第3話 延滞はしない

 パパッッ!


 突然、目の前が真っ白になるほど強烈な稲妻が空を駆け巡った。まるで巨大なフラッシュを焚いたようだ。


 ドドーン!


 今日一番の雷ではないだろうか?

 このあたりは比較的人気の住宅地で10階建以上のマンションが立ち並んでいる。実際、近所に落雷が落ちて、パソコンや通信機器がダメになったという話も聞いたことがある。しかし、私の注意を引いたのは雷の音に遅れて聞こえてきた、もう一つの音のほうだ。


 キィィッィ!


 おそらく乗用車のブレーキの音だ。。


 以前、雷雨の中、車で高速を移動したことがあるが、辺りが真っ白になるほどの稲光は、一瞬視野を奪う。思わずブレーキをかけたくなるほど、周りが見えなくなるのである。もしかしたら、今の雷で誰かが急ブレーキを踏んだのかもしれない。


 先ほど、私の目の前で傘を盗んだ男が走り去っていった方角だ。


「馬鹿目が!」


 私の背後から、吐き捨てるような口調で誰かが言った。振り返るとそこには、傘を盗まれた下駄の男が店の出入り口の前に立っていた。


「ちぃっ、濡れて行くかよ」


 下駄の男は、小柄ではあるが、その佇まいからは強い生命力を感じる。照明の灯りが頭部を照らす。男の頭部には髪の毛がない。紺色の作務衣を身にまとい、袖からすっと伸びた腕はいい色に日焼けをしている。口元は真一文字というよりは左に少し吊り上っているよな印象がある。顔にはそれなりのシワがある。男の放つ雰囲気からはある程度の年齢を重ねた威光のようなものが感じられる。50年以上の人生経験は踏んでいるだろうか。しかし、肌の色つや。ギラギラと光る眼付き。まるで20代の若者かと思うほどに活力にあふれていた。


 下駄の男と私の目があった。


「うん?」


 睨みつけられたわけではないが、私がそう感じてしまうほど、下駄の男の発している、なにか得体の知れない迫力、例えるなら「オーラ」或いは「気迫」と言えばいいのだろうか。そのようなものにあてられて私は一瞬怯んでしまった。


「あぁぁ、なんでしょうね、今の?」

 とっさの受け答えとしては、最良だった、と今でも思っている。


「うーん」


 下駄の男は腕組みしながら私を鋭い眼光で見つめていた。


「あぁ、すまん、邪魔だな。ふむ」と言って下駄の男は店の入り口をよけた。

「あぁ、すいません」


 私はこれも『ありがとうございます』より、はるかにこの場に適した受け答えだったと思っている。


 私はそそくさと、店内に入ると、返却の手続きを済ませようとした。


 クソー、「あの」DVDのおかげで、なんだかおかしなことに巻き込まれた!

 まるで「あの映画」の内容みたいじゃないか!



 『延滞はしない』


 それが私のルールである。私は今まで、そのルールを侵したことはなかった。


 返却自体は明日の朝10時までなら店の前の返却BOXに入れても間に合うのだ。しかし予報では明日の朝も雨。だからこうして、前日に返却しようと考えたのだ。


 ……今朝の天気予報。あれさえ見なければ!


「はい、大丈夫です」

 店員はいつもこう言って延滞がないことを確認する。

 あー! 私はいつも大丈夫だ!

 私は、私は……、延滞はしない!


 新作のDVDでも借りようかとも思っていたが、今日はやめることにした。だいたい、つまらないDVDを見た後には、そういうことが続くものである。


 これは私の経験則であり、特に近年の話題作は、ひどいものが多かったかもしれない。新作の棚は返却カウンターから覗ける位置にある。やはり借りたいものは何もない。


 今日はビールが飲めないな。すぐに店を出よう。


 後ろ髪を引かれながらも、店を出ようとすると、出口にはまだ下駄の男が雨を目の前に立ち往生していた。店を出るのには、下駄の男の横を通らなければならない。


 『すいません』と声をかければ、下駄の男は『ああ』と言って私を通してくれるだろう。が、私は少し後ろめたい気持ちがあった。


 私は、下駄の男の傘が盗まれる現場を目撃している。だが、盗まれた本人にそのことを伝える必要はない。なぜなら私は、『傘が盗まれた』という事実を伝えることができるだけで、盗んだ男の人相を細かく伝えられるほど、しっかり見てはいない。


 面倒なだけである。


 他人の傘を盗むような行為に対する嫌悪感はある。そして、それを防ぐことができなかったという自分への不甲斐なさ。

『私はあなたの傘が盗まれるところを黙って見ていました』とわざわざ言う必要がどこにあるのだ?


 情けないだけである。


 私がそんなことを自問自答しながらぼーっとしていると、不意に下駄の男がこちらを振り返った。


「あぁ~、うむ」


 下駄の男の鋭い視線は、私の目には来ていない。私の左手……?


「えっ?」

「傘を持ち込めばよかったのか」

 

 クソッ! そうか!


 私は一瞬凍りついた。


 私は他人の傘が盗まれる現場を目撃し、無意識のうちに自分の傘を傘立てに置かずに店内に持ち込んでいたのである。


「あぁぁ、傘」

 なんとも締まりのない、脈絡もない、そして思慮の足りない受け答えだ!


 これはこの日最悪の一言だった!


「ほー、そうかよ」

 下駄の男はニンヤリと笑ってこちらを見た。見据えた。見定めた。


「御主、ここまで関わったんじゃ。ちーと、つきあってもらうぞい」


 私は頭の悪い男ではない。だからわかる。この男! 下駄の男は!


 この男はそこそこの、或いはかなりの洞察力を持っている。おそらく、私の一連の動作、しぐさ、受け答え、そして、決定的な証拠、傘を店内に持ち込んだこと。これらの情報から、下駄の男の傘が、何者かによって盗まれるところを私が見たと確信しているのである。


 しかし、付き合えとは、どういうことだ?


「雨に濡れるのはかなわん。なーに、すぐそこじゃ」


 家まで送れということか?


 私は下駄の男の家がこの近所にあり、男の家まで私の傘に入れてくれと言っているのだと理解した。


「はぁ」

 まったく、なんで私がこんな目に!


「よし、では、いこうか」


 下駄の男は小柄なので、私の傘に二人で入っても、慌てなければ濡れないように歩けそうだった。店を出て、目の前の信号を渡る。


 こっちは私の家の方向だ。まぁ、よしとするか。しかしこの方向は確かさっき……。

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