セットメニューは注文しない


 近所の書店で衝動買いした――それを衝動買いというのかどうかはわからないが――スティーブン・キングの短編集を読みながら、背油の浮いたこってりした醤油ラーメンを食べていた。男が訪れた時点で麺は食べつくし、スープをすすっていた。ここからが長い。麺を食べながら本を読むと、どんなに慎重に食べてもこってりの油を含んだスープの汁が本に飛び散る。ワタシはそれが許せなかった。だから麺を食べ終わってから本を読み始める。無論、スープを最後まで飲みきるという、ワタシなりの作法、美味いものを食べさせてもらったことに対する礼節は尽くさねばならない。


 キングは短編がいい。それにワタシのライフサイクルには長編は向いていない。と、いうよりはこうして外で食事をしたり、移動の合間にしか本を読まないワタシにとって『ダーク・タワー』は長すぎる。


 家では小説を読まない


 学生の頃から本を読むことにはあまり関心はなかった――というより嫌いだった。社会人になり、移動時間の暇つぶしにたまたま買った本がキングの短編集だった。短編といってもキングの短編は映画の原作の宝庫だ。最近のものでは『ミスト』が良かった。ワタシは何度も繰り返してみた。実に興味深い作品だ。あのシチュエーションを妄想するのは実に楽しい。


 たとえば今、この店に閉じ込められたらどうなるか……おそらくあの招かれざる客を中心に話は進むだろう。カウンターを仕切っているあの店員は結構当てになるかもしれない。よく店を切り盛りしている。多分……最初の犠牲者は先ほど注文を採りに来たバイト君だろう。君は真っ先に「様子を見て来い!」と招かれざる客に命令されて、異形のものの餌食になるだろう。


「うー、あちぃなぁ」

 招かれざる客は、急な雨に降られて慌てたのだろう。この店に入ったのは、予定の行動でとはちがうのではないだろうか。腕時計――自己主張が過ぎる、ワタシの嫌いなタイプの腕時計を何度か見ながら「まぁ、いいか」とつぶやくと、カウンターに置いてあったスポーツ新聞を広げて注文の品が届くのを待っている。


 雨宿り……か。

 予定変更だ。

 まぁ、いい、確立は……今日の降水確率ほどではないが、条件はそろっている。あとはあの男次第だ。決めるのは、ワタシじゃない。


 先に席を立ったのはサラリーマン風の二人組みだった。おそらく外回り営業の上司と部下という関係だろうか。やや恰幅のいい中年男は、エネルギーがスーツを着て歩いているような印象だ。その部下と思しき細身でよく言えばスタイリッシュな青年は、入社して間もない新人という初々しさは感じられない。こなれた身のこなし――エリートか、エリート崩れか、鼻持ちならない自信家といったイメージだ。


「雨、まだ結構降ってますねぇ」

「あー、ここのとこ、ずっとこんな感じの天気だよなぁ。まったく、折りたたみじゃあ傘差してもスーツがびしょびしょだよ。ないよりかはましだけどな」


 レジは出入り口のすぐそばにある。「会計は別々で」まぁ、そうだろう。二人ともカバンから折りたたみの傘を取り出した。使い古されたシワシワの傘と、折り目のきっちりついた下ろしたての傘が二つ、まるで滝の中に飛び込むように雨の中に消えていった。


 まぁ、外回りのサラリーマンなら、この時期、折りたたみの傘は欠かせないだろう。しかしワタシはどうにも折りたたみ傘は好きにはなれない。無論その機能性は特筆すべきものがあるのだが、使った後、きれいにたたむのが面倒だ。少しでも気を抜くとシワになってしまうのが、どうにも許せない。しかしそれにも増してワタシが許せないのはビニール傘だ。


 ビニール傘は使わない


 まさしく大量生産、大量消費、道具に対する冒涜である。もちろん、ワタシも使うことはある。ビニール傘が嫌いだからといって、雨に濡れることをよしとはしない。選択肢がそれしかなければ、仕方がないと思う。だが、それでも許せない。あんなものが存在するから物を大事にしなくなるのだ。


 大事に思わないから……思わないから、人様の物でも勝手に……


 学生3人組はすでに食べ終わってはいるが、この雨の中、外に出なければならないほど、スケジュールに追われてはいないようだった。時間を持て余す――まさにそんな感じだ。まぁ、学生の頃は時間は無限にあるように思えるものだ。しかし無駄に消費した時間は、いつか必ず自分に返ってくる。あの時もっと、時間を有効に使っていれば……それに気付くのは、早いほうがいい。


 ところで、今読んでいるキングの短編集は本当に面白い。『もしも誰も人が寄り付かないようなところで仮設トイレに閉じ込められたら――』という発想はゾクゾクとする。確かにあのトイレに入って、ドア側に下にして横倒しになってしまったら、まず自力で脱出することは不可能に近いだろう。それに、かりに排泄物をためるタンクから外に出られると思っても、果たして自分にそれが実行できるかどうか。


 狭い穴に入り込んで身動きできなくなる経験は、子供の頃誰もがすることではないだろうか?頭は入ったものの行くに行けない、引くに引けなくなったとき、もう一生このままここから動けないのでは?という恐怖に苛まれる。あれは確かに怖い。ましてそこが、トイレのタンクとなれば、なおさらだ。ワタシがもしも世の中にどうしても許すことのできないヤツがいたら、是非この方法を試してみたいものだ。人は誰でも意地悪されるのはいやだが、するのは好きだ。そして、その様子を遠くから眺めるのはもっと楽しいだろう。


 まぁ、いい、問題は今日の雨、そしてあの『招かれざる客』だ。


 傘がない


 確かに『集団』というのは個人のモラルを下げる機能があるのかもしれない。だが、ワタシが待ち望んでいる『状況に至る』ようなことは今のところ起きていない。


 たとえば、あの学生の集団の場合、3人のうち、一人が傘を持っていなかったとすると、残る二人のどちらかの傘に入れてもらえばいい。また二人が持っていない場合は持っているやつが、持っていない二人の行動にあわせることが多い。そしてほとんどの場合、雨が弱くなるまで待つ。やみそうになければ、傘を売っている店――コンビニや気の利いたドラッグストアまで3人で傘に入ればいい。


 やはり、『事が起きるとき』は一人でいるとき、そして、『油断しているとき』なのだ。あの若者のように、そしてここにいる『招かれざる客』のように……


 罪の意識を感じないのかと問われれば、答えに窮しただろう。だが、それをワタシに問える人間など存在しない――ただ一人をおいては……


 最初のときは驚きと恐れと後悔だった。あの日、下駄の男によって持たらされた特別な力――傘を置き忘れることがあってもかならず持ち主のもとに戻るという信じがたい『魔法』は、ワタシに傘に対する愛着を更に深いものにした。何か特別のいわくがある傘ではなかったが、下駄の男――ひょうひょうとして、どこか捉えどころのない不思議な男が『まじない』をかけた日から、特別な傘になったのだが、それでもそれは『ないよりはまし』という程度のことでしかなかった。


 ある日、ワタシの傘が盗まれた。その盗んだ男は過去に下駄の男の傘を盗んで、ちょっとした『御仕置き』をされたにもかかわらず、また同じ事をしたのだ。その男はワタシの傘を盗んで1分もしないうちにこの世を去った。車にはねられたのだ。道路を渡ろうとして駐車している車と車の間から飛び出したところを乗用車にはねられたのだ。打ち所が悪かった。


 この事件がきっかけでワタシの傘は特別な傘になった。この傘が盗んだ者に対してあまりにも過剰な反応をすることに驚き、それを自分が所有していることに恐れ、そしてあの日、下駄の男に出会ったことを後悔した。


 しかし3日後には、驚きはなくなり、恐れる必要はないのだと自分に言い聞かせた。だが、後悔はしている。それは『なぜ下駄の男に出会ってしまったのか』ではなく、私が『ワタシ』であることへの後悔である。つまり『ワタシ』という人間は、このような状況に置かれたとき、この傘を始末するわけでもなく、家の押入れにしまいこむのでもなく、以前となんら代わり映えのしない平凡な日常を過ごしている。


 いや、平凡ではない。まるで狩をするハンターのように、或いは不正を正す番人のように冷たく世間を見つめるようになった。


 今まで見て見ぬフリをしていたものに対して注視し、よりワタシが心地よく過ごせるように『努力』をするようになった。だから下駄の男には感謝している……ということになるのだが、はたしてそのことにはやはり自信がない。あの男が今のワタシの行いを知ったら、果たして……


「ちぃっ!」

 招かれざる客は、携帯のメールを見るや食べかけの料理には目もくれずに席を立った――間違いない。この男はきっとやる。


 レジで勘定を済ます。

「毎度ありがとうございます」

 店員がどんなに愛想よくつり銭を渡しても、まるで無反応だ……外の雨にしか関心がないようだ。招かれざる客は、居心地の悪いと事から、更に居心地の悪いところへ行かなければならないことに対する不快感を隠すことはしなかった。店のドアを開ける。傘置き場には似たような黒い傘が何本かさしてある……持ち主でなければ、ほぼ区別をすることは不可能だろう。男はその中から一本の傘を手に取り傘をさす。しばらくさした傘を眺めてから店の前を離れた。


 ワタシは読んでいた小説を丁寧にかばんにいれ、席を立った。

「ご馳走様」

 心のそこから感謝しているわけではない。親に教わったからでもなければ、学校で教わったからでもない。これは礼儀というよりは流儀の部類だ。すばやく勘定を済ませる。店の外に出る。ワタシの傘はそこにはない。でも大丈夫、ワタシの傘は必ず帰ってくるのだから……


 キキィィィィイ!

 ドォオオオン!

 

 誰か、誰か救急車を!


 激しく降りしきる雨の中、一本の傘が開いたまま、くるくると独楽のように回っている。


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